2004年にスタートしたブログ書きClick!が、この11月24日より10年目に入った。あれだけ流行った誰でも情報が発信できる「ブログ時代」のブームはとうにすぎて、いまやSNSのfacebookのほうが盛んだろうか? でも、ひとつの記事に2,900文字余の字数制限があるfbでは、ここ数年の記事がときに3,000文字を超えてるわたしにとっては、残念ながら使いものにならない。ましてや、fbにはおせっかいな機能や表示、知らぬ間に気持ちの悪い設定変更や勝手な規定、さらにわずらわしい誘導メールなどなど、「好きにさせて、放っといてくれ!」と、癇性のわたしには向かないようだ。相変わらずfbには、ブログのURLを貼りつけるだけでお茶をにごしている。
少し前、長崎町大和田1983番地(現・豊島区南長崎)あった造形美術研究所Click!(のちプロレタリア美術研究所Click!)で、漫画講師をしていた八島太郎Click!をご紹介したが、八島の資料をいろいろ読みこんでいるうち、面白いことに気づいた。わたしが、ブログの記事を書くときにやっている方法と、八島太郎が絵本を創作するときにやっている方法論とが、似ていることに気づいたのだ。もちろん、八島の絵本はフィクションであり、わたしの記事はたまに突拍子もないオバカなオチャラケものもあるけれど、基本的には事実や史実にもとづいて書いているドキュメントだ。
至光社が発行する季刊『ひろば』に、1964年(昭和39)から「児童絵本とは何か」を連載していた八島太郎だが、絵本づくりの方法論について触れている箇所をちょっと引用してみよう。
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物語の醸成をまって、壁の大封筒は四つの封筒にとってかわる。今までのすべての材料を、起・承・転・結の四つに分類するのである。/材料が起承転結のいずれに属するか不明のこともあるので、なお思索検討をふかめつつ、あれこれと入れかえて作業をつづける。感動の高さをつくる転の封筒が材料不足となれば、材料のよびだしにかえらねばならない。また、起の封筒には材料がありすぎるとなれば、他との調和をはからねばならない。/物語とは、ある環境のなかでの諸事情をつうじて諸性格をうごかす筋である。だから四つの封筒の材料は、何処で----いかにはじまり、いかに展開し、いかに昂まり、いかにむすばれてゆくかの構成をつくるものなのである。あるところまでゆけば、その均整工合はかんたんな図にすることができる。/わたしの場合は、構成=環境、事件、性格を肉づけるのに架空ということはなく、みな現実の材料によるという方法である。
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“物語”でもフィクションとドキュメントのちがいはあるにせよ、取材を含めて記事を制作する方法論が、わたしとほぼ同じだということに気づく。壁に大封筒を貼りつける代わりに、わたしはPCのデータフォルダやクリアファイルで密接に関連しそうな、あるいはいつか結びつきそうなテーマを適当に分類し、そこへ入手したデジタルデータや紙資料を放りこんでおく。フォルダは、八島太郎のように必ずしも「起・承・転・結」という展開軸ではなく、出来事や事件が起きた時代軸(時間軸)だったり、あるテーマの周辺にみられる類似テーマだったり、ときにはピンポイント的な“場所”だったりするのだが、しばらくすると、記事を起こすのに適した1本の筋書きが見えてくることが多い。
わたしの場合、あるテーマをひとつの出来事や切り口のみで記事にすることはあまりなく、タテ軸の時間軸(時代・世相など)Click!を重ねあわせ、またヨコ軸の水平軸(地域・地点など)を錯綜させて書くことが多い。これは、できるだけ同一の地点で起きた出来事を3D的に表現し、また同時にその出来事が単独で起きているのではなく、ときを同じくして別の場所ではなにが起き、誰がなにをしていたかという、同時代性ないしは社会性を際立たせたい気持ちがあるからだ。
それは、物語にふくらみとリアリティをもたせたいというのが一義的な理由なのだけれど、「歴史」ないしは「日本史」、ときに「地域史」として整理され、小さくまとまってしまった出来事や、ご都合主義的に解釈されている史実や事件、さまざまな人々の生活や死が、どこか特別な異次元空間に存在していたものではなく、ましてや本や資料の活字上で起きているわけでもなく、わたしたちが生きている現代の地点(現場)へと直結する、「ついこの間」の延長線上に存在していたもの・・・というような感触を、できるだけ大切にしたいからだと思う。
