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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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公楽キネマの周辺に写る上落合の家々。

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公楽キネマ(昭和初期).jpg
 月見岡八幡社Click!の宮司・守谷源次郎Click!が、大正末か昭和の最初期に上落合530番地にあった火の見櫓から東を向いて撮影した、上落合521番地の公楽キネマClick!とその周辺の写真をすでにご紹介していた。きょうは、公楽キネマの周辺にとらえられた住宅や早稲田通り沿いの商店について、できるだけその詳細を特定してみたい。
 参考にするのは、公楽キネマが1933年(昭和8)に発行していた映画案内パンフレットの週刊「公楽キネマ」Click!へ、映画の観客をターゲットに出稿していた周囲の商店広告や、1938年(昭和13)に作成された「火保図」、そして同時期の各種地図類などだが、撮影時期が大正末から昭和初期ごろということなので、10年ほどのちに記録された「火保図」とは、住民や商店、施設などに若干の齟齬があるかもしれない。
 また、1932年(昭和7)に東京35区制Click!の施行で淀橋区Click!が成立し、落合町が消滅(地域が上落合・下落合・西落合へ)するとともに、道路や路地の拡張工事などが行われ、それにともない若干の地番変更がなされていると思われる。もちろん、写真当時の道路や路地は拡幅整備工事の前であり、「火保図」の時代とはかなり異なっている点にも留意したい。以上のようなテーマをご承知のうえで、読み進めていただければと思う。
 まず、火の見櫓の下に見えている風景から見てみよう。火の見櫓と同じ早稲田通り沿いの真下に見えている屋根は、上落合530番地の守田医院だ。院長は守田武雄という人で、内科と小児科が専門の医者だった。実は、撮影者の背後のすぐ真下も医者で、岡本一之助が院長の岡本医院だった。こちらも専門は内科と小児科で、火の見櫓をはさんでまったく同じ診療科目の医院がふたつ競合して並んでいたことになる。
 守田医院の屋根から、狭い路地をはさんで視線を上(東側)に移していくと、早稲田通り沿いの商店群が並んでいる。当時の早稲田通りは、幅わずか三間(約5.5m)ほどしかなく、写真でもおわかりのようにかなり狭かった。その通りに面して、2階建てのひときわ目立つ大きなかまえの商店が、週刊「公楽キネマ」に広告を掲載していた武蔵屋・加藤錦造商店だろう。上落合524番地の同店は、清酒の卸し問屋兼小売りをしていた酒店だ。
 武蔵屋・加藤錦造商店の向こう側(東側)にも、細い道が左右(南北)に通っていたが、「火保図」(1938年)の時代になると大幅に拡幅され、しかも道筋が屈曲していたため早稲田通りへの出口は直線化工事のため元の小道よりも手前(西側)になるので、「火保図」(1938年)の時点では公楽キネマの西側に細長い三角形の、まるでロータリーのような敷地が取り残されてしまっているのがわかる。写真には未設で写っていないが、この新しく敷設されたのが現在の上落合中通りと呼ばれている道路だ。
 守田医院の近くにもどって、商店群のすぐ裏に2軒の大きめな家が写っている。「火保図」とは、住宅の配置が少し異なるが、庭に洗濯物がたくさん干されている家が、上落合528番地で地主の加藤喜崇邸、左手の画面から半分切れているのが上落合525番地(のち527番地)の武蔵屋を経営していた加藤錦造邸だろうか。一帯の520番地台の地番には加藤姓が多く、姻戚関係だったものか月見岡八幡社の氏子総代であり、大久保射撃場の移転・廃止運動Click!を上落合地域でリードした加藤公太郎Click!もまた、上落合524番地に住んでいた。
