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少し前に、旧石器時代の遺跡から出土する土器Click!について書いた。同様に、打製石器の時代だと思われていた旧石器時代に、磨製石器が日本で次々と出土している経緯についても書いた。わたしが学校で習った「常識」がまったく通用しない、旧石器~新石器(縄文)時代の見方が180度変わってしまう発見が依然つづいている。
稲作は紀元前10世紀前後からスタートし、「稲作を伝えた」といわれていた弥生期の外来勢力を丸ごと呑みこんだとされはじめた、縄文時代のイメージが劇的に変わってしまったのと同様に、現代の科学的な考古学(人文科学と自然科学の分野を問わず)は、少なくとも日本列島に展開する旧石器時代のイメージも根底から覆そうとしている。
たとえば下落合の目白学園Click!落合遺跡Click!について紹介する、1983年(昭和58)に新宿区教育委員会が出版した『新宿区の文化財(9)―民俗・考古―』から引用してみよう。
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先土器時代は、まだ生活の知恵が十分ではなく、少人数の集団をつくり、食糧と水を求めて川に沿って移動していたものと思われる。住居はごく簡単な小屋がけ程度であったろう。縄文人のような竪穴住居は作っていない。
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わずか38年前の資料だが、上記の説明文のほとんどが現在では通用しなくなってしまった。いまや旧石器時代の後期には、すでに日本を含む東アジアで土器が作られていたのは世界的にも知られているが、旧石器時代人が台地上に正円形の環状集落を、あるいは川沿いに同様のムラを形成していたことも明らかになり、ひとつのムラの構成人数が150人前後だったことも判明している。さらに、近接するムラ同士がチーム的連携や物々交換をしていた事例も、出土する石器素材や石器類から推定されている。
しかも、生活業務の分業化が進んでいて、黒曜石や珪岩(チャート)を遠隔地から運搬する物流(陸路と海路を問わず)ルートが存在し、石器の製造を行う専用工場まで建てられていたことがわかってきた。そして、その石器の専門工場は中心に炉のある移動を前提としない大型で頑丈な竪穴式住居であり、石器の製造ばかりでなく、破損した石器の保守・メンテナンス業務まで引き受けていたことが明らかになっている。
日本の旧石器時代人(世界史的には後期旧石器時代と位置づけられる時期)は、現代人と同じホモ・サピエンスであり、科学はもちろん知らなかったと思われるが、当然ながら脳の容積はほとんど同じであり、前頭葉には経験則を踏まえた論理的な思考回路ができる資質は十分に備えていたはずだ。だからこそ、生活に必要な作業の分業化や、方位の測定や距離を想定できる物流ルートの開拓など、より効率的かつ合理的な生活を追求する思考が可能だったのだろう。
田名向原遺跡(神奈川県)から見つかった、旧石器時代の大型竪穴式住居は中心に炉がふたつ切られ、その周囲を計12本の頑丈な柱が取り囲み、その外側には今日の塀垣のような石が並べられている定住式の住居(石器工場)だった。それまでは、移動を前提とする簡単なテント式の住居跡は発見されていたが、定住を前提とする竪穴式住居は同時代に作られた土器の発見と同じく、再びコペルニクス的転回の発見となった。2013年(平成25)に新日本出版社から刊行された、安蒜政雄『旧石器時代人の知恵』から引用してみよう。
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そうなると、日本列島の旧石器時代には、少なくとも二種類の造りの違うイエが存在したとみてよい。(図番号略) 一つは、田名向原遺跡のように、柱穴や炉があり、周りと区切る石を置いた、発見例こそ非常に少ないものの、住み直しがきく堅牢な造りのイエ。そして、もう一つが、数本の棒を一点で束ねて円錐状に開き置いたかのような、柱穴の痕跡も残らない、極めて簡便な造りのイエ。/(竪穴住居跡を)全掘すれば、石器群の総数が増え、一ブロック当たりとしてはただでさえ多い、槍先形尖頭器出土量の異例さが、ますます際立つだろう。/その槍先形尖頭器を観察すると、半完成品がなく、素材用の剥片が占める割合も小さい。また、ここで原石の礫を打ち割った痕跡も見当たらない。これは、主に、槍先形尖頭器の素材用剥片や半完成品を搬入し、完成品へと仕上げる作業が、当住居状遺構内でおこなわれていたことを示している。(カッコ内引用者註)
