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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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最勝寺の大師堂は『堂』なのか?

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最勝寺大師堂1.JPG
 佐伯祐三Click!が描いた『堂(絵馬堂)』について、下落合とその周辺の寺社をしらみつぶしに当たってみたところ、わたしは桜ヶ池の不動堂Click!がいちばん“怪しい”とにらんでいる。それは、すぐ近くに「洗濯物のある風景」Click!の描画ポイントがあり、佐伯がイーゼルを立てた妙正寺川の土手とみられる地点の背後に、桜ヶ池不動堂の屋根がよく見えていたと思うからだ。
 でも、画面に描かれた堂の可能性がある建築物として、上落合の最勝寺境内にあった大師堂の可能性もある。大師堂は、現在でも存在しているのだけれど、描かれた堂に比べてかなり規模が大きい。いままで、最勝寺の大師堂をあえて調べなかったのは、この寺院最古の檀家のひとつである宇田川様Click!から、佐伯の『堂』をご覧いただき「うーん、見たことがないな」とのお返事をいただいていたからだ。その時点で、最勝寺の大師堂はわたしの調査対象から外れた。
 しかし、ちょっと気になるエピソードを最近になって仕入れた。それは、最勝寺Click!は1945年(昭和20)5月25日の第2次山手空襲Click!で、境内の伽藍をひとつ残らず焼失しているのだけれど、それ以前にも、1935年(昭和10)に火災に遭って伽藍を全焼しているのだ。つまり、戦前に同寺の境内を見馴れていた方であったとしても、既存の建物とは異なる本堂や大師堂を記憶されているのであり、それ以前の建築物は異なる姿をしていた・・・ということになるのだ。宇田川様のご記憶にないということは、1935年(昭和10)以降の最勝寺の姿に心あたりがない・・・ということなのかもしれない。さっそく、最勝寺へ佐伯の『堂』画像を手に出かけてみる。
 佐伯祐三は、妙正寺川の向こう側(南側)に大きな寺があることを、おそらくまちがいなく知っていた。それは、寺斉橋Click!の南詰めには林重義Click!のアトリエがあり、その近辺に出かけていた可能性が高いのと、下落合の丘上から上落合側を見下ろせば、いやでも上落合787番地の最勝寺の大きな境内と伽藍が目に飛びこんできたにちがいないからだ。たとえば、蘭塔坂Click!(二ノ坂)の坂上から上落合(南側)を向いて描いた「遠望の岡(?)」Click!(1926年9月27日)や、蘭塔坂(二ノ坂)自体を描いた「切割(?)」Click!(同9月29日)の地点からは、同寺の本堂の大屋根がよく見えたことだろう。ちょうど、安藤広重Click!が描く『名所江戸百景』Click!の各作品に、築地本願寺の大屋根が目立って見える光景と同じような印象を、当時の落合地域を歩く人々に形成していたと思われるのだ。
最勝寺1930.jpg 最勝寺1936.jpg
 また、フランスでも地図を見るのが好きだった佐伯は、1926年(大正15)の秋に発行されたばかりの「下落合事情明細図」Click!、あるいはいまだその所在を確認できていない「上落合事情明細図」を手に、どこになにがあるのかをモチーフ選びを前提に研究していた可能性が高いのだ。これらの地図や資料類は佐伯米子Click!の死後、「制作メモ」Click!などとともに遺族の手によって整理され、佐伯アトリエClick!の庭先で焚き火にくべられてしまったのかもしれないのだが・・・。
 さて、さっそく最勝寺を訪問して住職に取材をさせていただこう。現在のご住職は戦後生まれの方で、戦前の最勝寺の姿をまったくご存じなかった。また、寺に保存されていた資料や写真類は、1945年(昭和20)5月25日夜半の空襲ですべてが灰になったということで、戦前の堂の姿さえ確認することが不可能だそうだ。ましてや、大正期から1935年(昭和10)の火災時までの伽藍の姿は、残念ながらいっさいが不明とのお答えだった。それまでに、誰か外部の方が撮影をして保存していれば別だが、そのような話は聞いたことがないという。
 1936年(昭和11)の空中写真を見ると、現在の大師堂とほぼ同じ位置に、やや小さめの堂らしき建物がようやく確認できる。これは、1941年(昭和16)に南側から撮影された、斜めフカンの空中写真でも同様なのだが、いずれも1935年(昭和10)の火災のあとで再興された伽藍の姿なのだろう。空襲後の1947年(昭和22)の空中写真には、明らかに小堂が建っていたと思われる痕跡を確認できる。なお、1932年(昭和7)に出版された『落合町誌』には、すでに大師堂の記述があるので、おそらくこの堂が1935年(昭和10)の火災まで存在していた建物のことだろう。
最勝寺山門1928.jpg
最勝寺1941.jpg 最勝寺1947.jpg
  
