下落合に建っていた近衛邸の推移としては、まず近衛篤麿Click!が1895年(明治28)に学習院の院長へ就任するのとほぼ同時期に、下落合417番地の広大な敷地へ自邸(近衛旧邸Click!)を建てて住んでいる。次いで1904年(明治37)に近衛篤麿が死去すると、跡を継いだ12歳の近衛文麿Click!が同邸に家族とともに住み(京都帝大の学生時代を除く)、1922年(大正11)に学習院の学友だった三宅勘一Click!が常務取締役をつとめる東京土地住宅Click!へ依頼して、近衛旧邸の広大な敷地で近衛町Click!の開発を推進している。
つづいて、近衛文麿は1924年(大正13)の暮れに、麹町へ250坪ほどの新たな邸を建設して転居するが、数年でイヤになり下落合へともどってくる。近衛文麿の次男である近衛通隆様Click!(藤田孝様Click!による)の証言によれば、市街地の麹町では交通の便がよすぎて日々訪問客が絶えず、家族全員が応接に疲れてウンザリしてしまったとのことだ。こうして、麹町へ転居してからほどなく下落合436番地へ改めて新邸建設を計画し、1929年(昭和4)11月に竣工(近衛新邸Click!)すると同時に、再び下落合へともどってきている。
だが、上記の転居の推移には、わずかながら“すき間”があることにお気づきだろう。1922年(大正11)に、近衛町の開発がスタートすると同時に近衛篤麿が建てた大きな近衛旧邸は解体されている。そして、1924年(大正13)に麹町の新居へ移るまでの2年間余、近衛一家は下落合のどこに住んでいたのかというテーマだ。そしてもうひとつ、近衛文麿が転居した麹町時代の期間でも、下落合には近衛邸がなくなることなく継続して存在している。おそらく、篤麿の後妻である貞子夫人をはじめ、文麿の姉・武子や秀麿Click!、直麿、忠麿ら兄弟たちが暮らしつづけていたものだろう。
たとえば、1925年(大正14)に作成された「豊多摩郡落合町」の地図では、目白中学校Click!の南側に広い「近衛邸」の敷地が採取されている。また、目白中学校Click!が練馬Click!へと移転したあと、1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」では、目白中学校の跡地を含めた区画全体が「近衛邸」として記載されている。
さらに、近衛新邸が竣工する直前の1929年(昭和4)に作成された「落合町全図」では、北の目白通りから目白中学校跡地を南へ下る道筋と、東側の近衛町通りから西へと入る道筋とが描かれた「近衛邸」が採取されている。地番でいうと下落合432~456番地にまたがる広い敷地だが、これは同年11月に下落合436番地に竣工する近衛新邸ではなく、それ以前の近衛邸が建っていた敷地および地番を採取しているものだ。
そして、1938年(昭和13)に作成された「火保図」には、下落合1丁目436番地(現・下落合3丁目)の近衛新邸が採取されているが、1929年(昭和4)の「落合町全図」よりもかなり東寄りの敷地であり、ちょうど舟橋了助邸Click!や夏目利政アトリエClick!の北側一帯にあたる。ネームも「近衛別邸」として記録されており、これは前年の1937年(昭和12)に文麿が荻窪の「荻外荘」Click!を手に入れて住むようになっていたからだが、当初は下落合が本邸であり、より郊外の荻外荘は別邸(別荘)だったはずだ。ひょっとすると、交通の便がよくなった昭和初期には、麹町時代と同様に下落合への訪問客が急増したため、荻窪に引っこんですごす時間が急激に増え、ほどなく荻外荘が“本邸”になってしまったのかもしれない。
