2月28日の午前5時8分、天皇から奉勅命令が下令され、この時点から蹶起部隊は「反乱部隊」または「反乱軍」と呼ばれ、鎮圧されるべき敵対勢力となった。午前8時ごろ、陸軍首脳が戒厳司令部に集合し、用意された「昭和維新」を断行するかしないかの上奏文が検討されたが、杉山元参謀次長と安井藤治戒厳参謀の強力な反対で流れている。
ちょうど同じころ、反乱部隊の香田大尉と村中(元・大尉)、対馬中尉の3人が麻布の第1師団を訪れ、師団長の堀丈夫中将と面会して奉勅命令の下達中止を要請しているが、ここにも竹嶌継夫中尉Click!の姿は見えない。おそらく、そのまま前夜から首相官邸にとどまっていたとみられ、もたらされる情報に一喜一憂していたと思われる。
午前10時40分、いまだ奉勅命令を下達しない第1師団の堀中将に対し、戒厳司令部への出頭命令が出され、堀師団長は「昭和維新」をとなえる青年将校たちと、奉勅命令の下達を要請する戒厳司令部との板ばさみになった。どうしても「皇軍相撃」を避けたい、蹶起の事情を察知している皇道派に同情的な香椎戒厳司令官は、堀師団長が反乱軍の占拠している陸相官邸へ説得に向かうことを許認している。
午前11時ごろ、杉山参謀次長が参内し本庄繁侍従武官長へ、戒厳司令部で反乱部隊の武力制圧が決定したことを報告した。直後の正午すぎ、戒厳司令部に反乱軍将校は全員自決し、下士官兵は原隊に復帰するという出どころ不明な情報がもたらされる。このあたりの動向は、二二六事件の中でもっともわかりにくい時間帯であり、すでに事件後を見すえた陸軍の首脳たちが、自身の立場が少しでも有利になるようさまざまな画策をしていたころだ。蹶起した青年将校たちを扇動し、彼らが頼りにしていた風見鶏の真崎大将や荒木大将は、手のひらを返したように「知らぬ存ぜぬ」といいはじめている。
同日の午後、首相官邸や陸相官邸、山王ホテルなどを占拠している将校たちは、下士官兵に対して檄文を配布している。おそらく下士官兵たちにも動揺が拡がり、部隊から離脱して帰営する者たちが出はじめていたのだろう。この檄文は、誰が作成したのか不明だが、この時点で早朝に下令された鎮圧の奉勅命令の情報ももたらされ、頼みの真崎や荒木らの態度豹変を伝え聞いて、かなり動揺していたと思われる竹嶌中尉ではなさそうだ。
一方、同日の午前中、迫水秘書官が宮内省におもむき、岡田内閣の元・閣僚たちと会見しているが、相変わらず「参内してくれるな」という意見が主流だった。時刻はハッキリしないが、そのあと吉田茂Click!調査局長官が下落合の佐々木久二邸Click!を訪問している。その時の様子を、前出の『岡田啓介回顧録』(毎日新聞社/1977年)から引用してみよう。
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吉田調査局長官が佐々木邸へきて、わたしに「参内は思いとどまったほうがよろしいでしょう。辞表はお取次ぎいたします」というので、不本意ながら、とりあえず辞表をしたためて吉田に託したが、あとですぐに迫水を電話で呼び出して、今日の夕刻までに参内出来ないのであれば、もはや自分としては重大な決意をしなければならんと話した。
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このあと、迫水秘書官から「いらっしたらいいでしょう」との連絡を受け、岡田首相Click!は参内する用意をはじめたが、警視庁を占拠されている警察に連絡すると「護衛を全うする自信がない」との返事なので、憲兵隊司令部に護衛を依頼すると、岩佐禄郎憲兵隊司令官本人が「申しわけない」とクルマで下落合まで迎えにきている。こうして、岡田首相は午後4時30分ごろ宮内省に着き、ようやく参内して天皇への面会を済ませた。このあと、岡田首相は閣僚間の意見対立へと巻きこまれていく。
