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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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上落合の幸山五左衛門の治療はダメだゾウ。

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 1972年(昭和47)に、中国から上野動物園へパンダがやってきたとき、いまからは想像もつかないほどの行列ができていた。ところが、何度かパンダを見にでかけると飽きるのか、5~6年もすぎれば行列は少なくなり、団体客がくれば少し混雑する動物舎ぐらいの光景になった。いまでは、人気のある他の動物舎と同じぐらいの混みぐあいだろうか。
 同じことが、江戸中期に落合地域の南南西側にあたる中野村とその周辺域で起きていたと思われる。このとき、中野村にいためずらしい動物はアジアゾウ(種類は不明)で、同村をはじめ周辺の住民たちはいくばくかの文銭を払って見物していたのだろう。また、幕府が浜御殿(現・浜離宮公園)で飼育していた時期には、江戸各地の大名屋敷へも連れ歩かれて披露され、また浜御殿へゾウ見物にくる大名や幕臣たちも多かったようだ。
 中野村へ移ってからは本所や両国広小路Click!、浅草など寺社の催事に合わせ見世物小屋Click!(今日の移動動物園に近い)にも出展されたので、江戸の街を歩くゾウの姿は武家や町人を問わず、大騒ぎをするほどにはめずらくなくなっていたかもしれない。ことに、幕府から払い下げられて中野村のゾウ小屋に移ってからは、少しでも飼料代を稼ぐために“入園料”をとって見物させていたとみられ、ゾウ小屋の周辺地域の住民はもちろん、遠方からもわざわざ見物人が訪れたのだろう。当時は、ゾウの糞を乾燥させて粉にすると「疱瘡除け」の薬になると信じられていたので、江戸の各地には専売薬局まで造られている。九州の長崎から、延々と陸路で江戸へやってきたのはオスのアジアゾウだったが、メスの個体は長崎へ上陸したあとほどなく病死している。
 1728年(享保3)に長崎へ上陸した2頭のアジアゾウは、海外の情勢や文物に関心の高かった徳川吉宗Click!が、清国の商人に発注してベトナムから取り寄せたものだ。来日したゾウが江戸へくるまでの経緯については、詳細な書籍があるのでそちらを参照いただきたい。現在、入手あるいは図書館などで閲覧が可能なものは、 『江戸時代の古文書を読む<享保の改革>』(德川林政史研究所・徳川黎明会Click!/2002年)所収の太田尚宏『享保の渡来象始末記』、「歴博」第89号(国立歴史民俗博物館/1998年)収録の太田尚宏『渡来象の社会史』、和田実『享保十四年、象、江戸へ行く』(岩田書院/2015年)などがある。
 ゾウ小屋があった地元の中野では、『豊多摩郡誌』(豊多摩郡役所/1916年)や『中野町誌』(中野町教育会/1933年)、地元の伝承を集めた『続/中野の昔話・伝説・世間話』(中野区教育委員会/1997年)などに詳しい。ただし、『続/中野の昔話・伝説・世間話』に収録された「昔話」は、口承伝承のためか事実誤認が多い。また、古いところでは神田白竜子『三獣演談』や植村藤三郎『象志』(以上1729年)、古川辰『四神地名録』(1794年)、昌平坂学問所地理局『新編武蔵風土記』(化政年間)、市古夏生『江戸名所図会』(天保年間)などにも享保のゾウに関する記載がある。
 1729年(享保14)5月に江戸へ着いたゾウは、さっそく千代田城Click!に招かれて吉宗をはじめ幕臣たちが見物している。以来12年もの間、浜御殿で飼育されたあと膨大な維持・管理費がかかるため、柏木村の弥兵衛(ほどなく死去)と中野村の源助に払い下げられることになった。経費の多くはゾウの飼育料と人件費だったが、江戸でしばしば発生した大火事などの際に、ゾウが暴れて街中へ逃げだしては危険だとの指摘もあり、幕府では江戸市中から離れた民間の飼育請負人をかなり以前から募集していた。
「象志」享保14.jpg 「象志」馴像図.jpg
「象志」内容.jpg
享保十四年渡来象之図(国会図書館).jpg
 浜御殿でゾウが食べていた、1日分のメニューが記録されている。天保年間に出版された、市古夏生『江戸名所図会』の「明王山宝仙寺」から引用してみよう。
  
