森口多里Click!といえば、拙サイトでは美術関連の記事Click!に登場している。佐伯祐三Click!の第1次渡仏時には、同じ「香取丸」に乗りあわせ木下勝治郎Click!らと交流していた様子が伝えられている。だが、美術史家や美術評論家、ときに建築評論家としての活動のほかに、もうひとつあまり目立たないが民俗学研究者としての顔がある。
森口多里は岩手県の水沢町の出身であることから、遠野をはじめその周辺域に伝承された民話や伝説、昔話、童話などを採集しては記録している。そして、それらの記録を当時は地元にいた佐々木喜善へ研究素材として提供している。佐々木喜善は、柳田國男Click!が『遠野物語』を執筆する際に、その基盤となる民話や伝説、昔話などを直接提供した人物だ。彼もまた、岩手県上閉伊郡土淵村の出身だった。
佐々木喜善は、東京にやってくると1907年(明治40)に哲学館Click!(現・東洋大学)へ入学している。ちょうど、井上円了Click!が哲学堂の建設を手がけていたころで、哲学館では井上円了Click!から「妖怪学」を学びたかったらしく、そのころ井上円了は和田山Click!に居をかまえていた。佐々木喜善も、目白通りを歩いて哲学堂に竣工していた四聖堂Click!を、見学しに訪れていたかもしれない。ただし、彼は哲学館では飽き足らなかったらしく、しばらくすると退学して早稲田大学文科へ改めて入学しなおしている。
この間、彼は次々と小説を発表しているので、もともとはいわゆる初期の民俗学ではなく文学をやりたかったようだ。また、語学の勉強も熱心に進めていたが、その途中の1908年(明治41)に柳田國男Click!と出会うことで、彼の進路は大きく方向転換することとになった。柳田は、彼が語る岩手県陸中の遠野地域に伝わる民話や伝説に興味をもち、それを次々に記録して1910年(明治43)に出版したのが『遠野物語』だ。
つまり民俗学的な解釈はともかく、『遠野物語』は柳田のフィールドワークではなく、“語りべ”としての佐々木喜善の育った原風景を記録した本ということになる。金田一京助Click!が、佐々木喜善のことを「日本のグリム」と呼んだゆえんだ。また、宮澤賢治Click!は何度か佐々木喜善のもとを訪ねているようで、書簡のやりとりが記録されている。
佐々木喜善と柳田國男について、2010年(平成22)に筑摩書房から出版された佐々木喜善『聴耳草紙』収録の、益田勝実『聴耳の持ち主』から引用してみよう。
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柳田は佐々木の背負っている<遠野>とつながり、旅人の学問として出発しつつ、佐々木との出会いにおいて、その旅人性を止揚する可能性をつかみえた。日本民俗学の草創の頃には、佐々木の郷里である北の遠野と、南海洋上の沖縄とが、新しいこの学問をめざす人々の巡礼の地であったのは、単に遠野が東北民俗の宝庫であったからだけではない。佐々木はそこに帰り、そこで生き、その心で民俗を見て、旅人たちに媒介してくれたからである。(中略) 文献資料を駆使してやっていく中央の研究に対して、生の資料を採集して番(つが)えていく。それが当時の佐々木であった。(例示略) 中央の<旅人>の学者に対して、<同郷人>のなしうることはそうであった。
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さて、佐々木喜善の『聴耳草紙』には、森口多里が収集して記録した昔話や伝説が数多く提供されている。森口が採集した説話を挙げると、たとえば水沢町付近で採取した「ランプ売り」、同じ地域の「蒟蒻と豆腐」、芝居見物の「生命の洗濯」、笑い話の「鰐鮫と医者坊主」、下姉帯村の「カバネヤミ(怠け者)」、そして「馬買い」「相図縄」「沢庵漬」などの「バカ婿(むこ)」シリーズだ。特に、森口多里は「バカ婿」シリーズが大好きだったようで、地元の古老にあたっては積極的に収集していたフシが見える。
