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鎌倉の五郎入道正宗Click!は、刀身の焼入れ直前に行なう「土取り」に、どこの粘性の高い土または粘土を混ぜあわせて使っていたのだろう? おそらく、神奈川の鎌倉付近で産出する高い粘性の土か凝灰質の粘土、あるいはその混合であったのはまちがいないのだろうが、相州伝(というか日本刀)を代表する刀工の技術は、いまに伝わっていない。
刀剣の鍛冶における「土取り」とは、目白(鋼)Click!を沸かして折返し鍛錬を繰り返し、刀身のかたちへ造りこんで素延べにし、反りをつけて生仕上げの荒研ぎ(鑢がけ)をしたあと、焼入れの手前で行なう非常に重要な工程のことだ。
土取り(あるいは「土置き」ともいう)に使う「焼刃土(やきばつち)」は、粘性の高い土または粘土を焼き(焼かない工法もあるようだ)、そこに砥石(大村砥)の粉と松炭の粉を入れてよく混ぜ合わせる。土と砥石粉と松炭粉は1:2:3の割合といわれているが、すべて刀工ごと一子相伝の極秘技術なので、あくまでも一般論としてお読みいただきたい。砥石の粉は大村砥のものとは限らず、また炭粉も松炭のものとは限らないケースがあるかもしれない。砥石や炭は、あらかじめ薬研Click!で粉にして準備しておく。
これらの材料を混ぜあわせた黒い焼刃土を、刀の形状らしくなった素延べの刀身へていねいに塗っていく。そして、もっとも重要なのは刀身の刃の部分に塗られた焼刃土へ、任意の“文様”をつけながら落としたり薄く削ったりする。この工程により、焼入れのときに刃の部分は鋼の硬さや強度がさらに増し、他の部分は皮鉄や芯鉄、棟鉄など鋼の柔軟性を備えたまま、「折れず曲がらずよく斬れる」日本刀ができあがる。
また、刃や平地の部分の焼刃土の落とし具合や描く“文様”しだいで、直刃(すぐは)や乱刃(みだれば)、皆焼(ひたつら)など、多種多様な思いどおりの刃文を形成することができる。この土取りから焼入れまでの工程が、日本全国に展開していた刀工ごと、流派ごとに門外不出の“秘伝”なのはもちろん、この工程を工夫することで、誰も見たことのない新たな刃文を生み出すこともできるのだ。
世界中の刀剣を見わたしても、目白(鋼)の緻密な折返し鍛錬にはじまり、このように繊細な工程をとる製品は存在せず、日本刀ならではの独自技法の世界だ。その土取りについて、1939年(昭和14)に岩波書店から出版された本間順治『日本刀』から引用してみよう。
▼
やがて焼入に進むのであるが、こゝでも亦切れるやうに、折れてはならぬの注文に応じて周到の用意がなされるのである。その為には焼刃土と称するものを鋼の箆(へら)でまづ刀身一面に塗り、次に刃にする部分の土を落す、それは刃の部分だけに完全に焼を入れてそこを硬くしようとの計画である。この焼刃土は、土を焼きそれに松炭と砥石の粉末を混じ(ママ:混ぜ)、乳鉢で水を加へてよく練つたもので、土そのものの吟味も大切である。(中略) さて日本刀には直刃だけでなく種々の刃文があるが、それは土の置き方、落し方に色々と各工が趣向を凝らすからで、この工作を土取と云ひ、これの巧拙も刃文に表れるのである。(カッコ内引用者註)
▲
刃にする部分の土を、「落とす」(土を取る)というように表現しているが、すべての土を落としてしまうわけでなく、実際には刃になる部分の土を薄くしたり、いろいろな“文様”を加えたりすることだ。つまり、刀剣を武器としてではなく、美術品と同等に刃文や平地を鑑賞するのが普通になった元和偃武ののち、この土取りがいかに重要な工程であり、刀工たちの腕の見せどころだったのかがわかるだろう。
本間順治は、「土そのものの吟味も大切である」と書いているが、その昔、山城の小鍛冶(刀鍛冶)たちは伏見の稲荷山の土を好んで用いたとされている。同様に、相州伝Click!を完成させた正宗は、鎌倉あるいはその周辺の山々の土や粘土を探索し、自身が鍛える作品の土取りに最適な土または粘土を発見していると思われる。