上落合1929.jpg
火の見櫓跡.JPG
公楽キネマ(昭和初期)周辺1.jpg
加藤錦造邸前.JPG
 次に、公楽キネマの近隣に目を移してみよう。いまだ拡幅される以前の、小道だったプレ上落合中通り沿いに建っている家々は、公楽キネマの建物と重なる手前が、1938年(昭和13)の時点では上落合523番地の倉持医院だ。この医院の詳細は不明で、1932年(昭和7)の『落合町誌』Click!には収録されていないので、1932年(昭和7)から「火保図」が作成される1938年(昭和13)の間に新規開業していると思われるが、この写真が撮影されたころは別の住民が住んでいたのだろう。倉持医院も内科・小児科だったりすると、この近所では患者の奪いあい状態だったろう。
 のちに倉持医院となる住宅の左隣り(北隣り)が金井邸、そのさらに北隣りが川上邸という並びだ。金井邸や川上邸の向こう側(北東側)には、東南から北西へ斜めに抜けるゆるいカーブの路地があるはずで、左端に写っているモダンな西洋館は露地の向こう側(東側)にある、上落合516番地の大きな小布施邸と思われる。その小布施邸の右斜め上(東並び)に見える、2階建てのこちらもかなり大きな和館が上落合517番地の林邸だろう。
 そして、小布施邸の屋根の上にチラリと見えている住宅は、上落合486番地のこちらも敷地が広く大きな屋敷だった山岡邸だ。また、林邸の右手(南側)に見えている大小2軒の家は、左手前が砥目邸で右奥が大きな戸川邸だと思われる。以上の邸のうち、早稲田通りから北へと入る小道(現・上落合会館通り)に面しているのは、南から北へ戸川邸、林邸、山岡邸の3軒ということになる。このあたり、大きな住宅が建ち並ぶお屋敷街だった様子が写真にとらえられていてよくわかる。
 さて、写された画面の遠景を見ていこう。まず、前述の現・上落合会館通りの沿道西側に並んでいた、戸川邸・林邸・山岡邸の3屋敷の向こう側、大きな樹木が繁り公楽キネマの屋根上のほうまで林が連なっているのが、当時は広い境内だった月見岡八幡社だ。同社の境内は、表参道の入口鳥居のある旧・八幡通りClick!の階段(きざはし)までつづき、移転後の現在の境内に比べると約2倍ほどの広さがあった。
 月見岡八幡社の裏参道の鳥居がある路地、すなわち写真では戸川邸の前あたりに上落合186番地の村山知義Click!村山籌子Click!「三角アトリエ」Click!があるはずだが、遠くて確認することができない。もし、同写真が昭和初期の撮影だとすると、すでに「三角アトリエ」は解体されて、村山家の広い敷地内には新しいアトリエや複数の借家、アパートなどが建設中だったはずだ。その際、村山夫妻は仮住まいとして、下落合735番地のアトリエClick!に転居していて上落合には不在だった。
上落合会館通り.JPG
公楽キネマ(昭和初期)周辺2.jpg
裏参道1935頃.jpg
裏参道跡.JPG
 月見岡八幡社の西北端には、改正道路(山手通り)工事で破壊された大塚浅間古墳Click!から移設した落合富士Click!が再構築され、その手前の上落合202番地には大きな山本邸が建っていたはずだが、画面にはとらえられていない。山本邸も「火保図」(1938年)では採取されているので、1935年(昭和10)前後に建設された住宅ではないかとみられる。公楽キネマの屋根の左側、暖炉の煙突があるオシャレな西洋館っぽい住宅は、おそらく上落合186番地の池田邸で、小道をはさんで右手(南側)に見えている屋根が太田邸だろうか。
 なお、月見岡八幡社の樹林の間から、旧・神田上水(1966年より神田川)沿いの前田地区Click!に建つ工場からの排煙が見えているが、方角的にみると旧・八幡通りの向こう側(東側)に建っていた、日本テラゾ工業所または大井製綿工場の排煙だろう。前田地区は大正期からの工業地域で、写真が撮影された時期には大井製綿工場の左手(北側)には小松製薬工場、昭和電気工場、東京護謨工場などが、また日本テラゾ工業所の右手(南or南東)には山崎精薬綿工場、東京製菓工場、山手製氷工場などが操業していた。