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素材の原石を打ち割った痕跡がなく、かなりの割合で完成品が数多く出土しているという竪穴式住居の仕様で建てられた石器工場の記述は、それ以前に素材となる原石の調達から素材を打ち割り運搬する作業、あるいは槍先形尖頭器の形状に近い状態まで“下ごしらえ”して事前に整える準備作業なども、専門の職種として分業化されていたのではないか?……という想定さえ可能になる。換言すれば、大型の竪穴式住居のかたちをした定住型石器工場は、最終加工のプロセスだったことがわかる。
さて、わたしがまだ聖母坂に住んでいたころだから、いまから30年以上の昔になるだろうか。目白学園に復元された、縄文期の竪穴式住居Click!を見学していたときに、たまたまそこで知りあった地元のお年寄りがいた。目白学園の落合遺跡が発掘されたころから近くにお住まいの方で、いろいろ当時の様子などをうかがったものだ。
復元された住居の縄文時代よりも、岩宿遺跡Click!の発見から間もない時期に出土した、旧石器時代についての話題が多かったように記憶している。発掘された埋蔵文化財の一部が展示されている、目白学園内の出土品資料室が土日は閉館していたため、なかなか見られないという話をしていたら、「うちにも出土品があるよ」と教えてくれた。それは、目白学園の落合遺跡から出土したものではなく、ご自宅に近いバッケ(崖地)や宅地造成の工事現場でむき出しになった古いロームから出土したものということだった。
後日、その遺物を拝見したのだが、中でも旧石器を採集されていたのには驚いた。その方も、相沢忠洋の『岩宿の発見』を読んでおり、地層が露出したバッケや造成工事中の場所を観察し、下落合の西部(現・中落合/中井含む)をあちこち歩きながら意識的に採集されていたそうだ。その方はすでに亡くなってしまったが、仕事を引退して落合地域から転居する際、わたしへいくつかの旧石器をプレゼントしてくれた。その石器類が、聖母坂から転居するときどこへしまいこんだものか行方不明になり探していたのだけれど、ようやく大掃除でクローゼットの奥に押しこんだ箱の中から見つけることができた。
当時は、旧石器に関する知識は浅かったが、いまでは日本における旧石器時代の第何期のものか、換言すれば関東ロームの具体的にどの地層から産出したものかが、少しはわかるかもしれない。もっとも、貴重な旧石器をいただいた当時は、いまの拙ブログのような地域サイトをはじめるなど思ってもみなかったことで、旧石器が出土した地点および地層の位置を聞きそびれており、単なる「下落合の旧石器」という大ざっぱな、漠然とした認識しか持っていなかったのは実に残念だ。
3つある石器のうち、もっとも興味深いのは槍先形尖頭器(冒頭&4段目の写真/表裏)と呼ばれる旧石器だ。日本の旧石器時代の第Ⅳ期に関東や中部で盛んに作られた石器で、関東ロームでいえば「立川ローム」と呼ばれる第Ⅳ~第Ⅲ層にまたがる地層から出土するのが特徴だ。時代の区分けでいうと、旧石器時代の晩期に当たり、長野県の霧ヶ峰を中心とする黒曜石を素材に、槍先形尖頭器が数多くつくられた。だが、わたしの手もとにある槍先形尖頭器は黒曜石ではなく、おそらく安山岩系の素材で作られたものだ。
槍先形尖頭器は、動物を捕殺するのに大きな威力を発揮し、より威力を高め遠くへ飛ばすために投槍器さえ発明されていたらしいことが判明しているが、石器の製作にはかなりの熟練と労力を要した。また、原石素材の消費率も高く、ナイフ形石器にくらべ約10倍の原石素材を必要とし、加工時間がおよそ10倍かかることも実証実験から証明されている。つまり、威力はきわめて大きいが、製造する手間やコストがかかりすぎるのだ。
