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佐多稲子と昭和初期の戸塚・落合生活。

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窪川稲子邸跡界隈.JPG

 窪川稲子(佐多稲子Click!)は、下落合のすぐ南の上戸塚に住んでいたせいで、落合地域の作家や画家たちとの交流が深い。1958年(昭和33)から出版がはじまった『佐多稲子作品集』(筑摩書房)の第15巻には、「戸塚から落合へ」と題する随筆が収録されている。本書は、三岸アトリエClick!の2階にあった資料の山を整理していたときに見つけたもので、そのままお借りして読んでいる。佐多稲子が三岸節子Click!へ直接贈ったもので、本書の内扉には佐多稲子のサインが入っている。おそらく三岸節子も、かつて本書を読んだのだろう。きょうは少し長い記事だが、当時の落合地域とその周辺を的確に描写している作品なので、ていねいにご紹介したい。
 「戸塚から落合へ」は、佐多稲子がいまだ窪川鶴次郎と結婚をしていて窪川稲子を名のっていた時代、戸塚町上戸塚593番地に住んでいたころに書かれたものだ。佐多稲子は、淀橋区(現・新宿区西側の一部)が気に入っていたらしく、生涯の多くを新宿界隈ですごしている。早稲田通りが見える、当時借りていた2階建ての住まいの様子を、「戸塚から落合へ」より引用してみよう。
  
 戸塚の端れに住みついてあしかけ七年ばかりになる。家の前は、露路を出ればすぐアスファルトの大通りで、これは左は高田馬場から早稲田へ通じ、右は小滝橋を経て落合中野へ出る路である。小滝橋を渡らずに左へ折れれば新宿方面へ向う。このアスファルトの大通りをへだててやや高く戸山ヶ原Click!があり、兵隊さんの演習をする銃声Click!など聞えてくる。家の裏側は、うちのもの干し場からのぞむと近所の屋根を越して遠く下落合の丘Click!が緑に茂つて見えている。その間を高田馬場から川越方面へ出る西武線Click!がとおり、郊外電車らしいピイポウという警笛を伝わらせてくる。神田川という古い川が線路の手前に流れていて、これは江戸川から水道橋の方へ落ちてゆく。/表の大通りにはこの一年ばかり前から市バスが通じ、絶え間なく円タクも走っていて、ガソリン臭い風を吹き寄せてくるし、夜中には自動車の疾走する音の数で時間が分った。深夜の流し円タクが禁止されてこの音と時間の関係が少し変わってきたのもはっきり分る。
  
 早稲田通りには、佐多稲子お気に入りの花屋と銭湯があったようで、花屋のほうは当時は上落合2丁目740番地から目白町3丁目3570番地の武蔵野鉄道・上屋敷駅Click!近くに引っ越した中條百合子Click!(宮本百合子Click!)や、早稲田通りの斜向かいにあたる上戸塚866番地に住んでいた藤川栄子Click!と連れ立って出かけているようだ。銭湯は、佐多稲子の家から早稲田通りをはさんで向かい側、戸塚町上戸塚763番地で営業していた黒塗りの板塀が目立つ「中乃湯」のことで、花屋のほうは佐多稲子の家がある側、上戸塚591番地に開店していた銅張り商店建築の「増田屋」のことだろう。稲子の家から花屋までは、わずか20~30mほどしか離れていない。
  
 大通りには私の近所自慢にしている花屋と銭湯がある。大きな銭湯で、明るいしきれいだし、それもいいのだが自慢しているのは、ここへくる浴客に美しい人の多いことなのだ。(中略) 私はこの銭湯のしまい風呂へよく馳け込んでゆく。花屋の方は、いつも新しい花があつて安い。これは私の喜びでさえある。目白にいる中条百合子さんは私の家へ来ると、どうせ帰り時間は夜の十二時を過ぎたりするにちがいないから、まず先きに花を買っておいて、それから話すという具合だ。それでも台所のバケツにつけておいた花は帰るときにはつい忘れられたりするのだが。/この花屋の善さは私と中条さんだけが認めているのではない。近所にいられる藤川栄子さんも御ひいきである。藤川さんのお宅は大通りの向い側で、バスの停留所をひとつだけへだてている。
  
