画家の眼は、広角から望遠まで自由自在だ。拙サイトでもっとも取り上げている、佐伯祐三Click!が描く「下落合風景」シリーズClick!の画面は、ほぼ見たとおりそのままの画角で情景をとらえているので50~55mmの標準レンズといったところだろう。
これまでご紹介してきた長野新一の作品は、『養魚場』Click!(1924年)や『落合村』Click!(1926年)はほぼ標準レンズのような画角だが(『落合村』はやや広角気味か?)、1925年(大正14)に発表された『郊外の或る新開地』は同じ下落合の風景を描いてはいても、かなり広い画角をしている。レンズでいえば、28mmの広角レンズといったところだろうか。また、モチーフのとらえ方もややデフォルメしているようで、稲葉の水車Click!の『養魚場』のようなリアルな描き方とは、少なからず異なるような趣きだ。
『郊外の或る新開地』が、1925年(大正14)の2月から3月まで開催の第6回帝展に出品されているとすれば、実際に制作されたのは前年の1924年(大正13)の秋から暮れにかけてかもしれない。画面を観察すると、常緑樹とは別に落葉した樹々が描かれており、そのぶん建物の多くが遠くまで見通せている。1924年(大正13)の、晩秋あたりの風景だろうか。同作は、以前にも一度ご紹介しているが通りいっぺんの解説だったので、より史的な土地勘が獲得できた現在の視点から、改めて同作を取りあげてみたい。
『或る郊外の新開地』の画面は、陽光が画家の背後から射しており、南側から北側を向いて描かれているのが明らかだ。長野新一がイーゼルを立てている場所は、以前の規定とあまり変わらないけれど、前の記述では手前の窪地を妙正寺川北岸の道路と想定していた。だが、風景や家々の見え方からいって、この窪地は妙正寺川の流れの可能性が高い。当時は小川だった妙正寺川の南岸から、北側の目白崖線に連なる丘陵を向いて描いており、画家のすぐ左手(西側)には地元で「どんね渕」Click!と呼ばれた、妙正寺川の特徴的な流域があった。また、画家の右手(東側)には、江戸期からつづく小さな西ノ橋(比丘尼橋)Click!が妙正寺川に架かっており、さらにその向こう側には、地名の由来となった妙正寺川と旧・神田上水(1966年より神田川)が落ちあう合流点があるはずだ。
長野新一は、一面に田圃(稲の収穫は終わっていただろう)が拡がる下落合の向田と呼ばれた字名の区域、水田を横切る畦道の傍らにイーゼルをすえていると思われる。この一帯は、やがて妙正寺川の直線整流化工事とともに、西武線の下落合駅前を形成する一画だ。画家の背後には、目白変電所Click!へとつづく東京電燈谷村線Click!の高圧線鉄塔Click!が並び、さらにその向こうには堤康次郎Click!らが創立したばかりの、上落合の前田地区にあった東京護謨工場Click!の建屋が見えていただろう。
1924~1925年(大正13~14)の時点で、左手の丘上に見えている大きな建築物は、徳川義恕邸Click!の旧邸とその建物群で、昭和期に入って建設されるより大きな新邸よりも、やや北寄りの位置に建っていた。また、この時代の「静観園」(ボタン園)Click!は建物の北側にあり、いまだ東側の斜面には移動していない。徳川邸のすぐ右側、丘下の手前に見えている大きな屋根の日本家屋は、「一年の計は春(元旦)にあり」で有名な安井息軒の孫にあたる人物が住んでいた安井小太郎邸(三計塾)Click!だ。安井邸の向こう側には、不動谷(西ノ谷)Click!と諏訪谷Click!が合流する湧水池が形成された谷間があり、その北側の高台には1931年(昭和6)に国際聖母病院Click!が建設される青柳ヶ原Click!が拡がっている。
その右手に白っぽく描かれているのは、諏訪谷の出口へ急斜面の崩落を防ぐために築かれた、コンクリートの大規模な擁壁だとみられる。この擁壁は、徳川義恕邸の庭からバラ園Click!のある東側を向いて1926年(大正15)ごろに描かれた松下春雄Click!の『徳川別邸内』Click!でも、諏訪谷の出口に高く築かれているのが確認できる。昭和期に入ると、聖母坂の開拓とともに擁壁は撤去され、改めて雛壇状の宅地開発が進むことになる。
また、下落合にお住まいの方ならもうおわかりだと思うが、擁壁の右手にある丘には急峻な久七坂Click!が通い、その急斜面には佐伯祐三が「下落合風景」の1作として描いた、丘上から見下ろす大きな赤い屋根をもつ池田邸Click!が、樹間からチラリとのぞいている。そして、丘の切れ目の右手(東側)、画面の右端に電柱へ隠れるように描かれている建物が、現在はコンクリート造りに建て替えられてしまったが、明治初年からつづく薬王院Click!(明治初年に藤稲荷Click!の界隈から現在地へ移転)の丘上にあった旧・本堂だ。
