江戸初期に、大川(隅田川)の砂洲を埋め立てて造成した佃島Click!の住民は、佃の渡しClick!に乗って川向こうの明石町や築地に出かけていくことを、「江戸へいく」といっていた。もともと徳川家康に招かれて、30戸ほどの漁民が大坂(阪)から江戸へやってきて住みついたのが佃島なので、当時は大川の西からこっちが江戸で東側は下総国だったわけだから、感覚的に「江戸へいく」でも自然でおかしくはなかっただろう。
ところが、江戸後期の大江戸時代、すなわち朱引き墨引きが大きく拡大して、大川の東側に拡がる本所や深川、向島、亀井戸(亀戸)などの地域が江戸市中に編入されたあとも、「江戸へいく」という表現は変わらなかった。時代が明治になり京橋区佃島になってからも、佃島の住民は西側の対岸へわたることを「東京へいく」と称していた。
あくまでも、徳川家康に招かれて江戸にやってきたという彼らの自負心と、川中の島であるがゆえに住民の間で形成されたとみられる閉鎖的なミクロコスモス(ムラ社会)のような意識から、佃の渡しやポンポン蒸気に曳かれた渡船、のちに佃大橋をわたって明石町や築地側へいくことを、現代までつづく「東京へいってくら」(「東京へいってくるわ」を略した東京弁下町方言の男言葉)と表現しつづけてきたのだろう。そのような自負心や優越感が、室町期の江戸城下からつづく江戸地付きの漁民たちとの間で齟齬やイザコザを起こし、訴訟沙汰にまで発展した記録Click!がいまに伝えられている。
佃島の自負心は、最近までつづく徳川家への白魚Click!献上という“年中行事”にも表れていた。1994年(平成6)に岩波書店から出版されたジョルダン・サンド/森まゆみ『佃に渡しががあった』より、佃島住民へのインタビューの一部を引用してみよう。
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今でも徳川さんには白魚を毎年、届けてるんだ。天皇家の方は昭和天皇が生物学をやってたでしょう、この白魚はどこでとれるのか、と聞かれてチョン。いま、佃島でとれるわけないやね。まァもともとオレらが献上してたのは徳川様なんだから、いいんだけどね。
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「チョン」は、東京方言で「不要」「お払い箱」「用済み」「クビ」などの意味だ。
さて、この「江戸へいってくら」、明治以降は「東京へいってくら」という表現は、佃島とは反対側にあたる江戸近郊の西北部でもつかわれただろうと想像していたが、驚いたことに、つい最近まで「江戸へいってくら」「東京へいってくら」がつかわれていた地域が、落合地域の西隣りにあたる旧・野方町(中野区)に残っていたのを知った。
江戸後期、すなわち大江戸時代の朱引き墨引きは大きく拡大し、下落合村や上落合村、葛ヶ谷村、長崎村、柏木村、角筈村、代々木村、渋谷村などは、かろうじて朱引き内側の御府内(江戸市中)、つまり南北の江戸町奉行所の管轄内となったが、上高田村や新井村、中野村、片山村、江古田村などは朱引きに接する外側のエリアであり、江戸勘定奉行所の出役(代官)か関東取締出役(八州廻り)の管轄だった。
1989年(平成元)に中野区教育委員会から出版された、『口承文芸調査報告書/続 中野の昔話・伝説・世間話』から引用してみよう。
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「きょうはどちらへ」、「きょうは江戸」
中野駅を中野停車場といった。ともかく電車に乗れば、まあ仮りに、駅の近所で人に会うでしょ、知り合いの人に。「きょうはどちらへ」って、こう言うわね。そうすんとね、年寄りは、「うん、きょうは江戸」。われわれ若い、子どもだとか若者は、「うん、きょうは東京」って。電車乗って、どっか行くと、東京。年寄りは「きょうは江戸」。だいたいがまあ、新宿から先は江戸だよ。
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西隣りの中野区で上記のような地理感覚、つまり「新宿から先」の四谷区から向こっかわへ、つまり江戸東京の(城)下町Click!=東京15区Click!エリアへ出かけることを、「江戸へいく」「東京へいく」と表現していたとすれば、落合地域でもまったく同様の感覚だったのではないか?……という想像が働いていた。ましてや、中野地域は早くから甲武鉄道、のちに中央線が敷設されていたにもかかわらず、そのような表現が近年まで残っていたとすれば、昭和初期までは最寄り駅が山手線の目白駅か高田馬場駅しかなかった落合地域でもまた、「江戸へいく」「東京へいく」といういい方が、かなりあとの時代までつかわれていたのではないかと想定したからだ。
だが、地元の資料にいろいろ当たってみても、そのようなエピソードは記録されておらず、落合地域が江戸東京の城下町に対して、地理的にどのような意識を抱いていたのかがつかめていない。ただ、「彰義隊」になりすまして商家や農家へ強盗に入った江古田村の半グレ息子Click!たちが、上落合村の村人たちに袋叩きにあって打ち殺された(東京方言では「ぶちころされた」「ぶっころされた」)あるいは捕縛されたとき、町奉行所から取り調べのために同心たちが出張ってきた際、わざわざ八丁堀からきたのかどうかを気にしているので、やはり市街地に対して江戸近郊という意識が強かったのだろうと想定していた。