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そこで、かぜん重要なテーマとして浮上してくるのが、室町末ないしは江戸初期から雑司ヶ谷村の金山で鍛刀していた石堂一派Click!(石堂守久Click!一族の可能性がある)の存在だ。金山の石堂派は、周辺に残る大鍛冶=タタラによる砂鉄を神奈流しで収集する、目白(鋼)製鉄Click!の事蹟Click!に惹かれたのかもしれないが、同時に雑司ヶ谷金山の「土(粘土)」が土取りの工程に適しているのを発見して工房をかまえているのではないか。江戸初期までタタラ製鉄の跡が残る、あちこちに露出した崖地の地層から、土取りに最適な土(粘土)を採集して、金山に鍛冶場を設ける決心をしたのではないか?……という想定だ。
関東平野の赤土は、富士山や箱根連山などの噴火による、もともと粘性の高い火山灰質の土壌をしている。たとえば、落合地域に通う神田川とその周辺のロームは、上から下へ立川ロームClick!に武蔵野ローム(以上が富士山の噴火による火山灰とみられる)、その下が下末吉ロームに多摩ローム(以上が箱根・伊豆連山の噴火による火山灰とみられる)、その下には小石によって形成された武蔵野礫層=東京礫層(東京パミス)と凝灰質粘土層が走り、さらにその下には12~13万年前に形成された木下(きおろし)層(木下貝層)または古東京湾層Click!と呼ばれる、多数の貝化石を産出する古い地層が積み重なっている。
これらの地層の中で、粘土そのものはロームの下に礫層とともにあり、地下水脈が走る凝灰質粘土層だが、刀剣の土取りに用いられそうな土は、ロームであれば粘性が高くていずれも使えそうだし、凝灰質粘土と混ぜればより強力な粘り気を発揮するだろう。土取りをした刀身は、もう一度火床で熱せられ火をくぐるので、砥石粉や炭粉と混ぜても強い粘性を維持できなければ使いものにならない。鎌倉の土壌も、岩盤が露出している一帯はともかく、おそらく東京の地層や土壌と似たり寄ったりだろうから、正宗も土取りに適した土質の吟味には少なくない時間をかけたのだろう。
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この土取り(土置き)用の土の作り方について、現代刀匠の事例を引用してみよう。2011年(平成23)に雄山閣から出版された、松田次泰・かつきせつこ『日本刀・松田次泰の世界―和鉄が生んだ文化―』で明らかにされた内容だ。ちなみに、刀工が秘匿すべき自身の技術を公開することなど、少し前の時代まではありえない話だった。
▼
生仕上げの工程を終えると、刀の姿が決まってきます。次に焼入れ工程にすすみますが、まず土置きといって刀身に土を塗る作業から始めます。/土を置く前に、刀身の表面を金剛砥石でこすり、次にわら灰でこすって水洗いし、塗った土が剝がれないよう脂気をとります。そして刀身を自然乾燥させておきます。/刀身に塗る土は、ホドの火にかけた時に剥がれず、焼入れの水に入れた時には適度に剥がれる土がよいとされています。これは粘りのある粘土(木節粘土)と砂っぽい砥石の粉(大村砥)と木炭の粉(薬研で細かにしたもの)を合わせてつくります。その割合は基本的には1:2:3ですが、この比率は条件に合わせて変えることもあります。合わせた土に水を加え、スリガラスの上でヘラで擂って練ります。/ザラザラという擂る音がなめらかなシャリシャリという音に変わっていき、練ってできた土の溜まりの山が流れない程度にねっとりしてくると、そこで止めます。そうなるまでに一時間ほど要します。
▲
松田刀匠は、窯業(焼き物)などで多用される「木節粘土」を用いているようだが、それがたやすく手に入りにくい時代には、もちろん全国の各地域で特有の多種多様な粘土が用いられ、さまざまな工夫がほどこされていたのだろう。その粘土あるいは土の混合もまた、刀鍛冶たちの秘匿技術であったにちがいない。
刀鍛冶たちは、土取り(土置き)で刀に塗った土の厚さや薄さ、特に刃の部分に描く“文様”を見ただけで、どのような刃文が形成されるのかがだいたいわかる。それもまた秘技であり、これまで一般に公開されることなどありえなかった。全国に展開した各流派によって、刃部の土取りは千差万別であり、焼入れをへて姿を現す刃文もまた、それぞれの流派の特徴を備えた個別独特な美しい景色を備えている。
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雑司ヶ谷村は、鬼子母神Click!で有名になっていくが、江戸初期には市街地から遠く離れた郊外だった。そんな不便な地へ、なぜ石堂派は工房をかまえたのだろうか。目白(鋼)を製錬した大鍛冶、すなわちタタラの事蹟も重要だが、もうひとつ彼らが神奈流しで残した雛壇状の崖地にのぞく、さまざまな地層の土質に惹かれたのではないか。