岡田首相が、天皇から“御学問所”で「よかった」と声をかけられているころ、第1師団の舞伝男参謀長は渋谷大佐らとともに、反乱部隊が占拠中の幸楽へ出かけて、安藤大尉と面談して説得を繰り返している。おそらく、第1師団では下士官からの信望がことさら厚く、また青年将校の中では思想的に堅牢だとみられていた安藤大尉を説得できれば、他の将校たちもそれに従うのではないかという読みがあったのかもしれない。だが、関係のない下士官兵を巻きこんだ大規模なテロに最後まで反対しつづけた安藤大尉は、蹶起後はもっとも強硬な姿勢を貫徹する将校に変貌していた。
この第1師団の説得班が、首相官邸でも陸相官邸でもなく料亭幸楽へ向かった点に留意したい。首相官邸には、同じく第1師団歩兵1連隊の栗原中尉が、陸相官邸には丹生中尉がいるが、ことに栗原中尉は「昭和維新」の急進派であり、また丹生中尉は栗原と非常に近しい関係なので、ハナから説得は無理と判断していたのかもしれない。いずれにしても、栗原中尉といっしょにいた竹嶌中尉は、安藤大尉に対してどのような説得が行われたのかは知ることができなかった。
午後6時、第1師団の堀師団長は小藤恵歩兵第1連隊長へ、占拠部隊の下士官兵(所属が第1歩兵連隊の者たち)を指揮下より除外するよう指示している。つづいて午後8時、軍人会館にいる香椎戒厳司令官は指揮下にある各部隊に、翌2月29日の午前5時以降にいつでも反乱軍を攻撃し、鎮圧できるよう攻撃準備命令を下達している。
ちょうど同時刻の午後8時、福本亀治憲兵隊特高課長は中野区桃園町40番地(現・中野3丁目)に住んでいた北邸へ踏みこみ、北一輝Click!を検挙している。また、同邸にいた西田税らは憲兵隊をかわして逃走しているが、3月4日に警視庁特高課に逮捕されている。すでにご存じの方も多いと思うが、2月28日の午後8時に北一輝は憲兵隊に検挙されて拘束されているにもかかわらず、以前NHKのドキュメンタリー『戒厳司令「交信ヲ傍受セヨ」』では、翌29日に北一輝から安藤中尉へかけたとされる電話の録音盤が紹介されている。
憲兵隊に拘束されている北一輝が、翌29日に電話することなどありえないので、明らかに何者かによる謀略電話だろう。また、北一輝のていねいな言葉づかいではなく、明らかに別人の声音だということも判明している。このあたりから、占拠中の将校たちに向け、それとなく占拠施設の兵員数や軍資金(マル)などを確認する謀略電話が増えていく。
翌日の戦闘に備え、28日の午後10時すぎに幸楽にいた安藤大尉が、指揮下の下士官兵を堅牢な山王ホテルへ移動させ、午後11時には戒厳司令部が占拠施設付近の住民たちの避難を命じて、翌朝9時をもって攻撃開始を下令していたころ、2月29日の午前0時をまわってから、予備役陸軍少将だった斎藤瀏の自宅に1本の電話がかかってきた。1時間ほど前に、「奉勅命令が下ったことを知って居るか?」という、名乗らない相手の不審な電話を受けたあとだったので、斎藤は慎重に受話器をとっただろう。
受話器からは、「徳川です……」という声が聞こえた。目白の徳川義親邸Click!からの電話だった。徳川義親は、蹶起将校の代表者ひとりとともに参内して、天皇に詫びるので人選をしてほしいという依頼だった。電話の様子を、2007年(平成19)に文藝春秋から出版された中田整一『盗聴二・二六事件』収録の、斎藤瀏『二・二六』(改造社)から引用してみよう。
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(前略)この際一行に代り、参内し、罪を闕下(天使の御前)に謝さんと思う。蹶起将校代表者一名同行したし。素より私は、爵位勲等を奉還する。代表者も亦予め自決の覚悟を願う。至急右代表者を私の許によこされたし……
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徳川義親Click!は、事件直後に殺害された閣僚たちへの弔意を表しつつ、反乱部隊の「調停」役を買って出ていたが、結果的にはまったく出る幕がなかったようだ。彼が皇道派に同情的なのは、その社会主義的な思想の側面に惹かれたものだろうか? 戦後、日本社会党の設立に参画・支援する徳川義親だが、当時も同様の思想をもっていたとは考えにくい。
