つづいて、上落合に展開する古墳を見ていこう。大正末から昭和初期にかけ、上落合には24基の古墳が記録されている。ただし、前出の守谷源次郎・著/守谷譲・編『移利行久影(うつりゆくかげ)』Click!(非売品)には、いくつか古墳のスケッチが掲載されており、たとえば大塚浅間古墳(落合富士)Click!の北側に隣接する天神社が奉られた丘上の古墳は、同書に添付されている「上落合附近上古之図」へ記載された表現は1基だが、実際には6基の円墳が存在していたことが同書のスケッチから知ることができる。
前回の下落合ケースClick!も同様だが、地図上では1基の表現であっても、実際には複数基だった可能性があり、上落合も24基ではなく24エリアと解釈したほうがいいのかもしれない。つまり、この6基が描かれたスケッチだけでもプラス5となり、地図記載とは異なり29基がカウントできるからだ。また、地図では円墳の表現で記入されていても、スケッチを見ると明らかに前方後円墳であり、著者自身も明確に「瓢箪型古墳」(戦前における前方後円墳の名称)と規定しているため、地図上の「円墳」記号には前方後円墳ないしは帆立貝式古墳が混在している可能性がきわめて高い。
まず、上落合の東側から順番に見ていこう。戦前は無住の寺だった光徳寺がある北東側には、古い墓域が存在していたようだ。その墓域から横並びに、東から西へ4つの古墳が丘上に記録されている。「上落合附近上古之図」では円墳表現だが、実際の形状は不明だ。これらの墳丘は、以前に上落合のふくらみが残る巨大なサークル跡としてご紹介Click!していた、後円部と想定できる北側に沿うようなかたちに展開しており、新宿角筈古墳(仮)Click!に見られるのと同様に、後円部に付属していた陪墳群だった可能性がある。
だが、いずれも現在は宅地造成で破壊され、築造時期を規定できないのでなんともいえない。主墳であると想定する巨大なサークル跡のほうは、江戸期(ないしはそれ以前)に崩されとうに農地化されていたが、その陪墳群が成子の天神山ケースClick!のように大正期から昭和初期まで残存していたものだろうか。また、付近では古墳期の遺構Click!(住居遺跡)が発掘されており、規模の大きな集落があったとみられるが、現在ではすべてが住宅街の下になっており、点ではなく面での発掘調査ができないのが残念だ。
つづいて、旧・八幡通りClick!に面した南側の月見岡八幡社Click!の境内には、ふたつの古墳が記録されている。ひとつは、のちに大塚浅間古墳が改正道路(山手通り)の工事Click!で崩され、その上部に築造されていた落合富士の遺構(祠や溶岩、石碑)をそのまま移築したとみられる、境内東側にあったやや大きめな古墳だ。同社のいわれとなった、いわゆる「月見岡(丘)」の一部に築造されていたとみられ、同社が1962年(昭和37)に現在地へと遷座するまで、落合富士の土台となっていた古墳とみられる。
同社の境内にあったもうひとつの古墳は、北側の廃寺となった泰雲寺寄りの位置に確認できる。守谷源次郎は、月見岡八幡社の境内全体がかつて「瓢箪型」をしていたことから、そもそも月見岡全体が大型の前方後円墳ではないかと疑っているが、その前提からいえばやはり先の落合富士の土台になった古墳も含めて、後円部に沿った位置にある陪墳のひとつだろうか。ちなみに、当初は瓢箪型をした月見岡八幡社の境内は、東西方向に約130mほどのサイズになる。また、くだんの巨大なサークル跡に比べるとひとまわりサイズが小さいが、羨道の入口が東を向いて南北に並ぶように位置していたのがわかる。
つづいて、村山知義アトリエClick!の西側、同アトリエへ近接する十字路のところにも古墳が1基採取されている。ちょうど、十字路全体を覆うような墳丘だったらしく、この道路が敷設されるときに崩されているとみられるので明治末にはすでに存在せず、守谷宮司の記憶ないしは先代の伝承から描きこまれた古墳のように思える。その南西側にも1基、小さな古墳が採取されている。ちょうど、のちに開業する公楽キネマClick!の敷地とその真裏あたりだ。当時は、一般の地図にも掲載される墓域一帯で、墓地の記号とともに小規模な古墳が描きこまれている。
早稲田通りを西へと向かい、鶏鳴坂Click!の手前(東側)には3基の古墳が描かれている。そのうちの2基には鳥居マークが付随しているので、なんらかの祠ないしは社が奉られていたものだろう。おそらく、鶏鳴阪に近いほうの鳥居マークのついた1基が、のちに伊勢社が奉られた小型の前方後円墳だ。針葉樹林の中に横たわる前方後円墳を、鈴木宮司はスケッチに残している。現在の早稲田通りから、落合第二小学校へと抜ける北向き斜面の丘上に近い位置に、3基の古墳が並んでいたことになる。
つづいて、現在は山手通り(環六)の工事で墳丘全体が消滅してしまった、大塚浅間古墳(落合富士)のエリアには2つの古墳が採取されている。ひとつは、落合富士の土台にされていた大塚浅間古墳だが、もうひとつはその北側にあった丘で天神が奉られていた(この丘が「天神山」Click!と呼ばれていたかどうかは確認がとれない)。大塚浅間古墳(浅間社境内)を高位置から見下ろすような写真が残っているが、「天神山」側から撮影されたもので、同山のほうが高さもあって規模が大きかった可能性が高い。前出の『移利行久影』より、落合富士について書かれたキャプションを引用してみよう。
