1925年(大正14)6月、パリ郊外のリュ・ドゥ・シャトー13番地に借りていた佐伯祐三Click!のアトリエで、米子夫人Click!の手料理による前田寛治Click!の帰国送別会が開かれた。前田は、同年8月下旬に神戸へ着くと、故郷の鳥取県東伯郡中北条村の実家へもどっている。自宅で20日間ほどすごし、地元の友人たちや世話になった人たちへの挨拶まわりをしたあと、帝展へ滞欧作を出品するために9月14日には東京へ向けて出発した。
もちろん、東京にアトリエがわりの拠点などないので、東京美術学校の同級生だった片岡銀蔵の家に転がりこんでいる。目白通りのすぐ北側、北豊島郡長崎村1725番地だった。ちなみに、この地番から西へ200mほどのところには草土社の河野通勢Click!が住んでおり、岸田劉生Click!も何度か訪れている。この片岡宅への寄宿をふりだしに、前田寛治は長崎地域あるいは下落合を転々とする生活がはじまる。それは、1928年(昭和3)3月15日のいわゆる「3・15事件」Click!に関連し、高田警察署(現・目白警察署)に拘束され、同年7月に杉並町天沼287番地に「前田写実研究所」Click!を開設するまでつづいている。
長崎村1725番地の片岡宅から、前田寛治は第6回帝展へ2点応募し『J.C嬢の像』が入選している。その後、前田は特選にも選ばれているが、帝展の藤島武二Click!や満谷国四郎Click!など長老の画家たちが彼に目をかけていたからだ。帝展の主流である中堅画家たちは、前田の作品に対してはおしなべて冷淡だったようなのだが、長老たちが新人の前田を庇護したのには理由がある。当たりさわりのない表現で作品をそつなく出品する中堅画家たちに、長老たちが帝展のゆく末を危惧し、画家たちはもちろん美術ファンの帝展離れに危機感を抱いていたからだといわれている。
ファンの多かった中村彝Click!は、すでに前年1924年(大正13)12月に没し、美術界における帝展の存在感はますます希薄化しつつあった。それは、二科展や春陽会展へ画家たちが作品を寄せる応募点数Click!と、帝展のそれとを比較しても歴然としていた。帝展の空洞化とジリ貧状態は、誰の目にも明らかになっていた。だから、久しぶりに現れた才能のある前田寛治に注目し、長老たちは積極的に彼を庇護した…というのが今日的な見方だ。前田は、1930年(昭和5)4月に天沼で死去するまで帝展に出品しつづけている。
翌1926年(大正15)1月、前田寛治は二科の友人だった田口省吾Click!の口ききで片岡宅の近く、長崎村1838番地へ家を借りて転居している。また、近所には田口が住み、パリでいっしょだった下落合661番地の佐伯祐三アトリエClick!や、美校で同級生の深沢省三Click!宅にも近かった。でも、前田はこの家にわずか2ヶ月しか住んでいない。同年3月には、同借家のすぐ近くの長崎村1841番地へと引っ越した。このころから、前田は本郷区湯島4丁目20番地にあった「湯島自由画室」を訪ねるようになる。
「湯島自由画室」は、沼沢忠雄が日本画家用に建てたアトリエだったが、すぐに洋画自由研究所へと衣替えし多くの画家たちを集めていた。前田と沼沢はパリで知り合っており、それが縁で訪ねたのだろう。同画室に出入りした画家には、伊藤廉Click!や木下孝則Click!、鈴木千久馬Click!、野口彌太郎Click!、林重義Click!、林武Click!などの顔が見える。
長崎村1841番地の借家は、わずか1ヶ月という短さだった。同年4月、次に借りたのが落合町下落合4丁目1560番地だった。ここで少し落ち着いたのか、前田はこの家から同年5月に開催された1930年協会第1回展(5月15日~24日)へ、滞欧作を中心に40点の作品を出品している。里見勝蔵も京都から東京へ出てきて、1977年(昭和52)に出版された瀧悌三『前田寛治』(日動出版)によれば、「佐伯の家あたりに泊っていたようだ」としている。この里見の滞在先は、美校の恩師だった下落合630番地の森田亀之助邸Click!か、ないしは森田邸の隣りにあった同地番の借家、すなわち佐伯祐三の『下落合風景』Click!の1作「森たさんのトナリ」Click!だった可能性が高い。
このころ前田寛治は、大塩千代子ともうひとりの女弟子を2人とり、下落合4丁目1560番地の家で教授している。前田の女弟子は、1930年協会第1回展の打ち上げパーティで「船頭可愛や」を唄ったという逸話が残っている。ちなみに、当時の下落合には1932年(昭和7)に淀橋区が成立するまで、公式記録には「丁目」は存在しないことになっているが、落合町が成立する1924年(大正13)から地元の地図には丁目がふられているのを確認できる。また、前田寛治も1930年協会第1回展の資料に「下落合四-一五六〇」Click!と自ら記載しているので、当時の下落合の住民が住所表記に「丁目」を用いていたのは明らかだ。大正末から昭和初期にかけての、地元の地図や資料類から下落合1丁目~4丁目までが、すでに存在していたことがわかる。
しかし、下落合4丁目1560番地の家も4ヶ月しか住まなかった。1926年(大正15)8月になると、前田寛治は湯島4丁目20番地の「湯島自由画室」へ転居し、そこを「前田写実研究部」としてオープンしている。所有者だった沼沢忠雄には、以前から相談して話がまとまっていたらしい。そのときの様子を、前掲の瀧悌三『前田寛治』から引用しよう。