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中乃湯.jpg
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増田屋.jpg

 特に、藤川栄子と佐多稲子は近いのでしょっちゅう行き来していたらしく、文学や美術をめぐって話は尽きなかったようだ。藤川栄子は、二科の彫刻家・藤川勇造Click!と結婚する以前、いまだ坪井栄(えい)の時代に早稲田大学文学部へ3年間も通った聴講生であり、もともとは文学を志して東京へとやってきている。だから、近所の佐多稲子や上落合549番地に住んでいた壺井栄Click!と、すぐに親しくなれたのだろう。彼女たちは、仕事の合い間にお互いを訪ねあいタバコ(ゴールデンバット)をくゆらせながら、情報交換や芸術論に花を咲かせていた。このあたり、女性ネットワークとは強固なものであり、一度しっかりと基盤ができてしまうと生涯にわたりつづいていくようだ。少しあとに、この“女縁”には藤川栄子を通じてだろう、三岸節子Click!が加わることになる。
  
 「窪川さん、いらっしゃいます」/ちよつと関西なまりがアクセントにあつて、二階にいても私はすぐあゝ藤川さんだ、と気づく。降りてゆくと、大きな新聞紙に包んだものを抱えている藤川さんは、黒地に、青と黄とえんじの大きな縞のある着物をきて、朝の化粧がすんだ、という美しい顔で笑つている。歯がきれいだ。/「これ、筍、どう、食べます」/重いのが私の手に移される。「花を買いに来たから、ちよつと寄つてみた」/それから、二人はバットを吹かしながらいろんなことをしやべりまくる。絵のこと、文学のこと、映画のこと、子供のこと、着物のこと、知人友人の誰かれの噂。そして自分たちの気持ちのこと。/「もう、いやになつて寝てばかりいるわ」/「あんまり言わないで頂戴。私もその組なんだから」/と、私が言う。藤川さんはすぐ肯定して、/「そうね、窪川さんもよく寝ているらしいね」/藤川さんの曜子さんとうちの達枝もお友達で、ときどき訪問し合う。私も藤川さんのアトリエで、画集など見せて貰つたりする。
  
 佐多稲子は、あまり知人宅を訪れないといっているが、その人物が困難な事態に陥っているとき、あるいは孤独で精神的に追い詰められ、誰かと話したがっている切実な状況を迎えているとき、つまり“肝心なとき”にまるで相手の心情を見透かしたように、なぜかフッと姿を現わして相談相手になっている。彼女の周囲にいた人々の著作をみると、なにか困った状況へ追いつめられたときに佐多稲子が姿を見せる・・・というシチュエーションが、少なからずみられるのだ。これは、彼女がしじゅう周囲への気配りや配慮を欠かさなかった証左であり、年上の女性からでさえ佐多稲子が「姐御」と頼られ、慕われた大きな要因なのだろう。
 本人にはそのつもりがないのに、なにかの集まりや組織、集会などでは佐多稲子が常に中核の位置へおかれてしまうのは、彼女のそのような性格によるものだと思われる。それは、さまざまな困難に立ち向かってきた“苦労人”としての人格形成と、それによって培われた人に対する独特の“やさしさ”からくるもののようだ。文芸評論家の山本健吉が、「佐多稲子さんの印象」と題するエッセイを、同全集第15巻の月報13号(1959年8月)に寄せているので引用しておこう。
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佐多稲子作品集第15巻1959.jpg
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佐多稲子サイン1.jpg

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佐多稲子プロフィール.jpg
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上戸塚593番地.jpg

  
 私がまだ大学生時代のころ、すでにナップClick!の新進詩人として名をなしていた伊藤信吉君は、いろいろナップの文学者についての印象を私に語ってくれたが、彼によれば、宮本百合子は「可愛い女」であり、佐多さんは「美しい姐御」であった。女丈夫宮本百合子がどうして「可愛い女」であるのか、これは主としてあの丸まっちい童顔から来ている印象だろう。だが、宮本よりずっと若いはずの佐多さんが姐御であるのは、ずいぶん苦労を重ねてきた経験がおのずから発散する、人への思いやりがあるからだろう。
  
