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親の世代が意識していた女性ヴァイオリニストといったら、まず諏訪根自子と巌本真理Click!だろうか。前者は、今日のようにいまだ音楽の英才教育プログラムが存在しなかった時代に出現した、日本初の「ヴァイオリンの天才少女」の嚆矢だし、そのあとを追うように5歳年下の少女だった巌本真理が登場している。ちなみに、ふたりはロシアの亡命ヴァイオリニスト・小野アンナの弟子で同門だったが、諏訪根自子がヨーロッパへ旅経ったあと巌本真理が入門しているので、戦前のふたりに接点はなかった。
拙サイトでは、向田邦子Click!による空襲がらみのインタビューで巌本真理Click!のほうは何度か取りあげているが、諏訪根自子についてはいままで触れていなかった。巌本真理は王子電気軌道Click!の巣鴨庚申塚に住んでいたが、諏訪根自子は下落合のすぐ東隣り、川村学園の裏にあたる高田町大原1649番地(のち目白町2丁目1648番地/現・目白2丁目)に1923年(大正12)から住んでいた。以前ご紹介した柳家小さん邸Click!から、北北西へ直線距離でわずか40m余のところだ。山手線・目白駅へも、同様に約200mと非常に近く、地元の人たちも彼女の自宅は鮮明に記憶している。
そして、東京市が35区制Click!へと移行した翌年の1933年(昭和8)、住所が高田町大原1649番地から目白町2丁目1648番地へと変わって間もなく、母と娘たちは父親にあいそをつかしてこの家を出ている。新聞では「諏訪根自子が家出」とセンセーショナルに騒がれたが父母の離婚がらみの別居騒動で、母と娘たちは代々木上原の借家へ転居している。3年後、1936年(昭和11)に諏訪根自子はヨーロッパへ向けて出発し、第二次世界大戦が終わって1946年(昭和21)に帰国するまで、彼女が活躍した舞台はヨーロッパだった。
つまり、マスコミが「ヴァイオリンの天才少女」と書きたて、日本の音楽界や日本駐在の欧州各国の大使、来日した欧米の高名なヴァイオリニストたちが演奏を聞いて高く評価するなど、彼女に注目が集まって大騒ぎになっていた時代が、まさに高田町時代(のち目白町時代)だったのだ。もちろん、諏訪根自子の名前は全国に知れわたっていたので、当時は日本でもっとも有名な最年少ヴァイオリニストだったろう。下落合に住んでいた近衛秀麿Click!も、早くから彼女の演奏に注目していたかもしれない。
高田町1649番地の諏訪家について、すぐ近くに住み高田町四ッ谷(四ッ家)Click!の高田郵便局に勤務していた人物の証言が残されている。音楽評論家の野村光一が、当の郵便局員から直接聞いた話で、1974年(昭和49)に発行された「ステレオ芸術」の座談会で明らかにされた事実だ。その様子を、2013年(平成25)にアルファベータから出版された萩谷由喜子『諏訪根自子』より、孫引き引用してみよう。
▼
その郵便局員の人が言うにはね、「私は今、目白の国鉄停車場近くの川村学院の横にある路地の奥のほうに住んでいて、いつもその路地を通って郵便局に通っているんだけど、途中の一軒の家からとてもすばらしいヴァイオリンの音が毎日流れてくる。そこである時、その家へ入って、いったい誰が弾いているんですか、と尋ねたら、その家の娘さんだという。諏訪さんという家なんだけど、その家はひどい小さなボロ家で、主人は尾羽打ち枯らしている。弾いている二分の一のヴァイオリンはひび割れがしているのに絆創膏が貼ってあるような代物で、先生は小野アンナさんだそうだけど、このところ停滞しているようで気になってしょうがない。あれだけの才能がある人はちょっといないのじゃないかと思うので、是非一度聴いてくれ」っていうんだよ。その人はとってもクラシックが好きなんだそうだけど、ずいぶん御節介な話でしたね。
