1932年(昭和7)6月、落合町葛ヶ谷24番地(のち西落合1丁目24番地)に住む医学博士・富永哲夫が、帝國生命保険の求めに応じて著した『家庭衛生の常識』という小冊子を、親しい知人からいただいた。非常に貴重な小冊子で、著者は佐伯祐三Click!の「下落合風景」シリーズClick!の1作『看板のある道』Click!に登場していた、当時は内科の富永医院を開業していたあの富永哲夫だ。
この小冊子が刊行された当時、富永哲夫は葛ヶ谷の富永医院を閉院し、改めて東京市の衛生試験所に勤務している最中で、名刺へ「東京市技師/医学博士」と印刷していた時期にあたる。また、1932年(昭和7)は『落合町誌』(落合町誌刊行会)が出版された年でもあり、彼は東京市技師・医学博士として近影とともに紹介されている。
富永哲夫の『家庭衛生の常識』は、帝國生命保険の健康増進部が刊行していた「健康増進叢書」の第7篇であり、ほかにも『長寿法』や『強肺と健肺』、『食養生問答』といった、当時の家庭生活には欠かせない衛生や医学に関する知識を啓蒙する目的で編集された小冊子シリーズだった。当時、東京市へ勤務する公務員だったはずの富永哲夫が、なぜ民間の生命保険会社のいわばSPツールに執筆できたのかは不明だが、当時はいまほどガバナンスが厳しくなく、公務員でも柔軟に仕事ができたのかもしれない。
昭和初期は、いまだ病気の原因となるウィルスの存在がほとんど知られておらず、「インフルエンザ」という用語は存在したが、それが発症するのは体内から多く発見される「インフルエンザ菌」が主因であると考えられていた時代だ。事実、インフルエンザ菌は実在しており、すべてのインフルエンザは菌による発症ととらえられていたため、流行時には衛生管理と消毒が特に重要視されていた。また、結核菌Click!が猛威をふるっていたのも昭和初期で、「家庭衛生」はいかに生活を清潔に保ち、効果的な消毒(すなわち滅菌・減菌を通じてリスク低減)を行うかがメインテーマとして取りあげられている。
だが、そもそもウィルスは生物ではないので代謝をしておらず、いくら「消毒」しても毒を摂取し、また排泄しない以上「死なない」し、その存在は出現するか(変異を繰り返して)いずこかへ潜伏(消滅)するかしかなく、生物の範疇とは規定できないので、生物学からウィルス学がほぼ切り離されて独立したのは、同小冊子が書かれてから約50年後の、わたしがちょうど学生時代を送っていた1980年(昭和55)前後になってからのことだ。つまり、『家庭衛生の常識』で取りあげられている「衛生」は、あくまで生き物としてのおもに「菌」や「害虫」を対象としているテーマや課題が前提となる。
『家庭衛生の常識』が書かれたのは、「スペイン風邪」のパンデミックからまだ12年しかたっていない時期だ。同冊子より、富永哲夫の衛生に対する規定を引用してみよう。
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「人体の生理的機能を熟知し、吾人の外界に発生する万般の現象を研究し、之に基き吾人の健康を保持し、更に進んで之を増進す」と云ふ衛生学を充分理解して、一に吾人の健康を害すべき諸般の事項を避け、或は之を除き、二に吾人身体の抵抗力を大ならしめ、外来の侵襲に能く耐るやうに鍛錬しなければならぬのである。
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ここで、イギリスの経済学者マルサスの言葉を引用し、「衛生学の進歩は急速に人口の生殖増加を来し、終に居る土地なく、食ふに物なきの苦境に陥る」という、有名な『人口論』(懐かしい!)の一節を紹介したあと、多くの人間は長寿を望んでいるのであるから、それだけでも衛生学の存在意義は明らかであり、事実、衛生学の普及以降は平均寿命が劇的に伸長しているイギリスの事例を挙げて婉曲に批判している。
当時のデータによれば、ロンドン市における1680年ごろの平均寿命は27歳ほどだが、衛生状態がよくなるにつれ、1840年ごろには35歳となり、1930年代当時の平均寿命は50歳になろうとしていると例示している。ちなみに日本では、1600年代の平均寿命は34~35歳、1700年代には32歳、1800年代後半には44歳、1920年代の平均寿命は43歳となっている。だが、『家庭衛生の常識』が書かれたわずか13年後の1945年(昭和20)には、戦争により平均寿命は31歳と江戸時代へ逆もどりしている。日本で平均寿命が50歳を超えるのは、戦後1947年(昭和22)になりベビーブームが到来して以降のことだ。