さて、近衛篤麿が1895年(明治28)ごろに建設した近衛旧邸(和館)と、近衛文麿が1929年(昭和4)に麹町邸から避難するように建てた近衛新邸(西洋館)とは、地図類に邸の形状が具体的に描かれ、また写真類も撮影されて残っている。特に近衛新邸は、昭和期に入って清水組(現・清水建設)により建設されているので、邸の外観や内観、平面図などの図面類もよく保存されている。だが、近衛旧邸が解体された直後から近衛新邸が竣工するまでの期間、年代的にいえば1922年(大正11)から1929年(昭和4)までの約7年間、目白中学校とその跡地の南側にあった“過渡的”な近衛邸の様子が、これまでまったくわからなかった。
ところが、わたしの手もとにある地図類では唯一、1922年(大正11)9月に都市計画東京地方委員会によって測量・作成された1/3,000地形図をベースにしているとみられるが、その補修版を戦後になって出版した日本地形社の地図の1枚に、目白中学校の南側に建っていた広い近衛邸の建物群が採取されているのに気がついた。従来は、近衛文麿が建てた近衛新邸だと思いこみ見すごしていたのだが、よくよく観察すると下落合432~456番地にまたがる敷地に、母家を中心とした建物群が採取されている。
都市計画東京地方委員会による1/3,000地形図は、その後1926年(大正15)9月をはじめ何度か補修をされているが、戦後になると先述の日本地形社が補修を引き継いでいるようだ。近衛旧邸の解体から近衛新邸の建設までの期間、わずか7年ほどしか存在しなかった幻の近衛邸だが、採取されていたのは戦後の1947年(昭和22)に日本地形社が補修した1/3,000地形図だった。ただし、1926年(大正15)時点での1/3,000地形図には、下落合432~456番地はすでに斜線表現(住宅街)で描かれているのに、なぜか1947年(昭和22)の同図では、大正中期から同地番にあった近衛邸が“復活”している。
さらに、同地形図は不可思議な特徴を備えており、1929年(昭和4)に近衛新邸が竣工するとともに、邸は解体され敷地も分譲されてしまったはずの、上記の“過渡的”な近衛邸がそのままなのをはじめ、1925年(大正14)には中野広町へ転居してしまったはずの相馬邸Click!(大正中期の姿)が克明に描かれていたり、近衛町Click!がいまだ開発直後(1922年)のように描かれていて、住宅がほとんど採取されていないなどおかしな点がたくさんある。
では、1922年(大正11)現在の家々や施設はそのままに、鉄道や道路の表現だけ最新のものに変えているだけかと思いきや、目白通りはいまだ拡幅前の状態だし、下落合の北側に接した戸田康保邸Click!が1934年(昭和9)に転居してくる徳川義親邸Click!になっていたりする。神田川は、直線整流化工事(1935年前後に実施)が行われる以前の蛇行したままの姿で、1927年(昭和2)に開業する西武電鉄Click!は描きこまれている。
そうかと思えば、下落合の北側に拡がる街は目白町ではなく、大正期の雑司ヶ谷旭出や長崎村、西巣鴨町のままであり、敗戦直前に廃止された武蔵野鉄道Click!の上屋敷駅Click!がそのまま描かれている。目白福音教会Click!の周囲は草原や空き地だらけでほとんどの住宅が未採取だが、東邦電力による林泉園住宅Click!は細かく描かれれており、1932年(昭和7)に開校した落合第四小学校Click!も採取されている。
要するに、大正の中期から後期と昭和の最初期、昭和10年代から戦時中、そして一部は敗戦後の情報までが混在し、メチャクチャな表現になっているのが1947年(昭和22)に補修された(?)1/3,000地形図ということになる。換言すれば、大正後期から昭和の最初期にかけ、いずれかの時点で記録された約7年間しか存在しなかった“過渡的”な近衛邸をそのまま残して、戦後に“先祖返り”表現になってしまっているのが同地形図の特異性なのだろう。