 飼料(一日の間に、新菜二百斤、青草百斤、芭蕉二株<根を省く>。大唐米八升、その内四升ほどは粥に焚きて冷やし置きてこれを飼ひ、湯水<一度に二斗ばかり>、あんなし饅頭五十、橙五十、九年母三十。また折節大豆を煮冷やして飼ふことあり。/以下略)
  
 「青草」の中でも好んだのが、角力取草(すもとりぐさ)=スミレの一種だったようで、「大唐米」はインド原産の米粒が細長い外国米、「九年母(くねんぼ)」は東南アジアに自生しているミカンの原種のことだ。また、あんこを入れない饅頭が大好物だったらしい。飼育にはこれらを日々用意して、大唐米や大豆、饅頭はいちいち調理をしなければならず、その手配・手間に必要な人件費には多大な経費がかかっていたのだろう。
 これらの飼料をまかなうために幕府から支給される金銭をごまかして、ゾウには粗末なものしか食べさせない「よろしからぬ者」がいたようで、その飼育人は怒ったゾウに投げ飛ばされて死亡している。ゾウは頭のいい動物なので、飼育人や調教師の性格を見抜くともいわれ、粗末な扱われ方によほど腹を立てていたのだろう。そのときの様子を、1794年(寛政6)に出版された古川辰(古松軒)『四神地名録』から引用してみよう。
  
 名主の物語を聞きしに、象の囲有し所はくるくると堀をほりまはし、象をば鉄の太鎖を以て四足を繋ぎ、外へ出ぬ様にして数多の象つかひ付添て飼置かれし事なり、象つかひの中によろしからぬ者ありて、象に与ふる食物を減じて私す、象かしこきものにして、是を知りて或時大にいかりて、四足の鎖縄を糸をきるよりも安くはねきりて、かの象つかひを鼻にてくるくると巻て投出せしに、十間余も投られし事故に即死す、夫よりあれちらして、眼にかゝる木にても石にても鼻に巻て飛すゆゑに、人々大に恐れて近付くものなし、
  