「馬鹿婿噺」と総称される一連の伝承は、親が子どもを寝かしつけるときに語る昔話でも童話でも妖怪譚でもなく、大人が集まってヒマなときに披露しあう日本版アネクドートのようなものだったのだろう。もちろん、「バカ婿」シリーズだけでなく「バカ嫁」シリーズも数多く伝承されており、小噺の中にはかなり艶っぽくきわどい卑猥な笑いも含まれている。森口多里が集めた説話の傾向からすると、妖怪譚や昔話などの系列ではなく、滑稽でつい笑いを誘う大人の小噺収集に注力していたのではないだろうか。
「馬鹿婿噺」の特徴は、婿がバカなのに対して妻のほうは利口でかしこいという点が共通している。つまり、バカ婿は妻のいうとおりにしていれば恥をかかないで済み、親族や地域の住民からもバカにされないで暮らせる……という設定なのだが、どこかで妻のいいつけから外れて、必ず本性のバカが丸だしになるというオチが付随している。
森口多里が水沢町で記録した、「相図縄(合図縄)」から引用してみよう。ここに登場する「馬鹿婿殿」は新婚で、舅家からご馳走を用意したので娘(妻)といっしょにこいと呼ばれる。舅家への道順が、なかなか憶えられないバカ婿は妻といっしょに出かけたいのだが、「薄馬鹿(うすらばか)」と一緒に歩くのは恥ずかしいと妻にいわれ、ヘンデルとグレーテルのパン屑よろしく、小糠をこぼして実家まで帰るから、あなたは少したってからそのあとを追ってらっしゃいといわれた。
バカ婿は、妻が出かけたあとしばらくして小糠をたどりながら歩きはじめるが、小糠は風に吹かれてあちこちに飛び散り、彼が舅家にたどり着いたころには野を越え川を越え森を越えて、全身がびしょ濡れでボロボロになっていた。さっそく妻に叱られるが、舅からはご馳走の用意ができたと勧められた。ところが、ご馳走はなにから順番に箸をつければいいのか、食事の作法をまったく知らないバカ婿が途方に暮れていると、妻は……。
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婿殿を蔭に呼んで、大事なところに紐を結びつけて、その端を持っていて、人に知れないようにツツと引いたらお汁(つけ)を吸いなさい。ツツツツと引いたら御飯を食べなさい。またツツツツツツと引いたらお肴を食べさんしとくれぐれも言い含めておいた。いよいよ御馳走が始まったが、嫁子が約束通りの合図の紐を引いてくれたので、婿殿は箸を取って、はい御飯、はいお汁、はいお肴と間違いなく食事をすることができた。お客様達はこれを見て、はてこの婿殿は薄馬鹿だという評判だが、こうちゃんと物を順序に食べるところを見ると、まんざらでもないらしいと心の中で思っていた。ところがそのうちに嫁子は小用を達(ママ:足)したくなったので、ちょっとの間ならよかろうと思って、紐を柱に結びつけておいて厠へ立った。その隙に猫がやって来て、紐に足を引っ掛けて、もがいて、無茶苦茶に紐を引っぱったので、馬鹿婿殿はそれを嫁子の合図だと早合点して、この時だとばかり、大あわてで汁も飯も肴もアフワアフワ呻りながら一緒くたに口に搔攫い込んだ。それを見てお客様達は、なるほどこいつア名取者だと初めて知った。
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このように、妻がちょっと目を離したスキに、とんでもないことをしでかすのが「バカ婿」シリーズの筋立てだ。舅家への道順をようやく憶えたバカ婿は、再びお呼ばれして出かけることになるのだが、妻が実家では必ず風呂を勧められると思うから、そのときは糠袋をもらって身体をきれいに洗いなさいと、くれぐれもいいきかせて夫を送りだした。
バカ婿は舅家まで歩いていく道々で、「糠、糠、糠」と繰り返して忘れないようにしていたが、道で石につまずいたとき、つい「沢庵、沢庵、沢庵」といいまちがえてしまった。舅家に着いて、さっそく風呂を勧められたバカ婿は、下女に「沢庵漬、沢庵漬」と風呂場から叫んだ。食べるなら切ってお持ちしましょうかという下女に、長いのを1本そのまま持ってきてくれといって、沢庵漬で一生懸命身体をこすりはじめた……。
