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わたしが、加藤嘉と同じぐらい好きな俳優に中村伸郎がいる。文学座を、杉村春子Click!らとともに起ち上げた中心人物なのだが、のちに脱退して「日本浪漫派」に近い舞台で活躍していた。わたしは晩年のひとり芝居を、残念ながら観そこなっている。どのような役柄でも、抜群のリアリティと存在感を発揮する中村の芝居は、映画やTVでひっぱりだこだったように思う。中村伸郎は、もともと俳優ではなく画家をめざしていた。
中村伸郎は大正末、のちに人形劇団「プーク」結成の基盤となる人形劇を上演している。この劇団「プーク」の近い位置にいたのが、三岸好太郎Click!の親友だった久保守だ。三岸好太郎は、人形劇団「プーク」のメンバーたちともサロン的な交流を通じて親しかっただろう。つまり、中村伸郎と三岸好太郎は顔見知りであり、同劇団のメンバーには作曲家・吉田隆子Click!が参加していた…という経緯だ。ここで三岸と吉田は知り合い、すぐに恋愛関係になる。のちに、吉田隆子は久保守の兄・久保栄と結婚をすることになるが、中村伸郎もまた、築地小劇場で仕事をする久保栄とは親しかっただろう。
戦後、久保栄と吉田隆子の家に入門してきた人物に、中野重治Click!の文章へ共鳴した歌人・村上一郎がいた。村上一郎も中村伸郎と同様に、なぜか「日本浪漫派」臭のする方向へと傾斜していくが、1975年(昭和50)に吉祥寺の自宅で頸動脈を切断し、吉本隆明の弔辞いわく「死ねば死にきり」(高村光太郎)の自刃をして果て「風」(墓誌銘)となった。このあたり、書きはじめると長くなりそうなので、このへんで…。
三岸好太郎と中村伸郎の接点について、1993年(平成5)に北海道立三岸好太郎美術館Click!刊行の『線画のシンフォニー 三岸好太郎の<オーケストラ>』から引用しよう。
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昭和初期、東京郊外の東中野にミモザという料理店があった。月に1回ほど、その店に若い画家や音楽家らが集まり、食事や歓談に興じる会が開かれたという。当時川端画学校で絵画を学び、のちに俳優に転じた中村伸郎(略)が会の世話をしていたようであるが、誰がリーダーということもなく和気あいあいとした集まりであったらしい。おそらく東京美術学校で絵画や音楽を学ぶ者たちの交流から始まり、さらに彼らの知人を含めたものとなっていったのであろう。ここに集まった若者たちの中には、中村のほか、画家では三岸、久保守(略)、小寺丙午郎(中村の兄、久保守と東京美術学校で同級)、川崎福三郎(略)、山田正(略)、岡部文之助(略)らがおり、後に多くのモニュメント制作で知られる札幌出身の彫刻家・本郷新も姿を見せた。音楽家では声楽の奥田良三(略)、四家文子、ピアノの園田清秀(略)、チェロの小沢弘らがいた。
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この文章に添えられた、久保守の渡欧送別会をとらえた1930年(昭和5)2月の記念写真には、三岸好太郎とともに中村伸郎の姿が見える。東中野にあったレストラン「ミモザ」の集いへ、三岸と同郷である多くの北海道出身者が参加していたのも興味深い。ちなみに、昭和初期に作成された「大日本職業別明細図」で東中野駅の周辺を調べてみたが、上落合や角筈も含め「ミモザ」という料理屋は発見できなかった。
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人形劇団「プーク」の音楽部員として参加していた、吉田隆子の側から見ると、当時の様子はこのように映っている。2011年(平成23)に教育史料出版会から刊行された、辻浩美『作曲家・吉田隆子 書いて、恋して、闊歩して』から当該部分を引用しよう。
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アテネ・フランセで広がった交友関係は、やがて人形劇団プークへと繋がっていく。隆子の音楽家としての第一歩は、人形劇団の音楽部員から始まった。/隆子は、まず1929年(昭和4)に結成された人形劇サークル「ラ・クルーボ」に参加し、次々に新しい刺激を得ることができた。「ラ・クルーボ」は美術、文学、国際語エスペラントを含む語学、自然科学、社会科学などを学ぶ青年たちによる人形劇サークルで、隆子はここで『はだかの王様』の音楽を担当している。そのころに撮ったと思われる1枚の写真には、隆子を含めて10人のメンバーが写っているが、楽しげに肩を組みながら、誰もがみんな生き生きと輝いて見える。その中には、許嫁であった鳥山榛名や、のちに結婚生活を送ることになった高山貞章(略)の姿もある。/その後、人形劇団プークの創立メンバー18人の一人として、1936年(昭和11)まで人形劇の作曲に携わった。
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画家志望の中村伸郎と、当時は春陽会で活躍していた三岸好太郎の接点は、「ミモザ」会ないしは「プーク」を媒介に、ほんの一瞬(数年)の出来事だったと思われるが、ふたりはなんら影響を受けることなく、再びまったく別々の軌跡を描いて離れていったのだろう。同じく、三岸と吉田隆子との恋愛もほんのつかの間だったが、隆子は三岸好太郎の制作活動に少なからぬ影響を与えている。同性あるいは異性のちがいに関係なく、表現者同士がほんの短い間でも触れ合った場合、ときに爆発的な“化学反応”を見せることがあるけれど、三岸好太郎の場合は後者のケースだった。そのころの情景を、今度は1999年(平成11)に文藝春秋から出版された、吉武輝子『炎の画家 三岸節子』から引用しよう。