さて、同書は家庭衛生が主題なので、耐菌や滅菌の話=消毒から入るかと思いきや、まず「炭酸」ガスのテーマを取りあげている。文章では「炭酸」と書いているが、もちろん有害な一酸化炭素(CO)のことだ。人間の生存にとって、もっとも重要なのは空気であり、中でも酸素は体内に入ると栄養素や物質の酸化分解を促進し、生存への活力を生むものだが、空気中には有害な一酸化炭素も含まれているので注意が必要だとしている。
当時の都市部では、一酸化炭素を大量に吐きだす工場やクルマがも多かっただろうが、それにも増して家庭内には炭やガス、練炭(れんたん)、炭団(たどん)などを使った暖房や調理器具が普及しており、家庭内で発生する一酸化炭素の量が多かったとみられる。通常、屋外における一酸化炭素の含有量は0.3~0.4%(当時)としているが、その割合が1.0%を超えると多少の息苦しさや頭痛をおぼえ(いわゆる空気が汚染されているレベルになり)、2.0%を超えると呼吸困難やめまい、耳鳴りなどの症状を起こし、空気中で10.0%を超えると意識を失い、30.0%では即死するとしている。
たとえば、狭い部屋で調理に練炭やガスを使い、室内の暖房用に火鉢では炭、こたつやストーブでは炭団や石炭、あるいはガスを使用していたとすると、一酸化炭素中毒になる危険率がかなり高まっただろう。ただし、当時の住宅には密閉された空間が少なく、今日のようにコンクリートやモルタル(セメント)にアルミサッシといった、外部の空気との対流が起きにくいような造りの部屋は少なかったとみられ、よほど不注意な使い方をしなければ生命にかかわるようなことはなかったとみられる。
このあと、なぜか理科の教科書のようにガラス壜やカラス管、ゴム管、試薬などを使って一酸化炭素を発生させる実験を図入りで解説しているが、とりあえず「家庭衛生」には不要な記述のように思われる。それとも、富永哲夫が特別に書きたかったCO発生実験だったのだろうか。同実験のあと、「恐るべき一酸化炭素」として当時の中毒事件を紹介している。同書より、つづけて引用してみよう。
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炭酸が人間に中毒を惹起する程多量になることは非常に稀である。実際炭酸によつて危険症状は「マンホール」とか、深井戸等の中に於て稀に起るに過ぎないものである。/昭和五年一月九日東京市内に配布された新聞紙上を賑はした記事に/「昨八日市内下谷区金杉町に於て軒並に三軒の家族が瓦斯中毒を起し半死半生なるを発見し大騒となり手当中なるも生命危篤なり」と云ふのがあつた。/昨年十二月の初旬貴族院議員法学博士花井卓蔵氏が瓦斯中毒によつて斃れたのも、本年一月廿八日四谷警察署警部の瓦斯中毒によつて斃れたのも、未だ記憶に新たな所である。
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いずれも、ガスによる一酸化炭素中毒のケースだが、昭和初期にコンクリートやモルタルを用いた従来の日本家屋とは異なる、いわゆる「文化住宅」が普及するにつれ、市街地を中心にガス中毒事件が急増することになった。
これを防止するためには、室内の空気が自然に外の空気と入れ替えられる日本建築ならともかく、コンクリートやセメントを使用した建築では「自然換気」は無理なので、「人工換気」が不可欠だとしている。そこで推奨しているのが窓の開放のほか、ウォルベルトという人物が考案した天井を利用する換気装置や、「プレスコップ」と呼ばれる通風管だ。プレスコップは、よく昔の貨客船Click!の甲板に突きでていた「キセル型通風管」のことで、屋根上に突きだして設置するのだろう。だが、見映えがあまりよくないので、工場や倉庫、ビルなどはともかく一般の住宅ではほとんど普及しなかったようだ。
さて、ここ数年にわたってCOVID-19禍がつづき、今日、家庭や施設における衛生管理がかつてないほど注目されている。ウィルスがほとんど知られていなかった昭和初期の衛生対策と、今日の衛生意識とがどのように異なっているのか、あるいは異ならないのかを比較してみるのも興味深い。この90年間で、家庭生活の衛生面でなにが変わり、なにが変わらなかったのか、身近な暮らしにおける移ろいを眺めてみるのも、なかなか面白いテーマだ。
◆写真上:葛ヶ谷24番地の富永邸跡(右手)で、現在は落合第二中学校の敷地内に。
◆写真中上:上は、帝國生命保険(株)の健康増進部が昭和初期に発行していた「健康増進叢書」シリーズの富永哲夫『家庭衛生の常識』(第7篇/1932年)の表紙(左)と裏表紙(右)。下左は、『家庭衛生の常識』の奥付。下右は、1932年(昭和7)の富永哲夫。
◆写真中下:上は、帝國生命の「健康増進叢書」シリーズ。下は、一酸化炭素の発生実験図だが前後の文脈からなぜここで化学実験が必要なのかが不明。
◆写真下:上・中は、当時の家庭内で一酸化炭素のおもな発生源だったガスストーブと練炭(煉炭)。下は、昭和初期には最新式だった換気装置2種の図版。