森口多里が、水沢町で好きな「馬鹿婿噺」を集めてまわり、楽しみながら記録していった様子が目に浮かぶ。これらの小噺は、単発で終わるのではなく、つづきもののように延々と語られつづける点も、彼が惹かれた要因だろうか。
さて、話はガラリと変わるが、森口多里は母校の早大キャンパスにある大隈重信Click!(立像)と高田早苗Click!(座像)の銅像の位置が近接していて窮屈だとし、建築学的あるいは美術的な視点から前総長の高田早苗の銅像を正門を入ったところ、すなわち当時の図書館と本部校舎にはさまれた広場に移してはどうかと書いている。そして、壮大な並木を植えてキャンパスを緑化したらいかがなものかと、当時としては斬新な提案をしていた。1943年(昭和18)に鱒書房から出版された、森口多里『美と生活』から引用してみよう。
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銅像のことは別としても、あの正門内の広場には壮大な並木が欲しいものだと、つねづね思つてゐたのである。一体、東京市は樹木の割合に豊富な都である筈だが、その割に、緑蔭を歩くといふ快味には恵まれることの少い都である。(中略) さて、学園の広場に並木をつくるとすれば、どんな種類の樹木を選ぶべきであらうか。勿論落葉樹であるべきだが、篠懸木(プラタナス)では無風流だと感ずるならば、さしづめ公孫樹といふところか。しかし、公孫樹の樹冠は洋風建築の前では何となく窮屈な固い感じを与へるし、それに東京帝大で既に先鞭をつけてゐるから、日本的な風趣を望むならば、寧ろ欅などがよいであらう。成長の早い水木でも悪くない。私の空想が許されるならば、菩提樹の並木をつくりたい。
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森口多里ならではの、美術的な感覚と建築学的な美感を合わせて考察した風景論が展開されている同書だが、残念ながら現在の正門を入ったところにある広場に植えられた並木は、菩提樹ではなくヒマラヤスギ(左手)とイチョウ(右手)だ。
森口多里が望んでいた並木のひとつであるケヤキは、大学のキャンパス内ではなく正門通り(現・早大通り)に植えられて、この半世紀で大きく枝葉を拡げて気持ちがいい緑蔭をつくっている。早大正門から山吹町の交差点まで、東へおよそ900m余もつづく正門通りのケヤキ並木は美しいが、森口多里の「勿論落葉樹であるべきだ」というのにはかなっているものの、気の遠くなるような量の落ち葉掃きをする人たちにしてみれば、12月の声を聞くと下落合の多くの住民たちと同様に、かなり憂鬱になるのではないだろうか。
◆写真上:岩手県遠野市の風景で、この地方独特の“曲がり屋”が見えている。
◆写真中上:上は、佐々木喜善(左)と柳田國男(右)。中左は、2010年(平成22)出版の佐々木喜善『聴耳草紙』(筑摩書房)。中右は、1910年(明治43)出版の柳田國男『遠野物語』(初期私家版)。下は、遠野市でもっとも有名な観光スポットの「河童淵」。
◆写真中下:上左は、2009年(平成21)出版の佐々木喜善『遠野奇談』(河出書房新社)。上右は、2020年(令和2)出版の佐々木喜善『ザシキワラシと婆さまの夜語り』(河出書房新社)。中左は、佐々木喜善と交流した宮澤賢治。中右は、佐々木喜善に昔話や民話を提供した森口多里。下は、森口多里の提案とは異なる並木がつづく早大正門内広場。なんだか立て看のないキャンパスは、スッキリしすぎていて学生たちがヒツジのようで逆に不安になる。ところで学校当局のひどい腐敗ぶりに、なぜ日大の学生諸君は怒らないのだろう?
◆写真下:上は、早大演劇博物館への並木道。中は、1974年(昭和49)に撮影された早大通り(旧・正門通り)。下は、現在の早大通りでケヤキが育ち緑蔭ができている。