1955年(昭和30)に『新宿区史』Click!(新宿区役所)が出版される以前から、『新宿区勢要覧』とタイトルされたパンフレットが制作されていた。わたしの手もとにあるのは「昭和29年版」(1954年版)なので、1947年(昭和22)に四谷区と牛込区、淀橋区が合体して新宿区が成立した直後から発行されていたのだろう。また、『新宿区史』Click!の出版後にも発行されているので、1960年代末ぐらいまではつづいていたのかもしれない。
表紙と表4(裏表紙)を別にして、変形B5判の8ページという構成だが、このパンフを拡げていくと変形B全サイズの「新宿区航空写真全図」が広げられる仕様になっている。1954年(昭和29)2月22日に撮影されたポスター大の空中写真には、新宿区の施設や学校、鉄道駅などが探せるよう、左下に記号の凡例のような索引が付加されている。空中写真の落合地域を見ると、戦災からほぼ復興した街の姿がとらえられている。
以前の記事Click!では、この空中写真をもとにして落合地域の様子を中心に書いたが、今回は視界を少し拡げて、新宿区全体について改めてご紹介してみたい。コンテンツは「新宿区というところ」というエッセイ風の簡単な沿革紹介にはじまり、「区の行政」、「人口の推移と現状」、「区の財政」、「教育と文化」(文化財)、「新宿ところどころ」(写真ページ)などに分かれている。「新宿区というところ」から、一部を引用してみよう。
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新宿区としての誕生は昭和22年3月15日東京都に特別区制が施行されて、旧四谷、牛込、淀橋の3区が統合したときで、本年こゝに7周年を迎えるわけである。/人口33万人有余、面積18平方粁強で、西え西え(ママ)と移行する東京の都心がこの「新宿」であるといつても過言ではあるまい。/新宿駅の乗降客は、東京駅、大阪駅に次ぐ全国第3位を占め、そのラッシュは、朝の通勤、通学つゞいて各方面からのお買物、午後の観光、夜の娯楽といろとりどりである。/その多彩なことをみてもわかるように、区内には、早大、慶大医学部、学習院、女子医大をはじめ大学11校、小、中、高等学校にいたつては、公私あわせて72校という文教地区であり、また大蔵省、総理府統計局をはじめその他の官公署と金融機関の群立、それに伴う一大消費地としての商店街、アミユーズメントセンターとしての面目、いずれをみても、更に今後の発展に大いに期待をかけられる所以のものばかりである。
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この著者には少なからずオーバートーク気味のところがあり、たとえば「学習院」は豊島区にあるので、正確にいえば戸山の近衛騎兵連隊跡Click!に移転した「女子学習院」Click!(学習院女子大学)のことだし、「東京の都心がこの『新宿』であるといつても過言ではあるまい」も、1954年(昭和29)でそこまでいうか?……という感が強い。どう考えても、当時の都心は都庁があった丸ノ内や大手町、日本橋、京橋(銀座)界隈だろう。
新宿区の人口が「33万人有余」は、今日でも約33万7,600人(2021年現在)とほぼ変わらない。変わったのは、新宿駅を利用する乗降客の人数だ。当時は、東京駅と大阪駅に次いで約70万人ほどだった乗降客は国内3位だったようだが、現在は1日の乗降客数は約350万人(2021年末現在)とふくらみ、国内はおろか世界1位の乗降客でギネスブックにも登録されている。また、当時は11校だった大学は16校に増えたが、小・中・高等学校は少子化の影響から統廃合が進み、72校から57校に漸減している。
「区の行政」で時代的に目を惹くのは、新宿区が経営する「区営公益質屋」の存在だ。区内には、箪笥町公益質屋と柏木公益質屋、それに1953年(昭和28)には小滝橋公益質屋が新たに開設されている。3つの公益質屋の資金は約1,235万円と膨大で、当時は家庭へ手軽に融資してくれる銀行など存在せず、また消費者金融もなかった時代なので、人々はおカネに困ると戦前と同様に質屋通いをしていた。