余談だが、金山にいた刀鍛冶を石堂孫左衛門とする史料と、「石堂孫右衛門」とする史料が散見される。もちろん、金子直德が寛政年間に記した原典の『和佳場の小図絵』では石堂孫左衛門だが、のちに同じ金山で鍛冶屋(野鍛冶?)を営んでいた遠藤孫右衛門と混同している史料がありそうだ。このテーマについては、また改めて記事にしたいと思っている。
◆写真上:雑司ヶ谷の金山に露出した住宅造成地の地層で、最上部の立川ロームから凝灰質粘土層まできれいに現われている。途中で地盤が隆起したものか、武蔵野礫層(東京パミス)から下の地層が斜めに湾曲しているのがわかる。石堂派の刀工たちは、大鍛冶(タタラ集団)が残した神奈流し跡に露出する、このような地層を目にして土取りに適した「土」を見つけたのではないだろうか。上部の建物は、日本女子大学の付属寮。
◆写真中上:上・中は、雑司ヶ谷金山の崖地風景。下は、緑が多い金山地域の風情。
◆写真中下:上は、鎌倉駅近くにある「正宗孫刀剣鍛冶綱廣」の工房。綱廣が「正宗子孫」と名のるのは後世なので、正宗の相州伝を伝承するという意味ぐらいにとらえたい。中左は、2004年(平成16)に出版された天田昭次『鉄と日本刀』(慶友社)。中右は、2011年(平成23)出版された松田次泰・かつきせつこ『日本刀・松田次泰の世界―和鉄が生んだ文化―』(雄山閣)。下は、刀匠・天田昭次の土取り。(『鉄と日本刀』より)
◆写真下:上・中は、土取りとそれによって形成された刃文。(『日本刀・松田次泰の世界―和鉄が生んだ文化―』より) この土取りの文様だと、互の目丁子(ぐのめちょうじ)混じりの中直(なかすぐ)刃文が形成されるようだが、いくら土取りを眺めても素人にはわからず、長い経験と実績を積み重ねてきた作刀技術の成果だ。下は、第一徴兵保険Click!(のち東邦生命)の宅地開発Click!により切り崩される前の御留山Click!(左手)と、丘陵へ切りこんだ谷戸の崖地に露出した地層を描いた、1922年(大正11)制作の清水多嘉示Click!『下落合風景』Click!。
★清水多嘉示の作品画像は、保存・監修/青山敏子様によるものです。
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鎌倉の五郎入道正宗Click!は、刀身の焼入れ直前に行なう「土取り」に、どこの粘性の高い土または粘土を混ぜあわせて使っていたのだろう? おそらく、神奈川の鎌倉付近で産出する高い粘性の土か凝灰質の粘土、あるいはその混合であったのはまちがいないのだろうが、相州伝(というか日本刀)を代表する刀工の技術は、いまに伝わっていない。
刀剣の鍛冶における「土取り」とは、目白(鋼)Click!を沸かして折返し鍛錬を繰り返し、刀身のかたちへ造りこんで素延べにし、反りをつけて生仕上げの荒研ぎ(鑢がけ)をしたあと、焼入れの手前で行なう非常に重要な工程のことだ。
土取り(あるいは「土置き」ともいう)に使う「焼刃土(やきばつち)」は、粘性の高い土または粘土を焼き(焼かない工法もあるようだ)、そこに砥石(大村砥)の粉と松炭の粉を入れてよく混ぜ合わせる。土と砥石粉と松炭粉は1:2:3の割合といわれているが、すべて刀工ごと一子相伝の極秘技術なので、あくまでも一般論としてお読みいただきたい。砥石の粉は大村砥のものとは限らず、また炭粉も松炭のものとは限らないケースがあるかもしれない。砥石や炭は、あらかじめ薬研Click!で粉にして準備しておく。
これらの材料を混ぜあわせた黒い焼刃土を、刀の形状らしくなった素延べの刀身へていねいに塗っていく。そして、もっとも重要なのは刀身の刃の部分に塗られた焼刃土へ、任意の“文様”をつけながら落としたり薄く削ったりする。この工程により、焼入れのときに刃の部分は鋼の硬さや強度がさらに増し、他の部分は皮鉄や芯鉄、棟鉄など鋼の柔軟性を備えたまま、「折れず曲がらずよく斬れる」日本刀ができあがる。
また、刃や平地の部分の焼刃土の落とし具合や描く“文様”しだいで、直刃(すぐは)や乱刃(みだれば)、皆焼(ひたつら)など、多種多様な思いどおりの刃文を形成することができる。この土取りから焼入れまでの工程が、日本全国に展開していた刀工ごと、流派ごとに門外不出の“秘伝”なのはもちろん、この工程を工夫することで、誰も見たことのない新たな刃文を生み出すこともできるのだ。