斎藤瀏は、首相官邸にいる栗原中尉を呼びだして徳川義親の申し出を伝えたが、「暫く待って下さい。此方から後刻返事をします」という答えだった。この徳川義親からの提案は、同じく首相官邸にいた竹嶌中尉らにも伝わっただろう。20分後に、栗原中尉から斎藤瀏あてに「御心は有難く、一同感銘致しましたが、最早や、事茲(ここ)に到っては、如何とも出来ぬと思います、どうか、その御厚志を以って将来をよろしくお願い致しますと回答願います」という、断りの電話が入っている。
この20分間のどこかで、将校同士の打ち合わせが首相官邸でもたれたのではないかと思われるが、すでに奉勅命令が出て29日には一戦やむなしと考えはじめた将校たちには、空しい徳川義親の申し入れと感じられたかもしれない。この時点で、栗原中尉から徳川義親の電話を聞いた竹嶌中尉は、ハッキリと「こんなはずではなかった」と後悔していたにちがいない。あるいは、「真崎や荒木に騙された!」と怒りに燃えていただろうか。
2月29日の午前1時15分、首相官邸の栗原中尉に斎藤瀏はもう一度電話をかけている。盗聴の録音盤では、栗原中尉が「これが最後でございます」と別れを告げる有名なやり取りだ。斎藤瀏の背後には、これ以上犠牲者を出さないよう二二六事件を解決しようと、ギリギリまで政治工作を懸命につづける人々がいた。同日の朝にでも、戒厳司令部の部隊が攻撃してくると予想している、栗原中尉との悲愴な最後の会話だ。
2月29日の午前8時、立川飛行場を飛びたった陸軍機が、反乱軍の占拠する施設上空から「下士官兵ニ告グ」のビラをまいた。つづいて、8時55分には戒厳司令部に設置された放送局から、「兵ニ告グ」の放送が流れはじめている。占拠している下士官兵は動揺し、原隊へ復帰する部隊が相次ぎ、法廷で思想を堂々と述べ「絶対に自決するな」と戒めていた野中大尉が、なぜか拳銃で自決し(この不自然な自決には、面会していた井出宣時大佐らの関与が疑われている)、安藤大尉は自決未遂に終わっている。これらの情報を聞いた竹嶌中尉は、絶望とともに虚脱感で打ちひしがれていたのだろう。
同日の昼すぎ、反乱部隊の将校たちは全員が免官となり、自殺した野中大尉と病院へ運ばれた安藤大尉ら3人を除き、残りの将校たちは拘束されて代々木の陸軍衛戍刑務所に収監された。午後3時、戒厳司令部は事件終結宣言を公表し、つづいて午後4時58分には福田秘書官が記者会見を開き、岡田啓介首相の生存を発表している。
元・中尉の竹嶌継夫が、獄中で「吾れ誤てり、噫、我れ誤てり」と書き、上落合の実家に向け「お母さん、継夫は馬鹿者でした」と書き残して、同年7月12日の午前7時に安藤大尉や栗原中尉らとともに銃殺されるまで、あとわずか134日しか残されていなかった。
<了>
◆写真上:竹嶌中尉が栗原中尉の率いる下士官兵らととも首相官邸に向けて出発したとみられる、第1師団第1連隊(通称:麻布1連隊)の連隊本部。わたしの親父は高等学校時代、同連隊の購買部で軍事教練Click!用の装備品一式を購入している。
◆写真中上:事件の舞台となった、上から下へ陸相官邸、山王ホテル、料亭幸楽。陸相官邸の背後には、吉武東里Click!らの設計で竣工したばかりの帝國議会議事堂Click!が見えているが、その目の前で政党制の議会政治が陸軍の軍人たちにより踏みにじられた。
◆写真中下:上は、1951年(昭和26)に改造社から出版された斎藤瀏『二・二六』(左)と、2007年(平成19)に文藝春秋から刊行された中田整一『盗聴二・二六事件』(右)。中は、岡田首相と迫水秘書官(右)。下は、岡田首相の生存会見をする福田秘書官。
◆写真下:上は、1936年(昭和11)に陸軍航空隊によって撮影された空中写真にみる上落合514番地(のち上落合1丁目512番地)の竹嶌邸。中は、竹嶌邸跡の現状。下は、同じく1936年(昭和11)の空中写真にみる代々木練兵場の南側にあった陸軍衛戍刑務所。