▲
野村光一にしてみれば面倒な依頼だったが、実際に目白駅で降りて少女の家を訪ねボロボロのヴァイオリンが奏でるサラサーテを聴いたとたん、度肝を抜かれてしまった。耳の肥えた彼が聴いても、その演奏は少女とは思えない高度なレベルに達していたからだ。
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諏訪根自子の英才教育は、母親の諏訪瀧(たき)によって施されたものだった。同書によれば、起床は毎朝午前6時で登校する前からヴァイオリンの練習をしていた。彼女が通った小学校は、4年生の1学期までが高田第三尋常小学校(現・高南小学校)で、卒業までは開校したばかりの高田第五尋常小学校(現・目白小学校Click!)だった。母親は学校と交渉し、午前中に授業を1~2時限受けたあと早退させ、昼食までヴァイオリンの練習をさせたのち、1時間の午睡のあと小日向にあった小野アンナの教室へ通わせている。レッスンが終って帰宅すると、夕食までは練習の時間で、食後の午後7時になると就寝という生活だった。ヴァイオリンの練習が、イヤでイヤでしかたがなかった少女時代の巌本真理に比べ、諏訪根自子はレッスンがかなり好きだったふしが見える。
野村光一との出会いがきっかけで、3歳から通っていた小野アンナのレッスンにつづき、彼の紹介で革命ロシアから日本に亡命していたヴァイオリニスト、アレクサンダー・モギレフスキーに師事することになった。1930年(昭和5)のことで、彼女が10歳のときだった。また、この年は来日したエフレム・ジンバリストを小野アンナとともに帝国ホテルClick!に訪ね、その演奏を絶賛されている。このころから、新聞でも諏訪根自子のことが報道されはじめ、その名は全国的に知られるようになった。
親の世代ならともかく、わたしの世代は1980~90年代にかけ、キングレコードから20~30年ぶりにバッハやベートーヴェンの新譜がつづけてプレスされていたにもかかわらず、諏訪根自子の名前はあまりピンとこない。巌本真理のほうが、まだ戦前戦後を通じて絶え間なく活躍していたせいか、わたしでも名前やその演奏を知っているが、残念ながら諏訪根自子の影はすでに「伝説のヴァイオリニスト」化していて薄かった。
だが、「ヴァイオリンの天才少女」というショルダーで呼ばれたのは、諏訪根自子が日本で初めてだったし、事実、彼女の演奏は高度なテクニックとともに正確無比で、透きとおるような調べを奏でるのが得意だった。諏訪根自子と対比されることが多かった巌本真理は、よく「情熱的」などと書かれエモーショナルでキラキラするような演奏の個性が光っていたが、諏訪根自子はどこまでも端正かつクールできっちりとした几帳面な表現が持ち味だったのではないかと、その演奏を聴くたびに感じている。
これは当時のリスナーでも、好みがきれいに分かれたのではないだろうか。1980~90年代のたとえでいえば、当時は大人気だったマーラー・チクルスの録音で、うねるような弦楽器が艶やかでビロードのようなバーンスタイン=ウィーンpoが好きという人と、管楽器が華やかでキラキラと美しく光輝くようなショルティ=シカゴsoが好きという人に分かれたように(オーディオClick!好きはワンポイントマイクのインバル=フランクフルト放送soが多かった)、演奏やサウンドの好みで根自子派と真理派へきれいに分かれていたような気がする。(もっとも、男子の中には容姿で好みを分けていた人がいたかもしれないが/爆!)