 中野村の名主が語った、後世の談話として採録されたものだが、1741年(寛保元)正月に浜御殿で起きた事故を、中野村のゾウ小屋での出来事と混同して記憶していたのではないだろうか。この事故のあと、急いでゾウに信頼されている飼育人を呼び寄せ、いつもどおりの好物飼料を与えたところ、ゾウはおとなしくなって再びいうことをきくようになったという。
象小屋跡.jpg
三獣演談象つかい.jpg
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 1741年(寛保元)2月に中野村のゾウ小屋が完成し、4月には幕府からゾウが引き渡されている。ゾウ小屋は、幕府の経費で本郷村成願寺の北裏にあたる源助の地所(現・朝日が丘公園あたり)に建てられたというが、地元には朝日が丘公園より西北西へ300mのところ、桃園尋常小学校(現・中野第一小学校)が象小屋の跡地だとする伝承も残っている。ゾウが死んだあと皮は幕府に納められ、肉は樽に塩漬けで保存されたものの腐敗し、その樽を埋めた大塚が桃園尋常小学校あたりのゾウ小屋跡に残っていたという経緯のようだが、この大塚は古代に築造された古墳とゾウ小屋のエピソードとを混同した後世の付会ではないだろうか。もうひとつ、古くから忌み地=禁忌伝承Click!が残るエリアへ、腐敗したゾウの肉樽が埋葬されたという流れの解釈も可能かもしれない。
 ゾウは、払い下げられてから1年8ヶ月後に病気になり、1742年(寛保2)12月に中野村で死亡している。このとき病気の治療にあたったのが、上落合村で馬医(獣医)をしていた幸山五左衛門という人物だが、落合村(町)の資料をひっくり返しても同人の記録は見つからない。もともと漢方を学んだらしく、ふだんは上落合村と周辺域の伝馬や農耕馬などの治療をしていた医師なのだろう。ゾウの治療には、「肩と尾の末に針を打ち、両足の爪の裏へ焼き鉄を当て、粉薬のなかに人参一匁を入れ、蜜柑を饅頭に包んで食べさせた」(『享保十四年、象、江戸へ行く』)とあるが、どれだけ効果があったのかは疑わしい。
 化政年間に昌平坂学問所地理局から刊行された『新編武蔵風土記』によれば、先述のように皮は幕府へ、肉は塩漬けにして60樽を保存、頭と牙と鼻は飼育人の源助と中野村名主の卯右衛門に下賜された。だが、のちに頭と牙と鼻は同村の伊左衛門に譲渡され、さらに1779年(安永8)1月には地元の宝仙寺へと売却されている。
 中野村の源助は、もともと現在の東中野駅近辺の高台に冠木門をかまえた掛茶屋「見はらしや」を経営しており、村内では通称「見はらし源助」と呼ばれていたが、ゾウ小屋を経営するようになると地元では「象の源助」と呼ばれるようになった。特に源助を有名にしたのは、ゾウの糞からつくる疱瘡除け薬「象洞」の製造・販売を、柏木村の弥兵衛と多摩郡押立村の平右衛門の3人ではじめたからだ。
 この源助の子孫である中野町の関谷萬次郎という人物は、1933年(昭和8)現在でも東中野駅近くに在住しており、江戸期の薬局「象洞」の看板を保存していたというが、戦争をはさみ現在では行方不明になっている。江戸期に書かれた医師の加藤玄悦『我衣』によれば、「象洞十六文づゝ売る」とあるので、特別に高額な「薬」ではなく当初から民間療法薬のような位置づけだったのだろう。もちろん、ゾウの糞が疱瘡の予防に効果があるわけもないので、事業は遠からずいき詰まったにちがいない。
 源助の子孫である関谷家は、1990年代まで東中野に店を開いていたようだ。『続/中野の昔話・伝説・世間話』収録の、「宝仙寺と象」の座談から引用してみよう。
  
 源助さんていう人がね、中野で象を飼ってたって、そういう話は年寄りから聞いた。/その源助って人は、関谷さんの家だよ。今、東中野銀座にいますよ。「みはらしや」って。
  
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四神地名録象あばれる.jpg
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 源助の子孫が、ゾウ小屋を経営していたころの掛茶屋と同じ「みはらしや」という屋号を継いで、東中野銀座(東中野3丁目)で店舗を経営していたようだ。なんの店舗だったかは調べきれなかったが、いまの東中野銀座通りにある関谷ビルがその跡地にあたるのだろう。

◆写真上:源助が経営していた、掛茶屋「見はらしや」があったとみられる跡地。
◆写真中上は、1729年(享保14)に書かれた植村藤三郎『象志』の表紙()と挿画()。は、『象志』の記述。は、『享保十四年渡来象之図』(国会図書館蔵)。
◆写真中下は、ゾウ小屋があったといわれる成願寺裏の跡地(現・朝日が丘公園)。は、神田白竜子『三獣演談』に挿入されたゾウとゾウつかいの絵。
◆写真下は、古川辰『四神地名録』の表紙()と、『新編武蔵風土記稿』第124巻の「象骨」ページ()。中上は、『四神地名録』に収録されたゾウが怒って「よろしからぬ者」を投げ飛ばして死亡させた記事。中下は、『新編武蔵風土記稿』掲載の「中野村桃園図」。大塚があちこちに記録されており、古墳の忌み地伝承エリアへゾウ肉60樽を埋葬した経緯があったのではないか。は、1729年(享保14)に描かれた鳥居清培(2代)『象』。

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