ただし、悪質な業者(町金融)もいたため、公共事業で質屋を経営する自治体は少なくなかった。新宿区の公益質屋の利用者数は、1957年度でのべ16,240人、1958年度でのべ13,460人と膨大な数にのぼる。貸し付けと利子には、以下のような規定があった。
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貸付金額は質物の評価の10分の7以下で一世帯について8,000円以内(将来増額する予定)であり、貸付利率は1ヶ月3分、流質期限は4ヶ月である。
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当時の大卒初任給が平均8,700円だから、今日の貨幣価値に換算すると22万円ほどだろうか。貸付上限の8,000円を20万円とすれば、満額借りると1ヶ月後には6,000円の利子が付加されることになる。公共事業にしては少し高いような気もするが、おカネを手軽に貸してくれるだけでも庶民にとってはありがたく、利用者は絶えなかったのだろう。
「教育と文化」で目を惹くのは、「視覚教育」と「レクリエーシヨン団体」だろうか。
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◇視覚教育…映画、テレビジヨンにより、行動的・実践的な新しい型の人間をつくるため知識や思想を伝え、生活の向上と高い文化をきずき上げるためusis映画を上映し、あるいは科学、ニュースその他教育映画を、テレビジヨンの公開映像で解説して科学知識の普及向上につとめている。 ◇レクリエーシヨン団体…レクリエーシヨン団体としては新宿区フオークダンス協会、新宿区釣魚会連盟及び新宿区写真連盟がある。
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「テレビばかり見てるとオバカになる」といわれて久しいが、当時は登場したばかりの目新しいメディアであり、人々の期待も少なからず大きかったのだろう。だが、『新宿区勢要覧』が発行される2年前、大宅壮一Click!が早くも一方的にタレ流しされる情報を、無批判にボーッと眺めるだけで論理的な思考や問題意識、批判力を鈍化させ停止させるメディアとして「一億総白痴化」を警告している。
また、文中にある「usis映画」とは、United States Information Serviceが制作した映画の略で、米国思想を植えつけるための占領軍が奨励したプロパガンダ映画のことだ。いまだ占領下の影響が色濃く残っていた様子がうかがわれるが、自治体はこのような国の方針にNOとはいえなかったのだろう。新宿区が主宰するフォークダンス協会も、米国の肝煎りの臭いがプンプンする。そういえば、わたしが子どものころフォークダンスをずいぶん踊らされた記憶があるが、あれも占領軍政策の名残りだったにちがいない。
「教育と文化」のページから、落合地域にあった教育機関や施設について調べてみよう。まず、各種学校で「日本通訳学校」というのが下落合4丁目1680番地(現・中落合4丁目)に開校していた。この地番は、先にご紹介した佐伯祐三Click!の『看板のある道』Click!の描画位置から、三間道路を90mほど先へ進んだ左手にあたるのだが、この学校が現在のどの専門学校の前身にあたるのかが不明だ。
また、当時は目白福音教会Click!の宣教師館(メーヤー館)Click!を使用していた日本聖書神学校Click!(下落合1-500)は現在と変わらないが、七曲坂Click!の途中に大世学院(下落合2-286)というのが採取されている。これは富士女子短期大学の前身だが、同短大もすでに旧・神田上水(1966年より神田川)沿いに開校しているので当時は本部機能でも残っていたのだろうか。現在は、下落合1丁目7番地の田島橋Click!周辺に展開する東京富士大学のことだ。