世界中の刀剣を見わたしても、目白(鋼)の緻密な折返し鍛錬にはじまり、このように繊細な工程をとる製品は存在せず、日本刀ならではの独自技法の世界だ。その土取りについて、1939年(昭和14)に岩波書店から出版された本間順治『日本刀』から引用してみよう。
▼
やがて焼入に進むのであるが、こゝでも亦切れるやうに、折れてはならぬの注文に応じて周到の用意がなされるのである。その為には焼刃土と称するものを鋼の箆(へら)でまづ刀身一面に塗り、次に刃にする部分の土を落す、それは刃の部分だけに完全に焼を入れてそこを硬くしようとの計画である。この焼刃土は、土を焼きそれに松炭と砥石の粉末を混じ(ママ:混ぜ)、乳鉢で水を加へてよく練つたもので、土そのものの吟味も大切である。(中略) さて日本刀には直刃だけでなく種々の刃文があるが、それは土の置き方、落し方に色々と各工が趣向を凝らすからで、この工作を土取と云ひ、これの巧拙も刃文に表れるのである。(カッコ内引用者註)
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刃にする部分の土を、「落とす」(土を取る)というように表現しているが、すべての土を落としてしまうわけでなく、実際には刃になる部分の土を薄くしたり、いろいろな“文様”を加えたりすることだ。つまり、刀剣を武器としてではなく、美術品と同等に刃文や平地を鑑賞するのが普通になった元和偃武ののち、この土取りがいかに重要な工程であり、刀工たちの腕の見せどころだったのかがわかるだろう。
本間順治は、「土そのものの吟味も大切である」と書いているが、その昔、山城の小鍛冶(刀鍛冶)たちは伏見の稲荷山の土を好んで用いたとされている。同様に、相州伝Click!を完成させた正宗は、鎌倉あるいはその周辺の山々の土や粘土を探索し、自身が鍛える作品の土取りに最適な土または粘土を発見していると思われる。
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関東平野の赤土は、富士山や箱根連山などの噴火による、もともと粘性の高い火山灰質の土壌をしている。たとえば、落合地域に通う神田川とその周辺のロームは、上から下へ立川ロームClick!に武蔵野ローム(以上が富士山の噴火による火山灰とみられる)、その下が下末吉ロームに多摩ローム(以上が箱根・伊豆連山の噴火による火山灰とみられる)、その下には小石によって形成された武蔵野礫層=東京礫層(東京パミス)と凝灰質粘土層が走り、さらにその下には12~13万年前に形成された木下(きおろし)層(木下貝層)または古東京湾層Click!と呼ばれる、多数の貝化石を産出する古い地層が積み重なっている。
これらの地層の中で、粘土そのものはロームの下に礫層とともにあり、地下水脈が走る凝灰質粘土層だが、刀剣の土取りに用いられそうな土は、ロームであれば粘性が高くていずれも使えそうだし、凝灰質粘土と混ぜればより強力な粘り気を発揮するだろう。土取りをした刀身は、もう一度火床で熱せられ火をくぐるので、砥石粉や炭粉と混ぜても強い粘性を維持できなければ使いものにならない。鎌倉の土壌も、岩盤が露出している一帯はともかく、おそらく東京の地層や土壌と似たり寄ったりだろうから、正宗も土取りに適した土質の吟味には少なくない時間をかけたのだろう。
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この土取り(土置き)用の土の作り方について、現代刀匠の事例を引用してみよう。2011年(平成23)に雄山閣から出版された、松田次泰・かつきせつこ『日本刀・松田次泰の世界―和鉄が生んだ文化―』で明らかにされた内容だ。ちなみに、刀工が秘匿すべき自身の技術を公開することなど、少し前の時代まではありえない話だった。
