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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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飛行機から「塑画」を制作する田中比左良。

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羽田飛行場4.jpg
 田中比左良Click!は1929年(昭和4)7月、飛行機に乗りながら上空から風景をスケッチしたり、「塑画」を描いたりしている。おそらく、空中から風景を描いた(制作した)画家は、彼が嚆矢ではないだろうか。「塑画」とは、粘土や脱脂綿など多彩な“画材”を用いて風景を表現する、今日的にいえば立体のオブジェのようなものだ。
 同年7月8日に、東京朝日新聞の旅客機「義勇号」に搭乗した田中比左良は、東京の羽田飛行場(東京飛行場)から浜松飛行場へ、そこで1泊して翌7月9日には浜松飛行場から甲府飛行場へ、そして甲府飛行場から東京の立川飛行場へと一周してもどってきている。旅客機「義勇号」は、1928年(昭和3)に日比谷に設立された(財)海防義会が東京朝日新聞社に貸与した、「第4義勇号」と「第5義勇号」の2機のことだが、田中比左良がどちらの機に搭乗したのかは手記に書かれていないので不明だ。
 大正の中期ごろから、新聞業界や広告業界では飛行機の活用がスタートしており、1923年(大正12)6月14日に早稲田大学の戸塚球場Click!(のち安部球場)で行われていた、六大学野球の早明戦を上空から撮影した東京朝日新聞社の社機Click!や、1925年(大正14)3月6日に下落合の研心学園(目白学園)Click!の校庭へ、新宿のカフェ「ブラヂル」の宣伝ビラをまいていた飛行機Click!が墜落した事故などをご紹介していた。下落合での宣伝機墜落事故は、幸いパイロットが上唇を切る程度の軽傷で済んでいる。
 さて、東京朝日新聞の「義勇号」へ搭乗する直前に撮影された田中比左良夫妻の写真Click!が残っているが、彼が手にしている石のようなものは、立体の「塑画」(彼自身は「漫塑」と呼んでいる)を制作するための粘土だ。同時に、絵の具や絵筆、スケッチブック、脱脂綿なども機内に持ちこんでいる。もちろん、田中比左良夫妻は飛行機に乗るのは初めてで、当初は緊張していたようだが羽田飛行場を離陸してしまってからは、「壮快この上無い」「こんな痛快は無い」気分になったようだ。
 地上は真夏の炎暑だったが、上空800mはワイシャツ姿でちょうどいい春のような気温で、窓から武蔵野の風景を眺めては感嘆している。また、静かな機内は意外に広く、座席のソファやクッションも快適で制作にはまったく不自由を感じなかった。
 その時の様子を、1929年(昭和4)に長崎村字新井1832番地(のち長崎町1832番地=現・目白5丁目)の中央美術社Click!から出版された田中比左良『女性美建立』収録の、「空中比左軀離蹴(くうちゅうひざくりげ)」から引用してみよう。
  
 ものを直角に俯瞰すると、どうしてこんなに綺麗に見へるのか不思議でならない、これは飛行機を経験する者だけが味ふ不思議な自然美だ。清水焼の小家を青い玉衝台の上に整列させたやうな田園都市、碁盤を油拭きしたやうな耕地整理の水田、立琴を横たへたやうな大船あたりの鉄道線路。寸馬豆人といふが先刻飛行場で見送つてくれた多数の群集はゴマ塩を振り撒いたやうだつたが八百米も上るともう人も馬も見へない。(中略) 飛行機を下から仰ぐと実にセゝコマしく走るのだが飛行機に乗つて見ると実に悠々たるもので大自然の大パノラマをいと鷹揚に迎へ送るのである。とても急行列車の三倍もの速力とは感じられない。/普通の飛行機と違つて旅客飛行機だから贅沢な四人分の座席があつてワイシヤツ一枚でゆつたりとクツシヨンにもたれながら綺麗な房付カーテンのヒラヒラ舞ふグラス窓から一種の優越感を感じながら下界を睥睨した気持は全く好い気なもんです。/これなら飛行中粘土細工でも可なり細密なスケツチでも自由である。
  