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好太郎が吉田隆子と出会ったのは一九三二年。当時隆子の婚約者であり、人形劇団プークの創立者(創立一九二九年)であった鳥山榛名が、開成中学の同期生の俳優の中村伸郎などと音楽、演劇、美術関係に携わる若手たちの集まる文化サークル、というよりはサロンのようなものを作っていた。久保守に連れられて、このサロンの常連の一人に好太郎もなったが、音楽家の卵であった隆子も参加するようになった。/はじめて顔を合わせた好太郎と隆子は、激しい恋に落ちたのである。
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中村伸郎というと、小津安二郎Click!の『秋刀魚の味』Click!や『東京暮色』Click!、あるいは山本薩夫の『白い巨塔』や『華麗なる一族』などでの演技が強烈な印象に残っている。特に小津安二郎は、文学座の俳優を好んで出演させており、杉村春子とともに中村伸郎は画面に欠くことのできないバイプレーヤーだったのだろう。
中村伸郎は1980年(昭和55)前後、向田邦子Click!のNHKドラマ『虞美人草』への出演が決定していたにもかかわらず、向田の事故死で制作が中止になってしまったのは、なんとも惜しいことだ。もし、そのまま制作されていたとしたら、彼の代表作のひとつになっていたかもしれない。ただし、向田邦子が脚本家として参加していた『だいこんの花』(1970年)に、中村伸郎は歯科医師として一度登場している。もっとも、その回は向田邦子の作ではなく、松木ひろしが脚本を担当していたようなのだが…。
余談だけれど、人が生きている流れの中で、たった一瞬触れ合っただけなのにもかかわらず、忘れられない大きな仕事を残すケースをたまに見る。三岸好太郎における吉田隆子もその好例だが、向田邦子と松本清張もまた、同じような仕事を残している。1960年(昭和35)に松本清張は短編『駅路』(文藝春秋)を書き、1977年(昭和52)に向田邦子はたった一度だけ清張作品の脚本を手がけ、ドラマ『最後の自画像(駅路)』(NHK)を仕上げた。同作は、向田が生存中にNHKで放映され、わたしも学生時代に観ているが、32年後の2009年(平成22)にも向田脚本でフジテレビが制作している。
清張のプロットは尊重しているが、繰り広げられる人間ドラマは向田の手によって、原作とはまったく別モノの優れた作品に改編されている。向田は清張本人をドラマへ引っぱりだし、原作にはない認知症の進んだ「雑貨商小松屋」主人として登場させた。「小松屋」清張が怒らなかったところをみると、向田の脚本に舌を巻いたものだろうか。2009年に放映されたドラマの冒頭には、「人は人と出会う一瞬にそれぞれの人生が交差し、輝きを放つようです」というナレーションが挿入されていた。そういえば、『最後の自画像』はゴーギャンがテーマであり、くしくも絵画がらみの作品なのが面白い。
向田邦子は、特に春陽会Click!に属していた画家たちが好みだったらしく、岸田劉生Click!の作品を欲しがったが高価でとても手が出ず、中川一政の作品を部屋へ架けていたのは有名だ。のちに向田作品の装丁を、中川本人も手がけている。彼女が、三岸好太郎について触れている文章をわたしは知らないが、目にしていたことはまちがいないだろう。
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中村伸郎と向田邦子が、「虞美人草」で一瞬でも交差していたとすれば、どのような姿を見せてくれたのだろうか? 「日常生活の中にこそ、きらりと光る珠玉の人生がある」は、向田邦子の至言だけれど、もう少し生きていてくれれば、いままで見たことがないような中村伸郎の「きらり」演技が見られたかもしれないと思うと、いまでも残念だ。
◆写真上:中村伸郎が通い、佐伯祐三Click!や山田新一Click!も通った小石川下富坂町の川端画学校は、戦時中に解散して現存しないが、満谷国四郎Click!や吉田博Click!、中村不折Click!らが設立し中村彝Click!や小島善太郎Click!も通った太平洋画会研究所(現・太平洋美術会研究所)は、いまも谷中で健在だ。
◆写真中上:上左は、『線画のシンフォニー 三岸好太郎の<オーケストラ>』に掲載されている1930年(昭和5)に開かれた久保守送別会の記念写真。上右は、辻浩美『作曲家・吉田隆子 書いて、恋して、闊歩して』に掲載された人形劇団「プーク」の吉田隆子と中村伸郎。下左は、1993年(平成5)刊行の『線画のシンフォニー 三岸好太郎の<オーケストラ>』(北海道立三岸好太郎美術館)。下右は、2011年(平成23)に出版された辻浩美『作曲家・吉田隆子 書いて、恋して、闊歩して』(教育史料出版会)。
◆写真中下:左は、小津安二郎『秋刀魚の味』(1962年)の中村伸郎。右は、NET(現・テレビ朝日)のドラマ『だいこんの花』(1970年)に出演した中村伸郎。
◆写真下:松本清張(左)と、父親が何度も下落合を訪れてClick!いる向田邦子(右)。