1925年(大正14)に弘文社から出版された、第1次「どんたくの会」Click!での授業をベースにしたとみられる、鶴田吾郎・曾宮一念の共著『油絵・水彩画・素描の描き方』Click!のグラビアには、曾宮一念が工場を描いた『風景』が収録されている。
このころの曾宮一念Click!は、春ごろからはじまる頭痛や不眠に苦しみ、夏を通じて症状が収まらず、秋になるとそれが回復するという不調のサイクルを毎年繰り返していた。その症状が、緑内障の前兆であることが判明するのは後年になってからのことだ。したがって、遠出の写生は控えたものか下落合の風景をモチーフにした作品が多い。
同書が出版された1925年(大正14)9月には、アトリエの前に口を開けた諏訪谷Click!と付近の農民が利用する野菜の“洗い場”Click!を描いた『冬日』Click!を、第12回二科展に出品して樗牛賞Click!を受賞している。受賞とほぼ同時に、旧制・静岡高等学校に美術講師として赴任するが、すぐに体調不良で下落合にもどっている。
鶴田吾郎Click!との共著『油絵・水彩画・素描の描き方』が出版されたのは、1925年(大正14)11月なので、おそらく曾宮の『風景』は静岡への赴任前に下落合で描かれた作品だと想定することができる。だが、この作品が下落合のどこの工場を描いたものか、いまひとつ解明できない。描かれた建屋は、工場にも見えるが酒や醤油、味噌などの醸造所のようにも見えるし、また一般企業でも焼却炉があるところは煙突があっただろう。当時は燃ゴミ・不燃ゴミを問わず、定期的な回収事業がめずらしかった時代だ。
当時、落合地域の旧・神田上水の両岸や妙正寺川沿いは工場誘致が行なわれていたが、いまだそれほど多くの工場は進出していなかったはずだ。きれいな水を必要とする染物工場や製薬工場、製氷工場、衛生品工場、製紙工場、印刷工場などがポツポツと建っていただろうが、当時の工場の外観や様子まではほとんどわからない。また、敷地に煙突が描かれているからといって、たとえば1/10,000地形図の煙突記号をあてにしても、採取漏れがかなりありそうなので正確にはつかめないと思われる。
では、曾宮一念が水彩で描いた『風景』の画面を見ていこう。空は雲が多く曇りがちだが、陽光は正面のほんの少し右寄りから射している、すなわち逆光で描かれているように見え、右手が南寄りだとすると画家は東、または東南を向いて工場の建屋を描いていることになる。また、陽光が午後のやや橙色を帯びた光だとすれば、冬季あるいは早春の時期に南西の方角を見て描けば、こんな感じになるだろうか。
周囲には、下落合の目白崖線や上落合の段丘が見えないことから、旧・神田上水の沿岸か妙正寺川沿いの田畑が拡がる平地Click!だと仮定したいが、妙正寺川沿いには1925年(大正14)現在、これほどの規模の工場はいまだなかったと思われるので、旧・神田上水沿いが“怪しい”ということになる。なお、目白崖線の丘上も平地だが、大正期には工場が進出していない。強いて挙げるなら、家内制手工業のような目白通りの福室醤油醸造所Click!か小野田製油所Click!ぐらいだろう。だが、目白通り沿いにはすでに家々が建てこんでおり、このような風情の場所は1925年(大正14)現在には存在していない。
工場のコンクリートとみられる塀の前は、元・田畑で耕地整理が終った原っぱのように見え、画面を左右に横切っているのは畦道か用水の跡のようにも感じられる。工場の敷地界隈を見ると、塀の中の煙突の向こう側には南北に向いているとみられる建屋が重なって見え、敷地の両端には、切り妻が東西に向いているとみられる平家建ての作業場か、倉庫のような建築物が描かれている。
実は、建物まで採取された1/10,000地形図を参照すると、ほぼ建物どおりの配置が確認できる工場を、たった1ヶ所だが発見することができる。蛇行した神田川沿いに建設された、下落合71番地の池田化学工業株式会社Click!だが、それを東側から西側を向いて見るとこのような配置になるのだ。しかし、画面の工場は池田化学工業ではない。なぜなら、『風景』と同時期の1925年(大正14)に撮影された池田化学工業の写真が残っており、同工場はすべての建屋が2階建てだからだ。
1903年(明治36)から1927年(昭和2)まで、24年間も町長(1924年以前は村長)をつとめた川村辰三郎Click!は、別荘や住宅以外の「排煙をともなう工場の進出と、墓地が付属する寺院の新たな転入はいっさい認めない」と公言Click!しているので、特に河岸段丘の丘上や斜面の住宅地には、このような風景は存在しなかったと思われる。やはり、旧・神田上水沿岸の風景だろうか。落合地域の河川沿いに、煙突があり排煙をともなう大小の工場が急増していくのは、川村町長が辞めたあと1928年(昭和3)以降のことだ。