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諏訪根自子が徳川義親Click!や山田耕筰Click!、有島生馬Click!、近衛文麿Click!などの後援を得てヨーロッパへ留学する以前に、彼女は1933年(昭和8)から1935年(昭和10)までの3回にわたり、日本コロムビアへ演奏を録音している。特に後半の録音は、日本に残す離婚をした母親と妹の生活を少しでも安定させる目的があった。当時はSP盤で短い曲ばかりの都合45曲だが、諏訪根自子から家族の生活に関する心配を聞き、レコーディングを勧めたのは近衛秀麿だった。戦後、彼女は留守中の家族への印税支払いを近衛秀麿に依頼したのが、そもそもの大まちがいだったことに気づくことになる。同書より、再び引用してみよう。
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近衛の話では、レコードの印税は根自子の渡欧中に瀧たち留守家族に入るから、安心して旅立つように、とのこと。十五歳の少女とはいえ、幼いときから母親の苦労をみてきた根自子は、自分の留守中の家族に少しでも楽をさせてやりたいという思いから、この録音話を引き受けたのである。録音は無事に終わってレコードも発売され、根自子は自分の留学中、印税が当然、瀧の手に渡るものと思って安心して旅立った。/ところが、戦後になって、瀧の懐には一銭も入っていなかったことが判明する。それを知った根自子の怒りと悲しみは大きく、近衛にただしてみようと思い悩んだがそれもできずに、結局はうやむやになってしまった。/ちょうどレコーディングの年、昭和十年(一九三五年)は、近衛が実質的オーナーであった新響に内紛が生じた年で、彼は深刻な経済苦境に陥っていた。どういう性格の金であれ、いったん自分のもとに流れてきた金はすべて自分の音楽事業に投じても、それはなんらやましいことではない、といった鷹揚とも不遜ともとれる金銭感覚が名門出の彼にはあったようだ。
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端的にいえば、年端もいかない少女を騙してカネをまきあげた近衛秀麿の詐欺事件であって、彼が「名門」だろうが「労働者」だろうが、刑事事件での詐欺罪に問われるべき事案だろう。敗戦後のどさくさと、諏訪根自子の自制とで表沙汰になることはなかった。近衛秀麿は平然と、戦後も何度か彼女と共演さえしている。
諏訪根自子が戦前のSP盤用に録音した、近衛秀麿による印税ネコババの全曲目は、現在、日本コロムビアからリリースされているアルバム『諏訪根自子の芸術 Early recordings 1933-1935』(2013年)で聴くことができる。1933年(昭和8)録音のスローテンポの曲にはいまだ不安定さがかなり残るが、アップテンポの曲では破綻がほとんどみられず、当時の人々が驚嘆した演奏が繰り広げられている。1年おきの録音ごとに、技量へ磨きがかかっているのが明らかで、彼女の12歳から14歳までの成長の軌跡をもれなく聴くことができる。
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諏訪根自子は1960年(昭和35)以降、コンサートもレコーディングもやめてしまい、結婚生活に入るとともに沈黙をつづけることになるが、70年代後半から少しずつ小規模ながら演奏活動を再開している。1981年(昭和56)11月、ヴァイオリン曲の最高峰といわれている『バッハ/無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ全曲』(キングレード)がLP3枚組で突然リリースされると、音楽界やクラシックファンたちを再び驚嘆させることになる。それは、結婚生活でもたゆまぬ練習をつづけていたせいか、彼女の技術も演奏もまったく衰えてはおらず、むしろ進化していたせいなのだが、それはまた、別の物語……。
◆写真上:ヨーロッパで活躍中の、諏訪根自子をとらえたポートレートのアップ。
◆写真中上:上は、高田町大原1649番地(1932年10月より目白町2丁目1648番地)にあった諏訪根自子邸跡の現状。中は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同所で、すでに「小さなボロ家」などと書かれた借家は建て替えられているのかもしれない。下は、諏訪根自子のブロマイドで当時の男子学生には圧倒的な人気だった。