ところが最近、それが中野地域や落合地域どころではなく、東京15区=大江戸の旧・市街地でも、「江戸へいってくら」「東京へいってくら」がつかわれていたのを知った。自分の住む地域を、「江戸」とも「東京」ともとらえていなかった住民は、赤坂や麻布、牛込、小石川あたりの、(城)下町の中でも「山手」「乃手」と呼ばれた一帯に住む人々だ。彼らは、山や森におおわれた乃手は江戸東京の「街中」ではなく、江戸東京は商業が発達し水道網が普及していた繁華街ととらえていたフシが見られる。また、明治になってからも、たとえば小泉八雲Click!の「東京の赤坂には紀伊国坂があった」の出だしで有名な『貉(むじな)』で描かれるように、赤坂の谷間は人もめったに往来しない寂しい場所だった。
記録したのは永井荷風Click!で、1994年(平成6)に岩波書店から出版された永井荷風『荷風全集』第17巻収録の、『井戸の水』から引用してみよう。
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江戸のむかし、上水は京橋、日本橋、両国、神田あたりの繁華な町中を流れていたばかりで、辺鄙な山の手では、たとえば四谷また関口あたり上水の通路になっている処でも、濫(みだり)にこれを使うことはできなかった。それ故、おれは水道の水で産湯をつかった男だと言えば江戸でも最(もっとも)繁華な下町に生れ、神田明神でなければ山王様の氏子になるわけなので、山の手の者に対して生粋な江戸ッ児の誇りとなした所である。(むかし江戸といえば水道の通じた下町をさして言ったもので、小石川、牛込、また赤坂麻布あたりに住んでいるものが、下町へ用たしに行く時には江戸へ行ってくると言ったそうである。)
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永井荷風は、山手の年寄りから「江戸へ行ってくる」というエピソードを聞いているとみられるが、明らかに神田上水Click!や玉川上水Click!による水道網Click!がいきわたった街場=繁華街=江戸東京ととらえていたのがわかる。面白いのは、中野区あたりでは「新宿から先」、すなわち山手線の内側(四谷大木戸が目安か?)あたりからが江戸東京ととらえていたのに対し、(城)下町の乃手ではさらに範囲を狭めて、中でも水道が普及している江戸前期からつづく繁華な(城)下町が「江戸」だととらえられていることだ。
この伝でいけば、芝や虎ノ門、市ヶ谷、本郷などではどうだったのかが気になるが、おしなべて千代田城Click!の西から北にかけて形成された乃手の住民たちが、(城)下町の全体からみると繁華な商業地(おもに千代田城の南東から北東にかけてある街々)のことを「江戸(東京)」と表現していたように思われる。永井荷風も書いているように、神田明神社Click!や山王権現社Click!の氏子町の、さらに外側に拡がる地域で「江戸へいく」、明治前期あたりまでは「東京へいく」という表現が用いられていたのではないか。
ちなみに、明治以降は京橋エリアと規定された佃島の住民たちは、神田明神社でも山王権現社でもなく、大坂(阪)から同島に分祀した住吉社の氏子町だった。また、江戸期の佃島には水道が引かれず、大川の中洲で良質な清水が湧きでる井戸水を活用していたが、最近は井戸水に海水が混じりしょっぱくなってしまったと、丸久の主人から聞いている。
うちの親父が、盛んに「東京へいってくら」といっていたのは、先祖代々の故郷Click!を離れて、仕事の関係から相模湾の海街Click!に住んでいたころだ。本人にしてみれば、「東京へいってくら」は非常に忸怩たる思いがこめられていたのかもしれないが、わたしはそんなこととは露知らず、東京のお土産を期待したものだが、買ってくる土産物が江戸期からつづくどうしようもない玩具Click!ばかりで、ガッカリしたことはすでに書いたとおりだ。
◆写真上:佃島から築地や明石町方面へ、「江戸東京にいく」架け橋の佃大橋。
◆写真中上:上は、佃堀ごしに眺めた佃島住吉社の本殿裏。中は、1994年(平成6)に岩波書店から出版されたジョルダン・サンド/森まゆみ『佃に渡しががあった』(左)と、同年に岩波書店から刊行された永井荷風『荷風全集』第7巻(右)。下は、『佃に渡しがあった』に掲載の尾崎一郎が撮影したポンポン蒸気に曳かれる佃の渡船。見えている対岸が佃島で、わたしも親に連れられ本場の佃煮を買うために渡船には乗っている。
◆写真中下:上は、佃堀から佃小橋ごしに石川島方面を眺めたところ。中は、1929年(昭和4)に撮影された中央線・中野駅。戦後しばらくの間まで、中野から電車で新宿方面に出ることを「東京へいく」といっていた。下は、明治初期に撮影された千代田城外濠の北にあたる牛込御門(牛込見附)で現在の中央線・飯田橋駅あたり。
◆写真下:上は、小日向にあった黒田小学校Click!の跡地で発掘された神田上水の開渠跡。中は、経年や地震ではビクともしなかった水道管の幹線である万年石樋(上)と、明治以降の金属製による水道管よりも耐久性が高く漏水率も低いといわれる、江戸の船大工が総がかりで製造した木材の伸縮を抑えた水道管の支線木樋(下)。下は、ビルの工事などで地下から出現する木樋の水道支管と、流水を汲む枡(ます)。これを地下水を汲みあげる井桁を組んだ「井戸」と勘ちがいした、江戸が舞台の大ウソ時代劇ばかりだ。(時代考証がいい加減な、京都にある時代劇のセットあたりで撮影されているものだろうか?) 乃手では「井戸端会議」だったが、町場では「水道(すいど)端会議」だろう。このような水道網が、大江戸の(城)下町の地下には縦横に張りめぐらされていた。世界最大の都市だったにもかかわらず、井戸が主体のヨーロッパ諸国のように、街人口の大半が死滅してしまう伝染病・感染症禍を最小限に食い止められたのは、常に流れる衛生的な水道網の普及によるところが大きいともいわれる。