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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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女子学生が少ない学習院の政治学科。

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中村彝アトリエの北側.JPG
 先日、中村彝Click!アトリエの北側、目白福音教会Click!の近くに住まわれている、伊沢節子様とお話をする機会があった。大正中期には、一吉元結工場Click!の干し場があった敷地に大きな邸を建設されている。すなわち、中村彝が目白福音教会のメーヤー館Click!を描いた一連の作品群Click!の、描画ポイント上にお住まいなのだ。目白平和幼稚園を卒園され、戦前は宣教師館に住んでいたメーヤー夫妻Click!とも親しく、その子どもたちともよく遊んでいたらしい。もう絵に描いたような、典型的な下落合地付きの“お嬢様”だ。
 堀尾慶治様Click!のご紹介で伊沢様にお会いしたのだが、それは佐伯祐三Click!が1926年(大正15)10月11日制作の『下落合風景』シリーズClick!の1作「テニス」(50号)Click!に描かれた、2階建ての日本家屋が戦前の伊沢邸にそっくりなので、同作はわが家を描いたのではないか?・・・とうかがったからだ。同邸の前、路地をへだてた東向かいは空地であり、そこでは子どもたちが野球などをして遊んでいたらしい。さっそく、1936年(昭和11)に撮影された空中写真を参照すると、確かに伊沢邸の東側は空地になっているが、3~4本の樹木が生えているのがわかる。また、伊沢邸を上空から観察すると、「テニス」に描かれた邸とは、ややかたちが異なるようにも見える。伊沢邸は戦災に焼け残り、1947年(昭和22)の空中写真でも詳細を確認することができる。当時、テニスに描かれたような意匠の屋敷は、下落合のあちこちで見られたのではないだろうか。
 佐伯祐三の「制作メモ」Click!によれば、「テニス」は第二文化村に沿って描かれた一連のスケッチコース沿いの風景、すなわち10月11日の「テニス」(第二文化村の益満邸テニスコート)、10月12日「小学生」(おそらく落合第一小学校周辺)、10月13日「風のある日」Click!(第一文化村と第二文化村の間にあった宇田川邸敷地)、10月14日の「タンク」Click!(第二文化村の水道タンク)、10月15日の「アビラ村の道」Click!(第二文化村外れのアビラ村Click!で陸路邸の手前)と、落合第一小学校ないしは第一文化村の水道タンクClick!(現在の山手通りと新目白通りの交差点北側)から、アビラ村へと抜ける道沿いを集中的に描いている時期なので、突然、中村彝アトリエの直近で旧・下落合の東側に位置する風景を、ポツンと離れて制作したとは考えにくい。また、伊沢邸東側の空き地に、テニスコートの設備(ネット用ポール)があったかどうかが不明だ。
 そしてなによりも、「テニス」は落合第一小学校の教師であり、佐伯アトリエの隣人だった青柳辰代Click!へのプレゼント用として、『下落合風景』シリーズでは異例の50号という大画面で描かれている点にも留意しなければならない。「テニス」は、戦前戦後を通じて目白文化村Click!に隣接する落合第一小学校の校長室Click!壁面に架けられていたのであり、旧・下落合の東側の風景を描いたとは、よけいに考えにくいのだ。青柳辰代の勤務先を意識し、連作『下落合風景』の1点をプレゼントするとすれば、落合第一小学校の近辺を描いた作品であるのが自然だろう。
佐伯祐三「テニス」19261011.jpg
 旧・下落合の東側は、佐伯の画因を刺激する風景が見あたらず、創作欲が湧かなかったせいか現存する作品からは、山手線の線路沿いを下落合3番地にある雑司ヶ谷道(新井薬師道)の山手線ガードClick!から、雑司谷西谷戸大門原1126番地の武蔵野鉄道ガードをくぐった先の山手線踏み切りClick!まで、線路沿いを南北にたどる写生ルートしか発見できていない。