 最勝寺  上落合七八七番地
 高天山大徳院と号す、真言宗豊山派に属し、本尊阿弥陀如来を安置す。開基は詳でないが旧時中井御霊社、下落合富士稲荷社の別当寺、府内八十八ヶ所第二十四番の札所である。寺内に大師堂がある、元新宿三光院に建てしものを明治初年こゝに遷したものである、院内の高野槇は稀に見る名木と好事界に謳はれ、当山の寺宝とも云ふべきである。(後略)
  
 『落合町誌』には「大師堂」と書かれているが、「太子堂」とする資料もいくつか散見される。また、内藤新宿にあった三光院の大師堂を、最勝寺の境内へ移築したと記載されているので、移築元の三光院を調べれば資料があるかとも考えたのだが、同院自体が明治初年に廃寺となっている。現在の花園稲荷社境内にあった寺で、もはや確認するすべがどこにもない。
 ちなみに、佐伯祐三の『下落合風景』シリーズClick!で確認すると、「遠望の岡(?)」が最勝寺にもっとも近い画角を描いていることがわかる。正面に「ほてい屋百貨店」(現・伊勢丹)を描いているが、この画角からすると最勝寺の屋根は、右側の画面枠の外側すぐのところに大きく見えていたはずだ。佐伯がもう少し広角で描いてくれれば、屋根の東端が画面に少しは入ったかもしれない。
最勝寺本堂.JPG 最勝寺大師堂2.JPG
遠望の岡?1926頃.jpg 堂(絵馬堂)1926頃.jpg
 現在、『堂(絵馬堂)』はやはり西日本にあるようだが、機会があればぜひ実物を詳細に観賞してみたいものだ。実物の作品画面から得られる情報量は、先の日動画廊で拝見させていただいた『下落合風景(八島さんの前通り)』Click!でも明らかなように、写真よりも圧倒的に多いからだ。所有されている方はぜひ、次に予定されている佐伯展への出品を検討していただきたいものだ。

◆写真上:落合地域では最大の寺である、上落合の最勝寺に建立された戦後の大師堂。
◆写真中上は、1930年(昭和5)に作成された1/10,000地形図にみる最勝寺。本堂の南側には、現在と同じ位置に大師堂と思われる建物が採取されている。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる最勝寺。同じ位置に、大師堂と思われる小屋根が見てとれる。
◆写真中下は、1928年(昭和3)に撮影された最勝寺山門で「落合よろず写真館」(コミュニティおちあいあれこれ/2003年)より。下左は、1941年(昭和16)に南斜めフカンから撮影された最勝寺。1936年(昭和11)の空中写真ともども、1935年(昭和10)に起きた火災以降の撮影のため新しい建物群だろう。下右は、空襲後の1947年(昭和22)に撮影された焼け跡の最勝寺。
◆写真下は、現在の最勝寺本堂()と南側に位置する大師堂()。下左は、1926年(大正15)ごろに制作された佐伯祐三「遠望の岡(?)」(部分)の画角から推定する最勝寺の眺望位置。下右は、同じく1926年(大正15)ごろに描かれた佐伯祐三「堂(絵馬堂)」。


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