◆写真中下:上は、演奏する少女時代の諏訪根自子。中左は、2013年(平成25)リリースの『諏訪根自子の芸術』(日本コロムビア)。中右は、デビューしたての諏訪根自子。下は、冒頭の写真と同時期に撮影されたヨーロッパでの諏訪根自子で、クナッパーツブッシュClick!指揮のベルリンpoやワイスバッハ指揮のウィーンpoなどとも共演している。
◆写真下:上左は、2013年(平成25)に出版された萩谷由喜子『諏訪根自子』(アルファベータ)。上右は、ヨーロッパの諏訪根自子コンサートをとらえたワンショット。中は、1957年(昭和32)にニッポン放送開局65周年記念で行われた伝説のコンサートの様子。この日はバッハの作品が演奏されたが第1ヴァイオリンに諏訪根自子、第2ヴァイオリンに巌本真理、指揮が斎藤秀雄と信じられない顔ぶれが並んでいる。下は、下落合1丁目436番地(現・下落合3丁目)にあった近衛秀麿邸跡の現状で、諏訪根自子邸から直線距離で490mほどの距離だ。
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親の世代が意識していた女性ヴァイオリニストといったら、まず諏訪根自子と巌本真理Click!だろうか。前者は、今日のようにいまだ音楽の英才教育プログラムが存在しなかった時代に出現した、日本初の「ヴァイオリンの天才少女」の嚆矢だし、そのあとを追うように5歳年下の少女だった巌本真理が登場している。ちなみに、ふたりはロシアの亡命ヴァイオリニスト・小野アンナの弟子で同門だったが、諏訪根自子がヨーロッパへ旅経ったあと巌本真理が入門しているので、戦前のふたりに接点はなかった。
拙サイトでは、向田邦子Click!による空襲がらみのインタビューで巌本真理Click!のほうは何度か取りあげているが、諏訪根自子についてはいままで触れていなかった。巌本真理は王子電気軌道Click!の巣鴨庚申塚に住んでいたが、諏訪根自子は下落合のすぐ東隣り、川村学園の裏にあたる高田町大原1649番地(のち目白町2丁目1648番地/現・目白2丁目)に1923年(大正12)から住んでいた。以前ご紹介した柳家小さん邸Click!から、北北西へ直線距離でわずか40m余のところだ。山手線・目白駅へも、同様に約200mと非常に近く、地元の人たちも彼女の自宅は鮮明に記憶している。
そして、東京市が35区制Click!へと移行した翌年の1933年(昭和8)、住所が高田町大原1649番地から目白町2丁目1648番地へと変わって間もなく、母と娘たちは父親にあいそをつかしてこの家を出ている。新聞では「諏訪根自子が家出」とセンセーショナルに騒がれたが父母の離婚がらみの別居騒動で、母と娘たちは代々木上原の借家へ転居している。3年後、1936年(昭和11)に諏訪根自子はヨーロッパへ向けて出発し、第二次世界大戦が終わって1946年(昭和21)に帰国するまで、彼女が活躍した舞台はヨーロッパだった。
つまり、マスコミが「ヴァイオリンの天才少女」と書きたて、日本の音楽界や日本駐在の欧州各国の大使、来日した欧米の高名なヴァイオリニストたちが演奏を聞いて高く評価するなど、彼女に注目が集まって大騒ぎになっていた時代が、まさに高田町時代(のち目白町時代)だったのだ。もちろん、諏訪根自子の名前は全国に知れわたっていたので、当時は日本でもっとも有名な最年少ヴァイオリニストだったろう。下落合に住んでいた近衛秀麿Click!も、早くから彼女の演奏に注目していたかもしれない。
高田町1649番地の諏訪家について、すぐ近くに住み高田町四ッ谷(四ッ家)Click!の高田郵便局に勤務していた人物の証言が残されている。音楽評論家の野村光一が、当の郵便局員から直接聞いた話で、1974年(昭和49)に発行された「ステレオ芸術」の座談会で明らかにされた事実だ。その様子を、2013年(平成25)にアルファベータから出版された萩谷由喜子『諏訪根自子』より、孫引き引用してみよう。