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生仕上げの工程を終えると、刀の姿が決まってきます。次に焼入れ工程にすすみますが、まず土置きといって刀身に土を塗る作業から始めます。/土を置く前に、刀身の表面を金剛砥石でこすり、次にわら灰でこすって水洗いし、塗った土が剝がれないよう脂気をとります。そして刀身を自然乾燥させておきます。/刀身に塗る土は、ホドの火にかけた時に剥がれず、焼入れの水に入れた時には適度に剥がれる土がよいとされています。これは粘りのある粘土(木節粘土)と砂っぽい砥石の粉(大村砥)と木炭の粉(薬研で細かにしたもの)を合わせてつくります。その割合は基本的には1:2:3ですが、この比率は条件に合わせて変えることもあります。合わせた土に水を加え、スリガラスの上でヘラで擂って練ります。/ザラザラという擂る音がなめらかなシャリシャリという音に変わっていき、練ってできた土の溜まりの山が流れない程度にねっとりしてくると、そこで止めます。そうなるまでに一時間ほど要します。
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松田刀匠は、窯業(焼き物)などで多用される「木節粘土」を用いているようだが、それがたやすく手に入りにくい時代には、もちろん全国の各地域で特有の多種多様な粘土が用いられ、さまざまな工夫がほどこされていたのだろう。その粘土あるいは土の混合もまた、刀鍛冶たちの秘匿技術であったにちがいない。
刀鍛冶たちは、土取り(土置き)で刀に塗った土の厚さや薄さ、特に刃の部分に描く“文様”を見ただけで、どのような刃文が形成されるのかがだいたいわかる。それもまた秘技であり、これまで一般に公開されることなどありえなかった。全国に展開した各流派によって、刃部の土取りは千差万別であり、焼入れをへて姿を現す刃文もまた、それぞれの流派の特徴を備えた個別独特な美しい景色を備えている。
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雑司ヶ谷村は、鬼子母神Click!で有名になっていくが、江戸初期には市街地から遠く離れた郊外だった。そんな不便な地へ、なぜ石堂派は工房をかまえたのだろうか。目白(鋼)を製錬した大鍛冶、すなわちタタラの事蹟も重要だが、もうひとつ彼らが神奈流しで残した雛壇状の崖地にのぞく、さまざまな地層の土質に惹かれたのではないか。
余談だが、金山にいた刀鍛冶を石堂孫左衛門とする史料と、「石堂孫右衛門」とする史料が散見される。もちろん、金子直德が寛政年間に記した原典の『和佳場の小図絵』では石堂孫左衛門だが、のちに同じ金山で鍛冶屋(野鍛冶?)を営んでいた遠藤孫右衛門と混同している史料がありそうだ。このテーマについては、また改めて記事にしたいと思っている。
◆写真上:雑司ヶ谷の金山に露出した住宅造成地の地層で、最上部の立川ロームから凝灰質粘土層まできれいに現われている。途中で地盤が隆起したものか、武蔵野礫層(東京パミス)から下の地層が斜めに湾曲しているのがわかる。石堂派の刀工たちは、大鍛冶(タタラ集団)が残した神奈流し跡に露出する、このような地層を目にして土取りに適した「土」を見つけたのではないだろうか。上部の建物は、日本女子大学の付属寮。
◆写真中上:上・中は、雑司ヶ谷金山の崖地風景。下は、緑が多い金山地域の風情。
◆写真中下:上は、鎌倉駅近くにある「正宗孫刀剣鍛冶綱廣」の工房。綱廣が「正宗子孫」と名のるのは後世なので、正宗の相州伝を伝承するという意味ぐらいにとらえたい。中左は、2004年(平成16)に出版された天田昭次『鉄と日本刀』(慶友社)。中右は、2011年(平成23)出版された松田次泰・かつきせつこ『日本刀・松田次泰の世界―和鉄が生んだ文化―』(雄山閣)。下は、刀匠・天田昭次の土取り。(『鉄と日本刀』より)
◆写真下:上・中は、土取りとそれによって形成された刃文。(『日本刀・松田次泰の世界―和鉄が生んだ文化―』より) この土取りの文様だと、互の目丁子(ぐのめちょうじ)混じりの中直(なかすぐ)刃文が形成されるようだが、いくら土取りを眺めても素人にはわからず、長い経験と実績を積み重ねてきた作刀技術の成果だ。下は、第一徴兵保険Click!(のち東邦生命)の宅地開発Click!により切り崩される前の御留山Click!(左手)と、丘陵へ切りこんだ谷戸の崖地に露出した地層を描いた、1922年(大正11)制作の清水多嘉示Click!『下落合風景』Click!。
★清水多嘉示の作品画像は、保存・監修/青山敏子様によるものです。