そのため、石器製造の効率を上げるために石器工場の建設や作業プロセスの分業化、原石素材の物流ルートの確保などが必要になったとみられている。また、槍先形尖頭器は貴重な石器だったものか、少しぐらい欠けたり折れたりしても廃棄せず、石器工場へもちこんで専門職人に修復やメンテナンスを依頼している。同書より、再び引用してみよう。
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この狩猟具用の石器作りがかかえる生産性の悪さに、旧石器時代人が原料の備蓄と繰り返しに腐心した、最大の理由がありそうだ。当然、それを補うための改善策が講じられたに違いない。石器製作者集団の出現も、その一方策だったのかも知れない。それだけに、石器作りは慎重におこなわれたろうし、完成した石器は大切に取り扱われたはず。(中略) この現実を前に、旧石器時代人は、破損した石器を修繕する行動にでた。諸遺跡には、石器作りの失敗作と一緒に、壊れた石器を再利用した事例の数々が残されている。
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手もとの槍先形尖頭器は、先端の鋭利さがやや鈍化してはいるがほぼ完品のように見えるので、落合地域の丘上にしばらく滞在した狩猟専門の人物のテントか、それとも竪穴式住居の仕様をした石器工場跡から出土したものだろうか。
もうひとつの石器は、石斧(せきふ)と呼ばれるものだが、明らかに緑色がかった珪岩ないしは珪質頁岩で製作されたものだ。同じ素材の石器は、目白崖線つづきにある学習院大学の旧石器時代遺跡Click!からも発掘されており、東北あるいは中部地方からもたらされた素材かもしれない。同石斧には、明らかに研磨した跡と思われる滑らかな表面、すなわち旧石器時代の“磨製石器”の特徴を備えている。
最後の掻器(そうき)と呼ばれる石器だが、動物の皮をはいだり樹木の皮をむいたり、ときにはモノを切ったりするときに使う道具だ。いまでも手が切れそうな、徹底して研磨された鋭い刃をもっているが、これが槍先形尖頭器や石斧と同時代の石器かどうかは不明だ。わたしの印象では、前者の石器類よりももう少し時代が下るのではないか。旧石器時代なら最晩期、あるいは縄文時代の早期にかかるような石器のように見える。
いずれにせよ、下落合のロームから出土した旧石器3点が、どの地点の地層から発見されたものか、取材しなかったことがいまさらながら悔やまれる。ひょっとして、槍先形尖頭器が出土した地層には旧石器時代の竪穴式住居=石器工場が眠っていたかもしれず、野川流域のように下落合にも旧石器時代の大きなムラ連合を想定することができたかもしれない。
日本列島に展開する旧石器時代の遺跡は、関東地方から中部地方にかけて、あるいは九州地方が圧倒的に多い。それだけ気候がよく生活がしやすかったというよりも、動物すなわち旧石器時代人の食糧となる獲物(特に大型の動物たち)が、関東平野を中心に数多く集まっていたということなのだろう。現在でも、落合地域のバッケ(崖地)Click!や工事現場など地層(立川ローム)がむき出しになった場所には、人知れず旧石器が眠っている可能性が高い。
◆写真上:下落合から出土した旧石器で、おそらく安山岩系の「槍先形尖頭器」。
◆写真中上:上左は、1983年(昭和58)に出版された『新宿区の文化財(9)―民俗・考古―』(新宿区教育委員会)。上右は、そのわずか30年後の2013年(平成25)に出版された安蒜政雄『旧石器時代人の知恵』(新日本出版社)。この30年間で縄文時代と同様に、旧石器時代のイメージも一変してしまった。中は、旧石器時代の時代区分。(『旧石器時代人の知恵』より図版の一部を彩色加工) 下は、槍先形尖頭器の裏面。
◆写真中下:上は、落合遺跡の発掘調査がはじまる直前の1948年(昭和23)に撮影された空中写真にみる目白学園とその周辺。中・下は、当時の考古学的な知見にもとづき目白学園キャンパスに復元された「粗末」な縄文時代の竪穴式住居だが、現在の考古学では縄文期ではなく旧石器時代に見られた竪穴式住居を再現した姿に相当するのかもしれない。
◆写真下:上は、珪質頁岩で製作されたとみられる表面がよく研磨された小形「石斧」。中は、「掻器」と呼ばれる鋭い刃のついた石器だが槍先形尖頭器と同時代のものかは不明だ。下は、関東平野から中部にかけて集中する旧石器時代の遺跡。(同書より)