さて、当の近衛邸の様子を仔細に観察してみよう。まず、下落合432~456番地の敷地には北側と西側、そして南側には塀がめぐらせてあったようで、正門は目白通りから南へと下る突きあたりに設置されている。ただし、目白中学校が練馬へ移転する以前は、近衛邸の北側は同中学校のキャンパスになっており、このような道路や正門は存在しなかったはずだ。したがって、同地図の表現は移転後の1926年(大正15)から、近衛新邸が竣工する1929年(昭和4)までの姿をとらえたものだろう。それまでの正門は、近衛町通りに面した東側に設置されていたとみられ、実際に東側にも旧・正門らしき門が描かれている。
敷地内には、大きな母家の建物が採取されているが、目白通りをはさんだ徳川義親邸の母家とそれほど変わらないサイズだが、御留山Click!に建っていた相馬邸の母家に比べると半分ほどの規模だろうか。西洋館か和館かは不明だが、広大な近衛旧邸の家族や家令たちのことを考慮すると、2階建ての西洋館ないしは和洋折衷館だったのではないだろうか。母家の東側、正門のすぐ右手には大きな蔵があり、母家の南東側には家令たちの住居だろうか、東西に細長い建物が建っている。また、母家の西北側にも小さな(といっても通常の住宅1軒分ぐらいはある)物置きのような建造物が確認できる。
近衛邸の西南北側が塀で囲まれているのに対し、東側に連続する塀が存在しないのは、当初は東側にも塀が設置されていたものの、近衛文麿一家が麹町から再び下落合へともどる近衛新邸の建設計画が具体化しており、その工事計画が進捗していたために取り払われていた……とも解釈できる。すなわち、描かれている約7年間しか存在しなかった近衛邸は、1929年(昭和4)11月の近衛新邸が竣工する直前、1928年(昭和3)ごろの姿ではないかと想定することができそうだ。わたしの手もとにある地図を観察する限り、この幻の近衛邸の具体的な姿をとらえた地図は、日本地形社の1/3,000地形図(1947年補修版)のみとなっている。
固定観念とは怖しいもので、戦後1947年(昭和22)補修の1/3,000地形図には「空襲で焼けたはずの近衛新邸が、削除・修正されないまま残っている」と思いこんで疑わなかった。何気なく地図類をひっくりかえして眺めていたら、松本清張の『Dの複合』の主人公のように「あれっ?」と気がつき、描かれている近衛邸が明らかに近衛新邸の形状とは異なるのを発見したしだいだ。こういう思いこみがないかどうか、先入観によりフィルタリングされた観察をしていないかどうか、さまざまな資料を改めて見直してみる必要がありそうだ。
◆写真上:1929年(昭和4)11月に竣工した、下落合436番地の近衛新邸の正門跡。この門は、約7年間しか存在しなかった“過渡的”な近衛邸の門跡でもある。
◆写真中上:上は、下落合417番地の近衛旧邸で撮影された近衛篤麿の家族。左から近衛直麿、近衛貞子(近衛篤麿夫人)、武子、文麿、秀麿、忠麿(手前)。中は、1929年(昭和4)に竣工した下落合436番地の近衛新邸。下は、1934年(昭和9)に近衛新邸の応接間で撮影された近衛家の娘たち。左から右へ近衛温子、近衛昭子Click!、近衛秀麿。
◆写真中下:上から下へ、1910年(明治43)の1/10,000地形図にみる近衛旧邸、1925年(大正14)の「豊多摩郡落合町」にみる約7年間しか存在しなかった近衛邸、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる目白中学校移転後の同邸表現、1929年(昭和4)の「落合町全図」にみる同邸、そして1938年(昭和13)の「火保図」にみる近衛新邸。
◆写真下:いずれも1922年(大正11)測図1947年(昭和22)補修の、1/3,000地形図(日本地形社)の記載表現。上から下へ、約7年間しかなかった近衛邸とその建物群の拡大、ほぼ開発当初と変わらない姿のままの近衛町、1925年(大正14)に転居したはずの御留山の相馬孟胤邸、そして下落合に接して建つ徳川義親邸。いちばん下は、1936年(昭和11)の空中写真にみる下落合436~437番地の近衛新邸と下落合432~456番地の“過渡的”な近衛邸跡。