 早稲田通り沿いの遠景を見ると、公楽キネマの手前(西隣り)には店名不明の食堂が営業していたが、樹木に隠れてそれらしい商店は見えない。公楽キネマの向こう側(東隣り)に、チラリと見えている1階建ての商店は、「公楽キネマ」に広告を出稿していた上落合519番地のカチドキ堂看板店だろう。その数軒先には、沿道に戸川邸・林邸・山岡邸が並んでいた、前述の現・上落合会館通りの早稲田通り出口があるはずだ。
 いまだ拡幅・直線化の整備工事前で、大きく蛇行する早稲田通りに目を向けると、特に公楽キネマ周囲の路上には多くの人出があるようなので、守谷源次郎は休日あるいは祭日(社の祭礼日)に火の見櫓へ上り撮影したものだろうか。現・上落合会館通りの向こう側(東側)に、ひときわ大きく光って見える屋根は、上落合189番地の大野邸のものかもしれない。大野邸のさらに向こう側(東側)には、商店街がにぎやかな旧・八幡通りが左右(南北)に通っていて、月見岡八幡社の表参道へと入る鳥居と階段があったはずだ。
 さらに、旧・八幡通りに近い位置に高い煙突が見えるが、上落合192番地で開業していた銭湯の竹ノ湯だろう。竹ノ湯の背後(東側)のやや遠景に、大きめなコンクリート造りとみられるビルのような建物がとらえられているが、これが戦災からも焼け残った山手製氷工場の建屋だ。この製氷工場の右手(南側)が、関東乗合自動車小滝橋車庫Click!(のち東京市電気局自動車課小滝橋営業所/現・都バス小滝橋車庫)があるはずで、ほどなく旧・神田上水をまたぐ小滝橋だが、そこで画面が切れていて判然としない。また、竹ノ湯の左手(北側)には当時、上落合市場が開業していたはずだが、公楽キネマの背後に隠れてよく見えない。
八幡公園.JPG
公楽キネマ(昭和初期)周辺3.jpg
早稲田通り小滝橋方面.JPG
山手製氷工場1956.jpg
 大正末から昭和の最初期に撮られた写真へ、このように住民名や施設名を当てはめて眺めてみると、単なる古写真だった画面が、がぜん人々の息吹を感じとれるリアルな街角写真へと変貌するのが不思議で面白い。また近いうちに、いまから75年ほど前に米軍の偵察機F13Click!によって撮影された下落合の西坂・徳川邸Click!(新邸)や、聖母坂沿いのグリン・スタディオ・アパートメントなどの住宅街写真でもやってみたいと考えている。

◆写真上:大正末から昭和初期ごろ、守谷源次郎宮司が撮影した公楽キネマ周辺。
◆写真中上は、1929年(昭和4)作成の落合町市街図にみる撮影ポイントと画角。中上は、左手の茶色いマンションあたりが火の見櫓跡。中下は、写真手前にとらえられた家々の特定。は、当時の上落合525番地にあった加藤錦造邸跡(左手)の現状。
◆写真中下は、左手に戸川邸や林邸、山岡邸などの大きな屋敷が並んでいた現・上落合会館通りの現状。中上は、写真の左奥に写る住宅の特定。中下は、1935年(昭和10)ごろに守谷宮司が撮影した月見岡八幡社の裏参道の階段(きざはし)と鳥居で、画面の右手背後が村山知義アトリエ。は、現在の八幡公園に残る裏参道跡。
◆写真下は、八幡公園から眺めた落合水再生センターの敷地で、1962年(昭和37)以前は先に見える野球場の手前を通っていた旧・八幡通りまでが月見岡八幡社の境内だった。中上は、写真の右奥に写る建造物の特定。中下は、現・八幡通りの早稲田通り出口から小滝橋方面を眺めたところ。は、1956年(昭和31)に守谷宮司が撮影した山手製氷工場。コンクリートの建屋は戦災からも焼け残り、戦後も操業をつづけていた。

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