それでも、山手線・目白駅Click!には貨物駅Click!が併設されていたため、大正期から排煙のあまり出ない各種工場が進出していたが、昭和期になると下落合はもちろん上落合の前田地区Click!にも、各種工場がビッシリと建ち並んでいく。1932年(昭和7)現在の進出企業や工場の様子を、同年に出版された『落合町誌』(落合町誌刊行会)から引用してみよう。
▼
旧神田川(ママ:神田上水)沿岸一帯は水質良好なる関係上晒染、製氷、衛生材料等、概して利水の工場多く設立せられて、工業地帯を形成す、商業は未だ振はず、日用食料の小売業者多きをS占む、昭和六年末町内に於ける会社の数は三十三社にして、其種別は株式会社十七、合資会社十四、合名会社二である。工場法を適用せらるゝ工場数は三十三を算し、其産額は経済界不況の影響により不振の状態にありと雖も、加工賃を含めば金五百三十余万円を挙げ、従業人員千二百名を置けり。
▲
『落合町誌』の工場リストによれば、1925年(大正14)以前に設立された下落合の工場を挙げてみると、下落合971番地の極東商事(1917年)、同45番地の山本螺旋(1916年)、同895番地の発工舎(1912年)、同71番地の池田化学工業(1916年)、同69番地の三越染工場(1917年)、同77番地の東製紙工場(1918年)、同8番地の正久刃物製造(1923年)、同948番地の平石商店東京工場(1925年)、同909番地のアポロ鉄工所(1913年)、同35番地の指田製綿工場(1924年)、同67番地の市村紡績(1918年)、同986番地の豊菱製氷(1923年)、同921番地の城北製氷(1924年)、同923番地の青柳染工場(1921年)、同1529番地の小野田製油所(1877年)、同10番地の甲斐産商店(大黒葡萄酒)工場(1886年)、そして同20番地の石倉商店工場(1911年)の、合計17工場だ。
また、上落合地域で1925年(大正14)以前から操業していた工場は、上落合119番地の東京護謨(ゴム)工場(1920年)、同85番地の二葉印刷所(1924年)、同305番地のローヤル莫大小(メリヤス)製造所(1923年)、同41番地の栗本護謨工業所(1925年)、同8番地の若松研究園電線所(1921年)、同39番地の青木電鍍工場(1913年)、そして同2番地の山手製氷(1922年)の合計7工場が数えられる。
上掲の工場には、明らかに煙突がなかったとみられる施設もあるが、当時は工場から出た廃物を処理するための焼却場を設置しただけで、背の低い煙突が建てられることもありうるので、これらの工場リストから製造プロセスに燃焼や排煙をともなわない事業場だからといって、それらを除外することはできないだろう。
また、一般企業の事業施設においても、書類などを燃やす焼却炉が設置される可能性もあるので、引用した『落合町誌』に書かれている企業33社の中にも、敷地内に焼却炉の煙突を設置した事業所があったかもしれない。ただし、一般の企業であれば、『風景』のように原っぱの中にポツンと建てられることは少なく、もっと便利な立地で開業することが通常なので、画面の建物はやはり旧・神田上水沿いで操業していた工場の建屋群だろうか。
1925年(大正14)とその少し前の曾宮一念は、体調不良により遠くへ写生に出かけることも少なく、自身のアトリエ近辺を描いていた時期と重なる。上記の工場リストの中に、描かれた『風景』のモチーフがありそうに思うのだが、工場はその性格上、次々に建屋が改築・増築されたり生産設備の変更から建物が大幅にリニューアルされるので、昭和期に撮影された空中写真をいくら眺めても不明のままだ。あるいは、大正期に発行されたパンフレットや広告のどこかに、この風景に見あう工場建屋の写真が掲載されているのかもしれない。
◆写真上:1925年(大正14)ごろ、落合地域の工場を描いたとみられる曾宮一念『風景』。
◆写真中上:上は、同『風景』の煙突部分の拡大。中・下は、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」にみる旧・神田上水沿いの工場群。
◆写真中下:上は、1924年(大正13)の1/10,000地形図にみる下落合東部の工場群。中は、1925年(大正14)に撮影された池田化学工業の工場建屋。下は、1925年(大正14)作成の「大日本職業別明細図」にみる落合地域と周辺の製綿工場。
◆写真下:上は、同年の「大日本職業別明細図」にみる落合地域と周辺の染物工場。中は、1912年(大正元)に高田村高田480番地の旧・神田上水沿いに建設された日本印刷インキ製造工場。下は、1912年(大正元)ごろに制作された野田半三『神田上水』Click!。日本印刷インキ製造工場はカーブする旧・神田上水の左手、画面左に描かれた建物の向こう側にある。