戦争末期の1945年(昭和20)、大江賢次Click!は故郷への疎開を考えはじめている。相変わらず小滝橋Click!近くの旧・神田上水(1966年より神田川)沿い、このときは結婚して柏木5丁目(現・北新宿4丁目)の借家だと思われるが、二度めの連れ合いであるひで夫人とともに住んでいた彼は、前線に従軍取材した作家たちとともに、全国を講演旅行しながらなんとか飢えずに食べていた。前線では、立野信之Click!や武田麟太郎Click!、川端龍子Click!、鶴田吾郎Click!らといっしょだった。
前年の暮れに、片岡鉄兵Click!が旅先の和歌山で急逝している。大江賢次は、若いころから非常に世話になった恩人なので、和歌山から光枝夫人Click!と川端康成Click!とともに西落合へもどった遺骨を囲む通夜の席に急行すると、元・プロレタリア文学派や芸術派を問わず、当時のおもな作家たちが続々と集まってきた。大江賢次は、改めて片岡鉄兵の顔の広さと、人間関係の厚さや人づきあいのていねいさに感嘆している。
その席で、立野信之Click!から全国各地での「前線」講演についてひやかされると、横光利一Click!がすかさず「大江君なら……壇上でだまつていたつて、受けるよ」と、真面目な顔をしていわれた。そのひと言で、通夜の席にもかかわらず参列者たちがドッとわいた。ふだんは寡黙な横光利一がしゃべったので、よけいに周囲の作家たちから受けたのだろうが、大江賢次のアゴにからめての冗談に、いくら食うためとはいえ「転向」したプロレタリア作家が積極的に軍に協力してどうするのか、それでいいのかよ?……という批判がこめられていたと、大江はその言葉を真摯に受けとめている。
特高による検挙と、たび重なる拷問に耐えきれず表面上は「転向」を装ってはいたが、多くの作家たちがそうであったように彼もまた、内面の思想性はほとんど変わっていなかったのだ。それを知っている横光利一から、大江賢次は改めて主体性を問いつめられたと強く感じている。それに、特徴のあるアゴについて冷やかされるのにはすっかり慣れ、自意識過剰だった昔のように頭へ血がのぼって怒り狂うこともなくなり、横光利一の言葉を、冷静に受けとめられる余裕が生まれていた。
大江賢次が東京にやってきて間もなく、実業之日本社に勤めていた若いころ、こんなことがあった。東京朝日新聞社が主催する「歳末救済週刊」で、岡本一平Click!が似顔絵を描くイベントがあった。大江賢次は、当時から著名な漫画家だった岡本一平に描いてもらおうと列に並んだ。自分の番がくると、岡本一平はそれまでのていねいさとは異なり、いかにも無造作に描いて「君はお代はいいんです」といった。もちろん、アゴをことさら強調したラフな似顔絵だったのだろうが、周囲から笑いもんにされた大江賢次はカネを払って色紙を受けとると、数寄屋橋の上からビリビリに破いて内濠に色紙を投げ棄てている。その少しあと、武者小路実篤邸Click!で岸田劉生Click!との間でも同じことが起きているが、そのときはやや自制がきくようになっていたせいか破り棄てるようなことはなかった。
1944年(昭和19)秋の「台湾沖航空戦」と呼ばれた戦闘で、大本営は「米空母19隻、戦艦4隻、巡洋艦7隻、その他15隻を撃沈および撃破した」と「集計」し、日本近海に進出していた大規模な米機動部隊を「殲滅」したと発表したが、もちろんその戦果はまったくのデタラメで、同年の暮れから翌1945年(昭和20)にかけ東京への空襲はますます激しさを増していった。そのような状況下、柏木5丁目の借家で暮らしていた大江賢次の連れ合い、ひで夫人は3人めの子どもを身ごもっていた。
狭い庭に防空壕を掘り、空襲警報のサイレンが鳴るたびに、ふたりの子どもと夫人を中へ避難させていたが、大江自身は町内役員を引き受けていたため、空襲のたびに敵機の動きを見張る役目をはたしていた。おそらく、池袋上空を見張っていた武井武雄Click!と同様に、“防空班長”を引き受けていたのだろう。このとき、町内に住む住民たちの疎開や避難を熱心に手助けしていたことが、戦後、それを憶えていた住民たちの好意で、江古田に安く自邸を建設することができている。
「転向」したとはいえ、元・プロレタリア作家などの自宅は「アカの家」Click!などと呼ばれて敬遠された当時、近所の町民たちから頼られ慕われた大江賢次は、まったくの例外的な存在だ。小作人が出自の大江賢次は、多くの作家たちがそうだったように大学出のインテリ臭さがまったくなく、アゴに特徴のある親しみやすい風貌をしていたせいで、周囲の町民たちからあまり警戒されなかったのだろう。
空襲のさなか、防空壕に避難していたひで夫人に陣痛がはじまったときも、近所の人々と相談して、大急ぎで聖母病院へ担ぎこんでいる。そのときの様子を、1958年(昭和33)に新制社から出版された大江賢次『アゴ傳』から引用してみよう。