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天神社の隣りに位置するのが、この辺りを百八塚と噂されるほどの古墳郡(ママ)であった。(ママ) 高さは三丈余と云は(ママ:わ)れる程の大塚古墳で、後世この境内に近隣の富士講社の信仰をより強くしようと、北口富士の分御霊を此の地に仰ぐことになった。/裏側にあった大塚を富士塚に改良して、後に浅間塚の名がここに起った。その起源は德川期以前か或いは初期であろうと推定される。
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守谷宮司は、落合富士にされていた土台の古墳を「大塚」と表現しているが、わたしは上落合東部から中野側にかけて広範に残された字名の「大塚」は、これほど小規模な古墳ではないと見ているのは、これまで何度か記事Click!に書いたとおりだ。山手線の駅名にも名残りがある大塚(実際の大塚地域は駅の南東側だが)や、世田谷区の野毛に現存する大塚古墳は100m前後のクラスの前方後円墳(ないし帆立貝式古墳)だ。
そして、落合富士に隣接し天神社が奉られていた丘には、地図上では1基の表現でしか描かれていないが、その丘上ないしは斜面には6基の円墳があったことが、守谷宮司のスケッチからうかがえる。これも、天神社が奉られた丘自体がそもそも円墳か前方後円墳(後円部)の墳丘であり、それに寄り添った陪墳6基が付属していた……とも解釈できそうだ。いずれにせよ、戦時中の山手通りの工事で発掘調査もなされず、大塚浅間古墳と隣接した古墳とみられる天神社の丘はあっさりと破壊されてしまった。
大塚浅間古墳の北側にも、離れた位置に2基の古墳が採取されている。ひとつは、現在の上落合郵便局がある一画全体、もうひとつは最勝寺の本堂と墓地の北隣りにあたるエリアだ。いずれも、妙正寺川を見下ろせる高台の上に築造されていた。上落合郵便局があるあたりの古墳に比べ、最勝寺の北側に記録された古墳のほうが規模が大きかったとみられ、地図上に描かれた記号のサイズも異なっている。
つづいて、早稲田通りをさらに西へたどると、江戸期からの落合火葬場Click!へと斜め(北西)に入る道の右手に、古墳が1基記録されている。現在の、極真会館落合道場のあるあたりだ。そして、落合火葬場の東側にも大きめな古墳が採取されている。寺院の記号が付加されているが、江戸期からの名残りか大正期まで寺院のような施設が設けられていたものだろうか。最勝寺も、また落合火葬場もそうだが、なんらかの禁忌伝承Click!が語られてきたとみられるエリアに、寺院や墓地、火葬場(斎場)が設置されている点にも留意したい。これは、江古田富士Click!が築造されている、江古田駅前の古墳でも同様なのだろう。
さらにその西側、上落合と上高田の境界に近い位置にある寺町の台地、すなわち神足寺や願正寺、境妙寺、金剛寺などが建立されている、上落合側を向いた東側のバッケ(崖地)Click!一帯に横穴古墳群が記録されている。地図上には6基の古墳が記入されているが、台地の規模からするとさらに多かったのではないかと思われる。昭和初期まで残存していたのが、記録された6基ということではないだろうか。しかも、この台地一帯も墓域であり寺町が形成されたということは、丘下の落合火葬場とあわせ、古くからのなんらかの禁忌に関する伝説・伝承が語られていた可能性が高い。
この6基の横穴古墳のうち1基が、昭和初期に撮影された写真に残っている。守谷源次郎が招聘した、考古学者の鳥居龍蔵Click!らとともに調査したときの記録写真だ。鳥居龍蔵はこの横穴古墳群のほか、上落合ないしは下落合のいずれかの古墳も同時期に調査している可能性が高い。守谷宮司のいる月見岡八幡社が上落合にある関係から、やはり上落合地域の古墳を中心とした調査だったのかもしれないが……。
関東大震災Click!で焦土となり、東京各地に露出した大小の古墳Click!について調べたとき、鳥居龍蔵Click!の著作にはけっこう当たっているが、落合地域の古墳について書かれた論文は発見できなかった。守谷宮司に招かれ実地調査を行なっている以上、戦災で焼けていなければどこかに記録が残っているはずだ。もし発見できれば、改めてこちらでご紹介したい。
<了>
◆写真上:1962年(昭和37)まで月見岡八幡社が建っていた、旧境内の一部(現・八幡公園)。守谷宮司が瓢箪型と表現する、後円部のふくらみが一部残っている。
◆写真中上:上は、光徳寺の周辺域に残されていた古墳群。中上は、旧・八幡通りに面していた月見岡八幡社(旧境内)とその周辺域に展開していた古墳群。中下は、1927年(昭和2)に同社の旧境内に上落合607番地の大塚浅間古墳から移設された落合富士の上部。下は、現在の月見岡八幡社境内に再移設された落合富士の現状。
◆写真中下:上は、鶏鳴坂の東側斜面に残っていた2基の古墳。中上は、伊勢社が奉られた1基は守谷源次郎のスケッチにより小型の前方後円墳だったことがわかる。中下は、鶏鳴坂の現状。下は、大塚浅間古墳(落合富士)とその周辺の古墳。
◆写真下:上は、大塚浅間古墳(落合富士)の北側にあった天神社を奉る丘で描かれた6基の円墳。中上は、天神社のある丘上から撮影された大塚浅間古墳(落合富士)。天神社の丘のほうがかなり大きかったと思われ、丘全体が陪墳6基の付随する古墳だった可能性がある。中下は、落合火葬場とその周辺域に展開する古墳群。下は、神足寺東側の崖地に穿たれた横穴古墳を調査する鳥居龍蔵(右)と守谷源次郎(左端)。羨門と思われる横穴のサイズから、下落合横穴古墳群Click!に近似した仕様だったことがわかる。