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その郵便局員の人が言うにはね、「私は今、目白の国鉄停車場近くの川村学院の横にある路地の奥のほうに住んでいて、いつもその路地を通って郵便局に通っているんだけど、途中の一軒の家からとてもすばらしいヴァイオリンの音が毎日流れてくる。そこである時、その家へ入って、いったい誰が弾いているんですか、と尋ねたら、その家の娘さんだという。諏訪さんという家なんだけど、その家はひどい小さなボロ家で、主人は尾羽打ち枯らしている。弾いている二分の一のヴァイオリンはひび割れがしているのに絆創膏が貼ってあるような代物で、先生は小野アンナさんだそうだけど、このところ停滞しているようで気になってしょうがない。あれだけの才能がある人はちょっといないのじゃないかと思うので、是非一度聴いてくれ」っていうんだよ。その人はとってもクラシックが好きなんだそうだけど、ずいぶん御節介な話でしたね。
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野村光一にしてみれば面倒な依頼だったが、実際に目白駅で降りて少女の家を訪ねボロボロのヴァイオリンが奏でるサラサーテを聴いたとたん、度肝を抜かれてしまった。耳の肥えた彼が聴いても、その演奏は少女とは思えない高度なレベルに達していたからだ。
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諏訪根自子の英才教育は、母親の諏訪瀧(たき)によって施されたものだった。同書によれば、起床は毎朝午前6時で登校する前からヴァイオリンの練習をしていた。彼女が通った小学校は、4年生の1学期までが高田第三尋常小学校(現・高南小学校)で、卒業までは開校したばかりの高田第五尋常小学校(現・目白小学校Click!)だった。母親は学校と交渉し、午前中に授業を1~2時限受けたあと早退させ、昼食までヴァイオリンの練習をさせたのち、1時間の午睡のあと小日向にあった小野アンナの教室へ通わせている。レッスンが終って帰宅すると、夕食までは練習の時間で、食後の午後7時になると就寝という生活だった。ヴァイオリンの練習が、イヤでイヤでしかたがなかった少女時代の巌本真理に比べ、諏訪根自子はレッスンがかなり好きだったふしが見える。
野村光一との出会いがきっかけで、3歳から通っていた小野アンナのレッスンにつづき、彼の紹介で革命ロシアから日本に亡命していたヴァイオリニスト、アレクサンダー・モギレフスキーに師事することになった。1930年(昭和5)のことで、彼女が10歳のときだった。また、この年は来日したエフレム・ジンバリストを小野アンナとともに帝国ホテルClick!に訪ね、その演奏を絶賛されている。このころから、新聞でも諏訪根自子のことが報道されはじめ、その名は全国的に知られるようになった。
親の世代ならともかく、わたしの世代は1980~90年代にかけ、キングレコードから20~30年ぶりにバッハやベートーヴェンの新譜がつづけてプレスされていたにもかかわらず、諏訪根自子の名前はあまりピンとこない。巌本真理のほうが、まだ戦前戦後を通じて絶え間なく活躍していたせいか、わたしでも名前やその演奏を知っているが、残念ながら諏訪根自子の影はすでに「伝説のヴァイオリニスト」化していて薄かった。
だが、「ヴァイオリンの天才少女」というショルダーで呼ばれたのは、諏訪根自子が日本で初めてだったし、事実、彼女の演奏は高度なテクニックとともに正確無比で、透きとおるような調べを奏でるのが得意だった。諏訪根自子と対比されることが多かった巌本真理は、よく「情熱的」などと書かれエモーショナルでキラキラするような演奏の個性が光っていたが、諏訪根自子はどこまでも端正かつクールできっちりとした几帳面な表現が持ち味だったのではないかと、その演奏を聴くたびに感じている。
これは当時のリスナーでも、好みがきれいに分かれたのではないだろうか。1980~90年代のたとえでいえば、当時は大人気だったマーラー・チクルスの録音で、うねるような弦楽器が艶やかでビロードのようなバーンスタイン=ウィーンpoが好きという人と、管楽器が華やかでキラキラと美しく光輝くようなショルティ=シカゴsoが好きという人に分かれたように(オーディオClick!好きはワンポイントマイクのインバル=フランクフルト放送soが多かった)、演奏やサウンドの好みで根自子派と真理派へきれいに分かれていたような気がする。(もっとも、男子の中には容姿で好みを分けていた人がいたかもしれないが/爆!)