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「お腹が痛みだしてきたの……困つたわね」と、ひでは子供たちに気取られまいとおだやかに告げた。/これは事である、一刻の猶予もならない。まさか貧弱な壕で分娩もできまい。とつさに頭へひらめていのは、下落合の聖母病院だつた。ここは外国資本だし(ママ)するから大丈夫にちがいない。が、乗物とて何もありはしないのだ。そこで近所の人たちに相談をして、やつとリヤカーを壱台借りうけるとそれに座布団をしいて坐らせ、人かげのない道路をいつさんにひつぱつて走つた。/「ま、綺麗……!」と、ひではかるく呻きながら空を仰いで思わず叫んだ。/西日をうけた上空を、B29が銀色にかがやく三機編成の梯隊となつて、それに追いすがる戦闘機の飛行機雲が白くあざやかに弧をえがき、曲線も流麗な悽愴きわまる友禅模様をえがいていた。
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ひで夫人は、リヤカーで聖母病院Click!にたどり着くと無事に男の子を産み、大江家は5人家族となった。1945年(昭和20)3月10日の東京大空襲Click!では、(城)下町Click!の大火災で柏木5丁目の自宅で新聞が読めるほどだったという。これとまったく同じ証言を、東中野駅の近くに住んでいた秋山清Click!が新聞が読めたと、『昼夜なく―アナキスト詩人の青春―』(筑摩書房/1986年)の中で証言している。おそらく、大火災の火焔とともに大量に投下された照明弾の光が、灯火管制で真っ暗な東中野界隈までとどいていたのだろう。
大江賢次は、妻子を連れて鳥取への疎開を考えはじめたが、町内の役目を放棄していち早く疎開するのは卑怯なことだと感じ、家族で話しあって近くに避難できる広大な戸山ヶ原Click!もあるので、空襲で自宅が焼けるまではがんばろうと決めた。この思いは、小滝台住宅地Click!に自邸を建設して住んでいた芹沢光治良Click!も同じだったようで、ふたりは東京の最期をこの目で見ようと悲愴な思いで語りあっている。
だが皮肉なことに、旧・神田上水沿いに建っていた大江賢次の自宅は、都心(1944年より東京都)から徐々に伸びてくる防火帯建設Click!(建物疎開Click!)にひっかかり、1週間以内に立ち退けという命令がきた。この建物疎開は、江戸川橋から伸びてきた防火帯36号江戸川線と、新宿駅から伸びてきた防火帯32号線が、柏木地域で旧・神田上水沿いに合流するという計画だった。突然、自宅を壊すのですぐに立ち退けといわれたら、誰でも混乱するだろう。大江賢次は、ここでも町内の住民たちに相談している。
住民たちは、大江賢次に去られるのが心細かったのか、妻子は疎開させても家を提供するので町内に残ってくれと懇願されている。同書より、再び引用してみよう。
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急に神田上水にそつた私たちの住宅が強制疎開ときまり、大きな防火溝になるから一週間以内に立退けという達しがきた。容赦のない厳命である。その短日時にどうして満足に疎開できよう。で、ひとまず私の故郷の生家へ妻子を疎開させて、自身はふたたび引返してこの町のどこかに住もうと思いたつた。町の有志たちも、心強いからぜひそうしてくれと疎開空家を提供してくれたので、私は寝具と机や炊事道具をそこへ運び、若干は下落合の古田昂生の家へあずけ、おそらくとても届きはしないだろうが家具類を荷造りして、東中野駅へ持つていつた。駅の貨物係は山のような疎開荷物に埋もれて、/「この駅だけで、ひと列車がとこいりますぜ」と、肩をすくめた。
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町民たちの好意から、せっかく柏木5丁目に住む空き家を提供され、東京に残ることが決まっていた大江賢次だったが、彼が妻子を故郷へ送りとどけにいっている最中に山手大空襲にみまわれ、柏木5丁目一帯は一夜のうちに焦土と化してしまった。
上記の文中に、「下落合の古田昂生」の名前が登場している。脚本家で作詞家だった古田昂生は戦時中、下落合のどこに住んでいたのかは不明だが、名古屋で発刊していた映画雑誌『中京キネマ』や『キネマ文藝』はとうに廃刊していたのだろう。その後は、映画の脚本づくりに専念しており、戦前には『水戸黄門』や『風流やくざ』、『大名古屋行進曲』などを執筆していた。また、作詞では1933年(昭和8)に『中京小唄』がヒットしている。
◆写真上:小滝橋付近を流れる、神田川(旧・神田上水)の現状。
◆写真中上:上は、大江賢次が住んでいた柏木5丁目(現・北新宿4丁目)界隈の現状。中は、当時は「小説の神様」といわれていた横光利一(左)と、売れていた漫画家の岡本一平(右)。下は、1940年(昭和15)ごろに撮影された小滝橋とその周辺。
◆写真中下:上は、小滝橋の橋柱で大江賢次が暮らしていた当時のままだ。中は、1945年(昭和20)4月7日に撮影された小滝橋界隈で、防火帯工事(建物疎開)の進んでいるのが見える。下は、1945年(昭和20)8月28日に撮影された聖母病院。
◆写真下:上は、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲でB29から撮影された東京市街地。焼夷弾が落ちていく街並みが、東京のどこなのか調べているがいまだに不明だ。中は、1947年(昭和22)の空中写真にみる柏木5丁目の焼け跡、下は、戦時中は下落合に住んでいた古田昂生が1972年(昭和47)に出版した『酒井潔覚え書』(左)と、大正期から名古屋で編集していた映画雑誌「中京キネマ」の後継雑誌の「キネマ文藝」(右)。