大きな安井邸の屋根や、その前に並ぶ建てられたばかりらしい住宅群(現在、これらの家屋敷地はすべて十三間通り=新目白通りClick!の下になっている)の手前には、葉を落とした樹々に沿って半円を描く道筋が通っている。その中央やや右側に、淡い色合いで描かれたとみられる葉が変色しているらしい大きな樹木は、旧・ホテル山楽Click!の敷地に相当し現在でも目にすることができる、黄色に変色したイチョウの大木ではないか。すなわち、1924~1925年(大正13~14)に描かれた同作は、少なくとも鎌倉時代から村落が形成されていた下落合(字)本村Click!と呼ばれる一帯だ。関東大震災Click!の影響から、このあと下落合の東部から中部にかけ住宅が爆発的に急増する直前の情景を描いている。
長野新一が立っているのは、当時の住所でいえば下落合(字)向田2350~2356番地と上落合(字)前田289~292番地の境界あたりに拡がる田圃の畦道上、のちの上落合1丁目275番地界隈で、現在の上落合1丁目17番地の西武新宿線の線路寄りないしは線路内の地点だろう。
さて、長野新一は以前にも書いたように下落合1542番地の落合第三府営住宅(落合府営住宅3-11号)にアトリエをかまえていた。すぐ近くの同じ落合第三府営住宅には、帝展仲間で転居前の西ヶ原でも近所同士だった、同じ東京美術学校卒で岡田三郎助に師事した江藤純平Click!(下落合1599番地=落合府営住宅3-24号)のアトリエがあった。長野新一は江藤純平よりも4歳年上だが、おそらく仲がよかったふたりは相談して、下落合の落合府営住宅Click!に転居してきているのだろう。
ふたりのアトリエの東側、下落合1385番地Click!の落合第二府営住宅のエリアには、帝展仲間の松下春雄Click!がアトリエをかまえていた。また昭和期に入るとほどなく、同じ西ヶ原で画家グループのひとりだった、長野新一よりも5歳年上の片多徳郎Click!が、曾宮一念アトリエClick!の斜向かいにあたる下落合734番地へ転居してくることになる。3人の出身地は大分県であり、長野新一は同県速見郡日出町、江藤新平は同県臼杵市、片多徳郎は同県国東郡高田町でみんな同郷人だった。ただし、長野新一が江藤純平のように、片多徳郎Click!とも親密に交流していたかどうかはさだかでない。
さて、長野新一のご遺族より先日、作品画像を2点お送りいただいた。1点は、1926年(大正15)に描かれた第7回帝展出品作の『赤き蒲団と裸女』で、もう1点が1931年(昭和6)に制作された『本を読む人』(大分県立芸術館では仮題『人物』)だ。2作とも下落合のアトリエでの制作だと思われるが、このうち『本を読む人』の背景に描かれている庭先が、落合第三府営住宅にあったアトリエの庭である可能性が高い。
庭にはユリの花が咲き乱れ、おそらく6~7月ごろの情景だろう、右端の柵の向こう側にはアジサイとみられる青色の花も咲いている。洋間の床は、なんらかの敷物か薄い板のようなもので覆われており、その表面が絵の具で汚れているように見えるので、長野新一のアトリエに遊びにきた人物をモデルに描いたものだろうか。陽光の射し方から、落合第三府営住宅の南側に面した1室なのかもしれない。
1936年(昭和11)の空中写真を参照すると、落合府営住宅3-11号の住宅(長野新一アトリエ)は主棟(大棟)がふたつに分かれた屋根のかたちをしている。空中写真が撮影された当時、長野新一が死去してから3年が経過しており、すでに当時は酒井邸となっていた。また、同区画は二度にわたる山手空襲からも焼け残り、戦後の1947年(昭和22)に撮影された空中写真を参照すると、より鮮明に建物の様子を観察することができる。
『本を読む人』が制作された当時、長野新一は東京美術学校の助教授に就任していたが、おそらく健康上の理由から1932年(昭和7)に美校を辞職し、翌1933年(昭和8)に死去している。画家の仕事としては、これから本格的に脂がのる時期を目前にしての急死だった。
◆写真上:1924年(大正13)晩秋の制作とみられる、長野新一『郊外の或る新開地』。
◆写真中上:上は、1924年(大正13)の1/10,000地形図にみる描画ポイントと画角。中は、地形がよくわかる1909年(明治42)の同所。下は、大正期の撮影とみられる妙正寺川の「どんね渕」で、写生する画家のすぐ左手に見えていただろう。
◆写真中下:上は、『郊外の或る新開地』に描かれたモチーフの特定。中は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる下落合1542番地の落合第三府営住宅(落合府営住宅3-11号)にあった長野新一アトリエ。下は、1936年(昭和11)撮影の空中写真にみる元・長野新一アトリエと、戦後の1947年(昭和22)の空中写真にみる同所。
◆写真下:上は、1926年(大正15)に制作された長野新一『赤き蒲団と裸女』。中は、1931年(昭和6)に制作された同『本を読む人』。下は、長野新一アトリエ跡の現状(右手)。
★掲載している『赤き蒲団の裸女』と『本を読む人』の2作品の画像は、長野新一の孫娘にあたられる大塚邦子様からのご提供による。