 おそらく、旧・下落合の東側は、山手線の目白駅や高田馬場駅に近く、西側よりも街としての景観が相対的に整い、風情も落ち着きを見せはじめていたのか、佐伯が『下落合風景』シリーズで好んで取りあげるモチーフ、すなわち赤土がむき出しの造成地や工事現場など、当時の典型的な「開発途上の郊外風景」があまり見られなかったからではないか。でも、「制作メモ」や残された画像から、現時点で確認ないしは想定できる『下落合風景』は50点ほどにすぎず、フランスから帰国後にアトリエで画布600枚Click!を製造しているにしては、あまりにも数が少ない。
 行方不明になったり戦災で焼けてしまった中には、ひょっとすると旧・下落合の東側に展開する街並みを描いている作品があるのかもしれないのだが、現時点で描画ポイントが確認できる旧・下落合の東端は、山手線線路沿いの風景作品3点を別にすれば、1926年(大正15)9月20日の「曾宮さんの前」Click!(曾宮一念アトリエに面した諏訪谷へ建設途上の住宅群)、9月22日の「墓のある風景」Click!(薬王院の旧墓地西側のコンクリート塀)、10月10日の「森たさんのトナリ」Click!(曾宮アトリエ北側の森田亀之助邸の隣り=里見勝蔵邸)、10月23日の「浅川ヘイ」Click!(曾宮アトリエの東隣り浅川秀次邸)と「セメントの坪(ヘイ)」Click!(曾宮アトリエ前のコンクリート塀)、そして制作日は不明だが薬王院旧墓地の先にある崖から池田邸Click!の赤い屋根を見下ろした作品と、ほぼ諏訪谷から薬王院の旧墓地へとつづく南北ラインが東側の終端となっている。
目白文化村1936.jpg
目白福音教会1947.jpg
 伊沢邸は、目白通りの南側で幅20mにわたって行われた1944年(昭和19)暮れの建物疎開Click!(防火帯33号線Click!の建設)からまぬがれ、また幸運なことに1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲Click!からもまぬがれて戦後を迎えている。伊沢節子様は、戦争末期に宇都宮へ疎開し女学校へ通っているが、まだ戦争が終わらず疎開生活のさなかに東京へともどる途中、荒川鉄橋手前で列車が米戦闘機による機銃掃射を受けて被弾し、そのまま運行を停止してしまった。伊沢様は、そのとき荒川鉄橋を歩いてわたって東京へもどったのだが、鉄橋の線路から足下の川や河原までかなりの高さがあり、相当怖い思いをしたらしい。
 戦後は、学習院大学の政経学部政治学科へと進み、英語と社会の教員免許を取得。卒業後は語学力を生かして、大使館などへ勤務している。英語力は抜群だったようで、ネイティブチェック・レベルの英文校正ができ、よく彼女のもとに学者から執筆した英語論文などが持ちこまれた。のべ100ヶ国近くを旅行し、現在はNPO法人「銀の鈴交流ネット」の監事として活躍されている。
東北本線荒川鉄橋1947.jpg
学習院大学旧校舎.JPG
 学習院大学の政経学部には、戦後間もないために女子の数がきわめて少なく、伊沢様は相当に周囲の男子学生からもてにもてたようだ。(本人も否定されない。w) 同時期の政経学部には、現・天皇(政治学科)や徳川義宣Click!(経済学科/在学中に堀田姓から徳川姓に改名)が在学中で、いわゆる「ご学友」ということになるのだろうか。伊沢様が階段を駆けおりているとき、当時の皇太子と正面衝突しそうになったエピソードもうかがった。東京の“お嬢様”は、乃手と下町を問わずひっそりと控えめなどでは決してなく、どこか「おきゃん」で「いさみ」な気の強い性格をしているのが魅力なのだ。このときも、先に謝罪したのは伊沢様ではなく皇太子のほうだったようだ。

◆写真上:大正中期まで一吉元結工場の敷地だった、中村彝アトリエ北側に通う道。
◆写真中上:1926年(大正15)10月11日のメモが残る、異例の50号に描かれた佐伯祐三『下落合風景』の1作「テニス」(部分)で、第二文化村の益満邸テニスコートがモチーフとみられる。
◆写真中下は、1947年(昭和22)に撮影された目白福音教会とその周辺の様子。は、1926年(大正15)10月11日~15日にかけた佐伯祐三の『下落合風景』制作の足どりコース。
◆写真下は、1947年(昭和22)に撮影された空中写真にみる東北本線の荒川鉄橋(左が北)。は、学習院大学キャンパスの戦前に建てられた旧校舎。


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