さて、9年間の記事を見わたしてみれば、落合地域とその周辺域で過去に生きた、あるいは現代に生きている、多彩な人たちの生と死の軌跡が見えてくる。時代状況的に表現するなら、北海道や東北地方からせっせと目白崖線まで、石器の材料となる岩石を運んでいた“物流”面での旧石器時代人から、ロジスティクスやトレーサビリティシステムを張りめぐらせた、めまぐるしい21世紀の今日に生きる現代人まで。また、職業・仕事的な切り口からは、真夏に棒打ち歌を唄いながら麦を収穫する二毛作の農民から、落合地域に巨大な西洋館群を建てた華族たち、芸術分野では画家や文学者、音楽家たち、大正期の東京郊外に文化住宅街を形成した“中流”市民から、データセンターでサーバの仮想化によるリソースプールづくりと、「ユーザ振り出し」の仕組みづくりで片方の肩の荷を下ろしただけでなく、そろそろSDNで両肩の荷を下ろしたがっているw、運用管理のPMやSEにいたるまで、ありとあらゆる職業や仕事を手がける人たちが登場している。
その昔、戦後すぐのころ「全体小説」(野間宏は「総合小説」)という表現法が、文学界で盛んに論じられたことがあった。海外の作品では、トルストイの『戦争と平和』やプルーストの『失われた時を求めて』、サルトルの『自由への道』などが、その概念の作品にあたるとされている。日本では、大西巨人や野間宏、五味川純平、埴谷雄高Click!などの作品が有名だ。わたしも、いまだ体力も集中力もあった学生時代、これらの作品を一気に読んだものだ。たとえば、野間宏の『青年の環』は、全5巻6,000枚におよぶ大作で、わたしは夏休みを利用し1週間かけて読んだ記憶がある。
日中戦争を背景として、昭和10年代の大阪を舞台に富豪家に生まれ、挫折して性病に罹患したデカダン気味のボンボンと、市役所の官吏をつとめる思想に誠実でマジメな男、そして被差別部落出身の策謀家などが主人公で、人間関係や社会関係を重層的かつ総体的にとらえた、長い長い作品だ。夏場のむせかえるような暑いシーンが多く、読後は友人がいったとおり、よく冷えたビールが美味かったのを憶えている。
この「全体小説」という文学用語のひそみにならえば、当初の“(城)下町ブログ”Click!などはどこへやら、まことに結果論的かついい加減な総括で汗顔のいたりなのだが、拙サイトは落合地域を旧石器時代から現代まで(新生代=武蔵野礫層の貝化石Click!もご紹介しているので、実はもっと前からなのだが)、また、あらゆる階層や職業の人々が入れ代わり立ち代わり登場する、落合地域の「全体ドキュメント」あるいは「全体地誌」とでも表現できるかもしれない。換言すれば、フランスの画家アンリ・リヴィエールの甥であり、人類・技術・芸術・民俗博物館のコンセプトを1940年代に世界で初めて起ち上げたジョルジュ=アンリ・リヴィエールの、自然を含めた地域全体を表現する“エコ・ミュゼ(Ecomuseum)”の概念につながるものなのかもしれない。
別に“有名人”だろうが、尋常小学校しか出ていない美味しい落合野菜をつくりつづけたおじいちゃんだろうが、御用聞きと勝手口で立ち話をする主婦だろうが、相馬邸は太素神社の神楽殿下に住みついた浮浪者だろうが、目白文化村Click!の邸を物色してまわるドロボーだろうが、あらゆる人々の軌跡や生活に眼を向け、そして可能な限りこちらでご紹介していきたいと思っている。
余談だけれど、山手ではあちこちで「どちらのご出身?」と訊かれるのに、ちょっと閉口している。下町では、「出身は?」と訊かれたら町名ないしは地域名(土地名)を答えるのが普通なのだが、乃手では最終学歴(おもに大学名)を意味する場合がほとんどなのだ。学校や学歴で人格や人間性、人情、アイデンティティが形成されるとは、さらには地霊(ちだま=いわゆる民族学あるいは文化人類学でいうゲニウス・ロキ)が宿るとは、わたしは考えていない。いままで、「出身は?」と訊かれて答えたら、ツーッてばカーで即座にお話が通じたのは、第二文化村の安東様Click!の「あら、あたしは人形町なのよ」のおばあちゃんと、画家の子息でおられる「オレは、神田だよ~」の斎藤昭様Click!など、とても少数なのが、ちょっとさびしい。
◆写真上:下落合の東端、日立目白クラブ(旧・学習院昭和寮Click!)の敷地にある竹林。
◆写真中上:上左は、1970年代の八島太郎。上右は、1958年(昭和33)に米国で出版された『雨傘』(日本では福音館書店)。下は、秋の陽射しがまぶしいオバケ坂Click!。
◆写真中下:上は、公園の拡張工事がつづく御留山・相馬邸跡Click!。下左は、小野田製油所Click!に残る江戸期の製法からつづく搾油用の石製粉砕器。下右は、野鳥の森公園の小流れ。
◆写真下:上左は、薬王院に残る富士講「月三惣講社」Click!の記念碑。上右は、昔もいまも下落合を流れる神田川(旧・神田上水=平川)。下は、大雪が降った日の下落合の森。