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そこは木造平屋。湯島五丁目市電停留所から北へ一丁半の所に在る。入口に「湯島自由画室」の縦書きの標札が下がる。押せば左右に開く扉があり、通ってすぐ傍が石膏像並べたクロッキー、デッサン室、なお真っ直ぐ行って突き当りが広い板敷きの、窓を大きく取ったアトリエ、画架を並べ、裸体のモデルを置いて彩筆を揮う油絵実技用の大部屋である。このアトリエに板戸の仕切りで接し、一段高い位置に和室八畳間がある。寛治が寝泊りしたのはその和室だ。
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だが、ここに住むのも2ヶ月ときわめて短い期間だった。前田寛治は同年10月、再び下落合へともどってくる。今度は、下落合661番地すなわち佐伯祐三宅に寄宿して仕事をつづけている。この時点で、下落合661番地の佐伯祐三と前田寛治、100mほど東に寄った下落合630番地に拠点をかまえようとしていた里見勝蔵の3人が、密接に集合することになる。ちなみに、佐伯アトリエから南南西600mのところには、1930年協会のブレーンだった外山卯三郎Click!が、下落合1147番地の実家にアトリエをかまえていた。
前田寛治が佐伯の家に寄宿していたこの間、佐伯アトリエを頻繁に訪ねていた曾宮一念Click!は、前田とも顔なじみになったと思われる。また、前田が佐伯アトリエに滞在した期間というのは、まさに佐伯が『下落合風景』シリーズをスタートさせたばかりの時期と重なっている。前田は、同年10月から12月までの約2ヶ月間を佐伯邸ですごしているので、佐伯の仕事を傍らでじっくり観察していただろう。佐伯祐三から、連作『下落合風景』に取り組む制作意図もつれづれ聞いていたにちがいなく、前田の早逝で下落合の佐伯について、多くの証言が語られずじまいだったのが残念だ。
1926年(大正15)12月、前田寛治は佐伯邸から長崎町大和田1942番地に引っ越している。その家の表札には、「前田寛治」とともに「福本和夫」の名前が架けられているのを、同家を訪問した1930年協会の木下謙義が確認している。同じ鳥取出身の福本和夫は、日本共産党で少数のインテリゲンチャによる前衛党の確立を掲げた福本イズムの中心人物であり、前田とは留学先のパリで親しくなっていた。福本は同家に住んではいないので、連絡先またはアジトのひとつに前田宅を利用していたのだろう。この時期、共産党の内部では福本イズムが席巻した時代だった。
前田は、再び長崎地域へともどったわけだが、12月中旬には同郷で縁つづきの杉山あい子と鳥取で結婚式を挙げている。新婚夫婦の新居ともなった長崎町大和田1942番地の家には、このあと1928年(昭和3)7月に杉並町天沼287番地へ引っ越すまで、めずらしく1年半にわたって住みつづけている。長崎から天沼への転居は、同年に共産党員が一斉検挙された「3・15事件」に関連し、高田警察署(現・目白警察署)で福本和夫のゆくえを特高警察Click!から執拗に詰問され、さんざん拷問をうけた直後のことだ。福本は「3・15事件」の直後、長崎の前田宅へ数日にわたり潜伏していたといわれている。前田は結婚してから二度、特高警察に検束されている。
余談だけれど、前田寛治とあき子夫人が暮らした長崎町大和田1942番地の家は、翌1929年(昭和4)に丸の内の三菱赤レンガビル街にあった仲通14号-3のビルディング半地下Click!から移転し、長崎町大和田1983番地にオープンする造形美術研究所Click!(のちプロレタリア美術研究所Click!)から、わずか東へ150mほどしか離れていない。前田が利用した銭湯も、同研究所に隣接した長崎町大和田1982番地の「日ノ出湯」だったにちがいない。ちなみに、前田寛治が乗降していた最寄り駅は、いずれの住居でも山手線・目白駅Click!だったと思われるが、ときに武蔵野鉄道Click!の開業したてだった椎名町駅も利用したかもしれない。西武電鉄Click!は1927年(昭和2)からの営業で、しかも下落合駅Click!は現在の位置より300m東にあり、どの住居からも利用しづらかったろう。
1928年(昭和3)7月、前田が杉並町天沼287番地に設立した「前田写実研究所」の建物は、湯島にあった「湯島自由画室」のアトリエ建築を移築したものであることが、瀧悌三の前掲書で指摘されている。湯島の画室写真が今日まで伝わっているとすれば、それが天沼287番地に建っていた「前田写実研究所」の姿と二重写しになるのだろう。
◆写真上:前田寛治が住んでいた、旧・下落合4丁目1560番地界隈の様子。
◆写真中上:上は、1926年(大正15)作成の「長崎町東部事情明細図」にみる前田寛治の旧居跡。下左は、1925年(大正14)にフランスで制作された前田寛治『ムードンの丘』。下右は、1926年(大正15)に撮影された1930年協会結成時の前田寛治。
◆写真中下:上は、長崎および下落合における前田寛治の転居ルート。下は、1926年(大正15)の秋から冬にかけて滞在した下落合661番地の佐伯祐三邸(解体前)。
◆写真下:上左は、1926年(大正15)作成の「長崎町東部事情明細図」にみる長崎町大和田1942番地。上右は、同番地の現状(道路左手)。下は、1928年(昭和3)3月19日に小島善太郎Click!から前田寛治へ宛てたハガキ。「長谷川利行君が金に困りぬいてゐる」ではじまる文面は、前田寛治から長谷川利行Click!へ25円を立て替えて送ってくれるよう依願している。(八王子美術館の2013年「前田寛治と小島善太郎」展図録より)