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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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ピースをくわえてダミ声でしゃべる「天使」。

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十返千鶴子邸跡.JPG
 三田村鳶魚Click!は、「幽霊を、あるとして無い証拠を挙げるのも、無いとしてあるという現実を打破しようとするのもコケの行き止まりだ」としているが、それが物理的な存在でない以上「科学の眼」では存在しないものの、幽霊譚そのものは確実に存在しているので、それが民俗的に人間にとってどのような意味をもつのかを考えるのは、逆に大きな意味をもつことになるのだろう。幽霊を「いる」「いない」と論争したところで、三田村鳶魚のいう「コケの行き止まり」になって非生産的なことにちがいない。
 最近、なにやら記事が怪談づいているけれど、下落合の住民にもこんな話が残っていた。権兵衛坂Click!が通う大倉山Click!の中腹、下落合1丁目286番地(現・下落合2丁目)には、中井英夫Click!『虚無への供物』Click!に登場する「下落合の牟礼田の家」のモデルになった、見晴らしのいい十返千鶴子Click!十返肇Click!夫妻邸が建っていた。十返千鶴子は2006年(平成18)に死去する前、下落合に中村彝アトリエClick!が現存することをエッセイ「下落合-坂のある散歩道-」を通じて教えてくれた、わたしにとっては重要な人物だ。
 十返千鶴子は、夫の十返肇をかなり早くから亡くしており、その後、43年間もひとり身を張り通した女性だが、42歳のときに思いがけなく幽霊に遭遇して会話までしている。ほかならぬ夫の十返肇の幽霊で、下落合の自邸ではなく旅行先の海外で出会っている。ちなみに、文芸評論家で編集者の十返肇は、1963年(昭和38)に49歳で病死しているので、記事の出来事はその3年後ということになる。
 1966年(昭和41)に発行された東京タイムズに掲載の「フローレンスの亡霊」とタイトルされた記事を、それが収録されている1969年(昭和44)に社会思想社から出版された今野圓輔『日本怪談集―幽霊篇―』から孫引きしてみよう。
  
 約二カ月間のアメリカ・ヨーロッパの旅から帰ってきた十返千鶴子さん、三年前になくなった夫君肇さんの亡霊を、フローレンスで見たと大さわぎ。/というのは、その町のホテルについた千鶴子さんを、着物姿で、虎造ばりのダミ声でたずねてきた肇さんは「着物の柄までわかるんですよ。たびをはいていたし、足もありましたよ」とのこと。二人は世間ばなしの末、夜もふけ、さてということになったが、肇さんの亡霊は、「それだけはあかんのや。わいは、フローレンスの文壇にいるが、まだ下ッぱで、それをしたら追放されてしまうのや。かんにんや」と、ピースを口にくわえたまま、白い翼をパタパタさせて、窓から飛んでいってしまった。「幻なんてものではありません。本当に生きているのと同じでしたよ」としきりと、名残りおしそうな十返さんでした。
  
 浪花節の虎造なみに、ダミ声を張りあげてしゃべっていたとすれば、ずいぶんうるさくて耳ざわりだったろう。十返肇の声を、わたしは聞いたことがないが、東京が長いにもかかわらず、ふだんからこのように大阪弁(出身は香川)のようなしゃべり方をしていたものだろうか。文中の「フローレンス」とは、米国サウスカロライナ州の都市のことだと思うが、なぜ十返肇がこんなところに化けてでるのかもさっぱりわからない。
十返肇.jpg 十返千鶴子.jpg
十返千鶴子「夫恋記」1984.jpg 東京人199103.jpg
 十返肇は、1935年(昭和10)に大学を卒業すると、在学中から参加していた中河與一Click!の主宰する「翰人」の同人となっている。そして、吉行エイスケClick!に師事して文学を志したが(師事する作家をまちがえている気もするが)、途中で企業の宣伝部に就職して広告の仕事をしたあと、第一書房に入社して「新文化」の編集長をつとめた。戦後は文芸評論が中心で、その対象は海外文学というよりは国内文学の評論活動が多い。
 つまり、彼の死後、米国のフローレンス市までわざわざ出かけていって、そこの文壇の「下ッぱ」になっている意味が不明なのだ。生前に、米国文学の評論家や研究者であれば不思議ではないが、彼は日本文学をおもな対象とする評論家だったはずだ。しかも着物姿で、日本でしか販売されていないピース(両切り缶ピース)を吸いながら出現している。きわめつけは、「白い翼」をパタパタさせながら、窓から空へ飛びだしていったことで、米国では幽霊になると背中に天使のような羽根が生えるのか……と、がぜん十返千鶴子証言のリアリティを薄め、信憑性を根底からゆるがしかねない姿をして現れている。
 十返千鶴子は、現在の小池真理子が体験を綴っているのと同様に、夫の死に大きな喪失感と痛手を受けており、その後、夫を思いつづける暮らしをしていたのは『夫恋記』(1984年)などの内容からも明らかだが、死別の衝撃で思いつめたそんな感情が、旅先の米国のホテルで孤独感とともにあふれだし、思いもかけない羽の生えた夫の幽霊を夢か現(うつつ)に出現させた……とでもいうのだろうか。
 そこまで慕われていたら、男としては死んでも本望だろうが、それほど慕っても懐かしんでもいない、死んでようやく世話から解放されせいせいしている妻のもとへ、夫の幽霊が白い羽をパタパタさせながら「かんにんや~」とダミ声のくわえタバコで現れたりしたら、「うるさい!」とキンチョールでもシューッと噴きかけられて、羽根をパタつかせながら「かなわんな~」と窓から逃げていくのだろうか。よほど仲のいい夫婦でなければ、十返千鶴子のような“怪談”証言は生まれにくいのだろう。
十返夫妻(下落合).jpg
十返千鶴子邸2007.JPG
 十返夫婦とは逆に、妻が先に死んでしまい、死後も夫を慕いつづけ亡霊となって現れるという怪談は、古今東西を問わず数が多い。女性の幽霊のほうが、なにかと凄味があって怖いのだろうけれど、冒頭の江戸研究家・三田村鳶魚にちなんで、江戸前期の代表的な仮名草子である1661年(寛文元)に出版された鈴木正三『因果物語』から、とある仲のいい夫婦にまつわる怪談をピックアップしてみた。しかも、死んだ妻の幽霊は裏切った夫の前ではなく、後妻におさまった女性の前に「うらめしや」と出現して悩ませている。現代語訳は今野圓輔で、「夫は恨まぬが」から引用してみよう。
  