 「戸塚から落合へ」では、ほかにも落合地域に住んでいたさまざまな人々が姿を見せる。村山籌子Click!が、内職でシェパードのブリーダーをしていた様子も記録されている。生まれたシェパードの子犬を、下落合2108番地の当時は流行作家だった吉屋信子Click!の家へ、無理やり「押し売り」に出かけた経緯は、村山亜土の想い出とともにこちらでもご紹介Click!している。村山籌子なりに考えた、資金調達のための「リャク」Click!のオリジナル形態なのだろう。
 上落合の古川ロッパ邸Click!や、吉武東里邸Click!の近くに住んでいた神近市子については、残されている資料が少ないので、少し長いが稲子の同随筆からできるだけ引用してみよう。
  
 小滝橋を渡らずに左手をちよつと右の奥へ入つたところについ先頃まで中野重治さんと新協の女優さんの原泉子Click!さん御夫婦がいて、ここは古い友達なので、まるで毎日のように往来していたが、泉子さんが身体を悪くしたので世田ヶ谷の閑静なところへ越していつたから淋しくなつた。泉子さんお得意のお萩も貰えなくなつた。/この先きに高田せい子さんの舞踏研究所がある。(中略) 小滝橋を渡ると、村山知義Click!さんの家、神近市子Click!さんの家がある。以前の村山さんのお宅へは私もよつたことがある。知義さんのお留守の頃で、奥さんは、立派なセパードと同じ部屋にいられたが、昔この家が建つたときは新聞にも出た珍らしいClick!で、ドイツの表現派の舞台を見るような感じだつた。(中略) 神近さんも畑をつくつていらつしやると聞いたが、この頃暫くお目にかからない。西武電車の線路にむかつた静かないい場所だ。/線路の向うには、林芙美子さんのお住いもある。いつか林さんの出版記念の時、方面が同じなので、酔つている林さんを送つてゆくように私が言いつけられ、門口まで送つた。門を入ると小さいだらだら坂と、傾斜のある前庭などのある、別荘風の洋館Click!である。中へ入つたことはない。(中略) 私はあまり他所のお宅へうかがわない性質で、この前友人録で書いた壺井栄さんと繁治さんのお宅も落合で、近いのだがそこへさえめつたにゆかない。/目白の中条さんへときどきゆく許り。ここは高田馬場から一駅で、隣り近所のうちに入るだろう。実は今夜も中条さんの家で十二時まで話し込んで帰つてきたところである。
  
 近所をあまり訪問しないと書く稲子だが、戦争の足音が高まるにつれ、彼女は友人知人宅をよく訪れては情報交換やおしゃべりをするようになり、それは戦後もずっと変わることはなかった。
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吉屋信子邸1929.jpg

 その後、戦争が激化する中で“女縁”の結束はますます固くなったようだ。特高Click!による検束と釈放を繰り返しながら、彼女たちは情報交換や芸術観の“おしゃべり”を決してやめようとはしなかった。誘い合って落合地域を自由に闊歩する彼女たちの姿は、特高にはきわめて目ざわりだったにちがいない。でも、戦後すぐに病死した村山籌子を除き、彼女たちが本格的に表舞台で活躍をはじめるのは、1945年(昭和20)8月15日以降の時代を待たなければならなかった。

◆写真上:戸塚町4丁目593番地(上戸塚593番地)の、窪川稲子(佐多稲子)邸跡の現状。
◆写真中上は、稲子の家から早稲田通りをはさみ上戸塚763番地で営業していた「中乃湯」。は、稲子の家から歩いて1分余で着いたと思われる上戸塚591番地の花屋「増田屋」。早稲田通りの商店街イラストは、いずれも浜田煕「昔の町並み」より。
◆写真中下上左は、佐多稲子から三岸節子に贈られた『佐多稲子作品集』第15巻。上右は、同書の内扉に書かれた佐多稲子の贈呈サイン。下左は、大正末と思われる佐多稲子のプロフィール。下右は、1929年(昭和4)に作成された「戸塚町全図」にみる上戸塚593番地。
◆写真下:1929年(昭和4)に、下落合2108番地の吉屋信子・門馬千代邸で撮影された作家たち。右から左へ窪川稲子(佐多稲子)、吉屋信子、宇野千代Click!林芙美子Click!


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