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諏訪根自子が徳川義親Click!や山田耕筰Click!、有島生馬Click!、近衛文麿Click!などの後援を得てヨーロッパへ留学する以前に、彼女は1933年(昭和8)から1935年(昭和10)までの3回にわたり、日本コロムビアへ演奏を録音している。特に後半の録音は、日本に残す離婚をした母親と妹の生活を少しでも安定させる目的があった。当時はSP盤で短い曲ばかりの都合45曲だが、諏訪根自子から家族の生活に関する心配を聞き、レコーディングを勧めたのは近衛秀麿だった。戦後、彼女は留守中の家族への印税支払いを近衛秀麿に依頼したのが、そもそもの大まちがいだったことに気づくことになる。同書より、再び引用してみよう。
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近衛の話では、レコードの印税は根自子の渡欧中に瀧たち留守家族に入るから、安心して旅立つように、とのこと。十五歳の少女とはいえ、幼いときから母親の苦労をみてきた根自子は、自分の留守中の家族に少しでも楽をさせてやりたいという思いから、この録音話を引き受けたのである。録音は無事に終わってレコードも発売され、根自子は自分の留学中、印税が当然、瀧の手に渡るものと思って安心して旅立った。/ところが、戦後になって、瀧の懐には一銭も入っていなかったことが判明する。それを知った根自子の怒りと悲しみは大きく、近衛にただしてみようと思い悩んだがそれもできずに、結局はうやむやになってしまった。/ちょうどレコーディングの年、昭和十年(一九三五年)は、近衛が実質的オーナーであった新響に内紛が生じた年で、彼は深刻な経済苦境に陥っていた。どういう性格の金であれ、いったん自分のもとに流れてきた金はすべて自分の音楽事業に投じても、それはなんらやましいことではない、といった鷹揚とも不遜ともとれる金銭感覚が名門出の彼にはあったようだ。
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諏訪根自子が戦前のSP盤用に録音した、近衛秀麿による印税ネコババの全曲目は、現在、日本コロムビアからリリースされているアルバム『諏訪根自子の芸術 Early recordings 1933-1935』(2013年)で聴くことができる。1933年(昭和8)録音のスローテンポの曲にはいまだ不安定さがかなり残るが、アップテンポの曲では破綻がほとんどみられず、当時の人々が驚嘆した演奏が繰り広げられている。1年おきの録音ごとに、技量へ磨きがかかっているのが明らかで、彼女の12歳から14歳までの成長の軌跡をもれなく聴くことができる。
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◆写真上:ヨーロッパで活躍中の、諏訪根自子をとらえたポートレートのアップ。
◆写真中上:上は、高田町大原1649番地(1932年10月より目白町2丁目1648番地)にあった諏訪根自子邸跡の現状。中は、1938年(昭和13)作成の「火保図」にみる同所で、すでに「小さなボロ家」などと書かれた借家は建て替えられているのかもしれない。下は、諏訪根自子のブロマイドで当時の男子学生には圧倒的な人気だった。
◆写真中下:上は、演奏する少女時代の諏訪根自子。中左は、2013年(平成25)リリースの『諏訪根自子の芸術』(日本コロムビア)。中右は、デビューしたての諏訪根自子。下は、冒頭の写真と同時期に撮影されたヨーロッパでの諏訪根自子で、クナッパーツブッシュClick!指揮のベルリンpoやワイスバッハ指揮のウィーンpoなどとも共演している。
◆写真下:上左は、2013年(平成25)に出版された萩谷由喜子『諏訪根自子』(アルファベータ)。上右は、ヨーロッパの諏訪根自子コンサートをとらえたワンショット。中は、1957年(昭和32)にニッポン放送開局65周年記念で行われた伝説のコンサートの様子。この日はバッハの作品が演奏されたが第1ヴァイオリンに諏訪根自子、第2ヴァイオリンに巌本真理、指揮が斎藤秀雄と信じられない顔ぶれが並んでいる。下は、下落合1丁目436番地(現・下落合3丁目)にあった近衛秀麿邸跡の現状で、諏訪根自子邸から直線距離で490mほどの距離だ。