 江戸の麹町のある人の妻が重病にかかって死ぬ前、その夫に向かって、「もし自分が死んだ後に、家の下女を後妻にでもしたら、きっと祟りをするであろう。よくよく覚えていなさい」と遺言しておいた。/ところが男は、妻が死んで間もなく、その遺言も忘れて、下女を女房に直すと、そこへ妻の幽霊が現れて、下女の髪をむしり取ろうとするので、その痛さ、苦しさ、恐ろしさに下女は大声で泣き叫ぶ。驚いて人びとが集まって来て、よくよく見ると何の変わったこともない。けれども人がいなくなると、また幽霊が手をのべて、ちくちくむしり取ろうとする。こうした事が度重なって、下女の頭には、ついに一本の髪の毛も残らず、とうとうあえなく死んでしまったという。
  
 麹町(江戸期は糀町)での出来事なので、おそらく小旗本の屋敷内で起きた怪談なのだろう。おそらく、この屋敷の主人は婿養子で、生前は妻に頭があがらなかったのではないか。迷惑なのは、主人から頼まれて後妻に入った「下女」のほうだ。
 生前の約束を守らず、「なかったこと」にして無責任な行ないをしているのは夫のほうであり、本来なら夫の前に「うらめしや」と化けてでるのが理屈のはずだが、よほど夫が好きだったものか、後妻に嫉妬してとり憑き殺すというまったく筋ちがいなことをしている。そんなに夫への未練があるのなら、夫をとり殺してあの世へ芝居の「道行き」よろしく連れていけばいいのに……と考えるのは、あまりにも合理的で現代的な発想だろうか。
 また、仲のよい夫婦のもとには、先に死んだ夫なり妻なりが慕わしげに化けてでるのであれば、仲の悪い夫婦の場合は、なおさら執念深く復讐すべき相手の前へ、恨みごとを並べつつ呪いや祟りをもたらす悪霊となって、頻繁に出現してもよさそうなものだが、案外そのような怪談は少ない。相手を殺害したりすれば別だが、単に仲が悪いぐらいの夫婦では、先にどちらかが死んでも残されたほうはせいせいして、さっそく相手を忘却のかなたへと押しやるせいで、幽霊の出現率も非常に少ないのではないかと想像できる。
カバネル「ヴィーナスの誕生」1863.jpg
鈴木正三「因果物語」1661寛文元.jpg 新刻因果物語挿画(山本平左衛門板)1963.jpg
 つまり、思いが深ければ幽霊が出現し、思いが薄く逆に嫌いか、どうでもよければ幽霊の出現率が低下するのは、どうやら残された妻なり夫なりの心理や記憶に、その主因が求められそうな気がするのだ。十返千鶴子は、よほど夫思いの女性だったのではないだろうか。

◆写真上:新宿駅方面が一望できる、権兵衛坂の中腹にあった十返邸跡の現状。
◆写真中上は、十返肇()と十返千鶴子()。下左は、1984年(昭和59)に新潮社から出版された十返千鶴子『夫恋記』。下右は、十返千鶴子のエッセイで中村彝アトリエの現存を気づかせてくれた1991年(平成3)発行の「東京人」3月号。
◆写真中下は、下落合の自宅でくつろぐ十返肇・十返千鶴子夫妻。は、十返千鶴子が死去した翌年(2007年)に撮影した十返千鶴子邸。
◆写真下は、くわえタバコに和服姿でダミ声のおしゃべりな「天使」が、「かんにんや~」と現れたらどうしたもんだろう。カバネルの『ヴィーナスの誕生』(1863年/部分)より。下左は、1661年(寛文元)に出版された鈴木正三『因果物語』。下右は、その3年後の1663年(寛文3)に出版された『新刻因果物語』(山本平左衛門版)の挿画。

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