 ただし、ときどき起きるエアポケットの急降下には肝を冷やしたようで、機体が落下する間はめまいのような不快を感じ、絵を描く気にはなれなかったらしい。
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 最初に粘土を手にしたのは、小田原から伊東にかけての相模湾上空だった。「大理石磐」のような海上に、蒸気船が深々とした航跡を残して進み、その横に搭乗している旅客機の影が映っていた。つづいて、箱根から芦ノ湖上空に差しかかるが、この上空では気流の乱れからか大きく揺れ、エアポケットの連続で機体がしばしば瞬間的に10m前後落下している。伊東から沼津へ抜ける、伊豆半島のつけ根にある冷川峠あたりで、再び粘土を手にした田中比左良は、箱根連山を通る白い道路と芦ノ湖をモチーフに制作している。
 次に、刻々と近づく富士山をモチーフに、これが本命とばかり粘土で立体をイメージしなが制作している。田中比左良は、富士山を「投網をバーツ!と打ち拡げて一寸と引いてみて糸の括りが聊(いささ)か持ち上がつたゞけの山であつた」と観察している。そして、広重Click!北斎Click!は富士の裾野の一部だけしか見わたせない時代に生れた不幸せで、富士山をせせこましくそそり立たせてしまったと書いている。ただし、上空から眺める富士山のフォルムと、浮世絵の富士山とどちらが美しいかは返答に困るとしている。
 つづいて、駿河湾上空に差しかかると、御殿場あたりから富士川にかけての眺めを粘土で制作している。富士山の周囲には、やはり気温の急激な変動から雲が多かったらしく、画面には持参した脱脂綿を多く貼りつけている。完成した「塑画」の写真は、モノクロで4点しか掲載されていないが、それで持参した粘土が尽きたものだろうか。モノクロだと質感や色合いが不明なので、「塑画」をカラーで観てみたいものだ。
 「塑画」制作の合い間に、田中比左良はもちろんスケッチブックも拡げている。そこでは、上空から見た関東から東海にかけての太平洋沿いの街々を、漫画家の目でいろいろな形象に置きかえてはユーモラスに描いている。「高空から見た都市の怪奇」と題して、横浜市=兜、小田原市=舞楽の冠、三島町=ピストル、網代町=スポーツ帽、清水市=馬の顔、静岡市=鶴が鵬翼を広げた形、掛川町=ワニ、浜松市=カンガルーといった具合だ。なぜ、各町を比喩的に“見立て”スケッチしているのかは不明だが、著者が面白がるほどそれを見せられている側はあまり面白くない。
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 さて、浜松飛行場に着陸した「義勇号」は、ここで燃料補給と機体整備のためにいったん格納庫へ入り、田中比左良たちは飛行場の宿泊施設で1泊することになった。そこで、旅客機「義勇号」を操縦してきたパイロットのふたりとゆっくり話す機会があり、いまだ20代だった彼らの沈着冷静ぶりにことのほか感心している。その飛行服姿は、「凡(あら)ゆるスポーツマンの中一等イキなスタイルだらう」と褒めているが、当時、飛行機の操縦がスポーツの一種だと認識されていたかどうかは疑わしい。パイロットは専門技術職ではあっても、スポーツマンとは当時も認識されていなかったろう。一部の海洋横断飛行をする冒険家たちは、そう見られていたかもしれないが……。
 翌7月9日は、浜松飛行場を発ち途中で甲府飛行場を中継したあと、東京の立川飛行場へと帰る予定になっていた。その帰途、田中比左良は飛行機から見る風景美についていろいろ思いをめぐらしている。同書より、再び引用してみよう。
  
 飛行機から俯瞰した大自然は何んのことはない模型地図さながらである。布色のより鮮麗な細工のより繊巧な絶対正確な模型地図と思つたらいゝ。飛行機の眼からは、もう皆小綺麗である、大自然の物々を玩具の可憐に仕立ゝしまふ、だから平凡な鉄橋一本でも山一個でも畑一面でも小可愛ゆく愛玩が出来るのだ。僕のいはゆる飛行機風景といふのは其処から生れるのだ、飛行機の自然愛は万象ほ懐裡に捲込んでその一つ一つを指先で弄り遊ぶ愛し方である、これが飛行機風景で一ぺん乗つて見た人で無いとこれは解らん。それにつけても、物象を直下に眺めると不思議な可憐美が湧くことはものゝ不思議である、山に登つて斜に眺めてはもう駄目である。これはひよつとすると、足に絡みついて直角に仰ぎ笑んだ我児の顔を真上から見下した時の我児可愛い気持に通ずるかも知れない、などゝも思つたがこの比喩は当つてゐないかも知れんが、こいつ不思議な美の認識である。
  
 飛行機を下りたとたん、エアポケットの苦痛や墜落の不安はすっかり忘れてしまうと、田中比左良は書く。ふたりのパイロットは彼に、「飛行機ととふものは周到な注意を怠らず冒険さへしなかつたら絶対安全なものだ」と語っているが、彼が立川飛行場へ降り立ったわずか5日後、同飛行場では陸軍の重爆撃機による悲惨な事故が発生している。
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 同年7月14日、浜松飛行第7連隊の八七式重爆撃機が立川飛行場近くで墜落し、陸軍少将の小川恒三郎を含め搭乗員の8名全員が死亡するという大事故だった。だが、その前日には、83歳の老婆が大阪から東京へ旅客機で飛行し、飛行機の乗客最年長記録を更新している。昭和初期、一般の老婆や画家も飛行機に乗れる航空機時代の幕開けだった。

◆写真上:1934年(昭和9)に撮影された、羽田飛行場(東京飛行場)の送迎デッキ。背後に見えるサークルは、飛行機の羅針儀修正台だと思われる。
◆写真中上:同じく1934年(昭和9)現在の羽田飛行場の風景で、日本航空輸送の格納庫()、旅客機への乗客搭乗風景()、当時の旅客機内の座席()。
◆写真中下:粘土や絵の具、脱脂綿などを用いた立体「塑画」作品で、からへ相模湾の航跡と機影、箱根連山と芦ノ湖、富士山、御殿場風景。
◆写真下は、(財)海防義会が東京朝日新聞社に貸与した2機の「義勇号」。は、眼下の街々をなにかに見立てた飛行機漫画。は、1929年(昭和4)7月14日に立川飛行場近くの陸稲畑に墜落し8名全員が死亡した陸軍重爆撃機の事故現場。

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