幼稚園の項目を見ると、伸びる幼稚園Click!(上落合2-541/現在は「伸びる会幼稚園」)と目白平和幼稚園(下落合1-500)、目白ヶ丘幼稚園(下落合1-416)、みどり幼稚園(下落合4-1650/現在は「下落合みどり幼稚園」Click!)は変わらないが、尾崎行雄Click!の娘で佐々木久二Click!と結婚していた佐々木清香Click!が開園し、九条武子Click!も支援していた白百合幼稚園Click!(下落合3-1823)は閉園してしまった。
また、オバケ坂Click!を登りきった九条武子邸跡の手前に、ルリ幼稚園(下落合2-791)というのが開園していたが、すぐにNHK落合寮や東洋信託銀行寮が建ってしまうので、開園期間は短かったのかもしれない。ルリ(瑠璃)は古代インドで尊重された宝石(ラピスラズリ)なので、経営していたのは仏教系の法人だろうか。
さて、表3のページには、新宿の名所を紹介する写真が並んでいるが、今日の目から見るとやはりちょっとおかしい。新宿駅前の夜景や神楽坂はいいとして、国立国会図書館(1974年より現・迎賓館)は新宿区ではなく所在地は港区元赤坂だろう。キャプションをよく読んでみると、「東京中で、もっとも都塵の少ない、そしていちばん美しい国会図書館ふきん」と書いてある。なるほど、確かに当時の国会図書館(現・迎賓館)は新宿区に接しているので、ちょっとでも新宿区の一部が写真に入っていれば「ふきん」と表現して、なんとなく新宿区の風景になるのかもしれない。w
新宿御苑Click!や早大演劇博物館Click!はいいとして、「高田馬場駅のところ」という曖昧なキャプションはなんなのだろう。高田馬場駅が、特に新宿区内で“名所駅”であるはずもなく(高田馬場跡Click!なら話は別だが)、四ツ谷駅Click!や市ヶ谷駅、飯田橋駅のほうが、それぞれ千代田城Click!の外濠御門の見附跡駅で風景的にも映えるだろうに……と思うのだが、なぜか高田馬場駅Click!がチョイスされているのだ。
1954年(昭和29)という年は、新宿の映画館の数が銀座を超えて26館となり、「銀座の商店の閉店は早いが新宿は夜がふけるまで賑やかで」などと書いているので、『新宿区勢要覧』の執筆者は銀座を競合相手と強く意識し、相当に気負って書いていたと思われる。確かに都庁が移転し、新宿駅が世界一の乗降客になり、ビジネスや商業では東京都はおろか日本の中心街となりつつあるように見えるが、残念ながら(城)下町Click!に比べて街としての歴史が圧倒的に浅いため(旧・四谷区と旧・牛込区は除く)、街の落ち着きはもちろん人々の間で紡がれる街の文化や風情が、いまだ確固としたものにはなってないように感じられる。
わたしの目から見ると、時代の趨勢や流行にいともたやすく流されてモミクチャにされる、ドッシリと地面に接地していない、なんとなくフワフワした国籍不明ならぬ地域性不明の街……という感じがいまだにする。でも、言葉を裏返せば、そのような性格がこれからどうにでも変化していける可能性を秘めた街……ということへつながるのかもしれない。
◆写真上:なぜかグラビアの駅に選ばれた、1954年(昭和29)撮影の高田馬場駅ガード。
◆写真中上:上は、1954年(昭和29)に撮影された新宿駅前の夜景。中は、同年の牛込見附から眺めた神楽坂方面。下は、同年撮影の新宿御苑の台湾館前。
◆写真中下:上は、戸山ヶ原の西側に開校したばかりの西戸山小学校。中は、同時期に開校した西戸山中学校。下は、早稲田大学の演劇博物館。
◆写真下:上は、現在は迎賓館だが当時は国立国会図書館だった正門。手前の道路の半分までが新宿区で、道路向こうが港区だから「新宿風景」といえなくもないが。中は、1954年(昭和29)に発行された『新宿区勢要覧』の表紙と表4。下は、新宿区内のおもな公立・私立学校の一覧。1958年(昭和33)に創立される、西落合の落合第六小学校が未掲載だ。