先日、古書店で「目白文化村絵はがき」Click!の別バージョンを見つけたので購入した。おそらく、1923年(大正12)に制作しDMに活用された、前谷戸Click!をはさみ第一文化村Click!の家並みを北西側から撮影した、もっとも知られているデザインの絵はがきClick!よりも、古い時期に撮影されたものだ。
第一文化村の家並みを撮影し、人着(人工着色)をほどこした既知の有名な絵はがきは、前谷戸の東半分を埋め立てる少し前に撮影されたと思われ、いまだ前谷戸の谷間が文化村倶楽部の前まで口を開けているのが見てとれる。新宿歴史博物館に残る同絵はがきの消印を見ると、1923年(大正12)4月10日に郵送されたものであり、翌1924年(大正13)6月には前谷戸の埋め立てを完了Click!し、大谷石の石板(共同溝の蓋板か縁石用だろう)を搬入して、新たな敷地の造成工事に入っているのは写真からも明らかだ。
さて、新たに見つかった絵はがきは、写真の説明に「目白文化村の一部」というキャプションが入れられている。写っているのは、こちらのサイトをお読みの方ならすぐにおわかりかと思うが、1922年(大正11)の秋ごろに竣工した第一文化村の神谷卓男邸だ。面積が300坪と、第一文化村ではもっとも広い敷地の上に、当時流行していたF.L.ライト風Click!の大きな邸を建設したものだ。しかも、この絵はがきは当時の新聞記事にも流用されており、1923年(大正12)7月15日発行の読売新聞が連載していた「市を取巻く町と村(14)」Click!へ、目白文化村の風景として掲載されている。
これにより、ふたつのことが新たに判明した。ひとつは、当時の読売新聞はカメラマンを目白文化村へ実際に派遣し、文化村の最新風景をリアルタイムで撮影しているのではなく、箱根土地Click!が撮影済みだったスチール写真、またはすでに制作していた既存の絵はがき「目白文化村の一部」を借用し、それを新聞記事に転載しているということ、したがって先の記事に付随した写真は、1923年(大正12)7月現在の文化村風景ではないということだ。もうひとつ判明したのは、神谷邸の前にあっためずらしい電信柱(電話ケーブル用の支柱)の設置時期だ。目白文化村では、上下水道と電燈線は地下の共同溝に埋設されているので、当初、街中には基本的に電柱が存在していない。のちに村内へ建てられた電柱は、大正末から急速に普及した白木の電信柱だ。
新たに発見した絵はがき「目白文化村の一部」には、神谷邸の前に電話ケーブル用の電柱がいまだ設置されていない。ところが、いままで知られていた新宿歴博にも収蔵されている目白文化村絵はがきには、神谷邸の東並びにすでに白木の電信柱が建っているのが見てとれる。神谷邸の2階屋根に隠れて見えないが、おそらく同邸の東ウィングの前にも、すでに電信柱が設置されているのだろう。したがって、第一文化村に電話線が引かれ電信柱が建てられたのは、神谷邸が竣工した1922年(大正11)の秋ではなく、同年暮れから翌1923年(大正12)の早春までの間、つまり1923年(大正12)4月には印刷済みだった、目白文化村絵はがきの撮影時期までの間……ということになる。
わたしは、絵はがき「目白文化村の一部」に使われている写真は、1922年(大正11)の秋から初冬ごろ、神谷邸とその東隣りの箱根土地モデルハウスが完成した直後の姿をとらえたものだと考えている。神谷邸の庭に見える生垣や樹木は、まさに植えられたばかりの風情であり、箱根土地のモデルハウスもできたてのように見える。窓がすべて開け放たれているのは、竣工後に室内を乾燥させているのだろう。そして、なによりも神谷邸の南ウィングが、いまだ建設されていない点に留意したい。右手に写るモデルハウスは、1924年(大正13)7月以降に解体され、おそらく第二文化村の帝展画家・宮本恒平邸Click!のある区画の南端、のちに農商務省技師だった横屋潤邸が建つ敷地へ移築されているのかもしれない。
ただし、絵はがき「目白文化村の一部」自体が印刷されたのは、神谷邸が竣工した1923年(大正11)のうちではなく、裏面のコピー表現(「昨夏」とある)から推測すれば、翌1923年(大正12)の早い時期ではないかと思われる。ひょっとすると、新宿歴博収蔵の目白文化村絵はがきと、同時期に印刷されている可能性もあるだろう。
第一文化村の箱根土地建築部によるモデルハウスがあった位置は、一家でテニス好きな安食勇邸Click!(のち会津八一の文化村秋艸堂Click!)と海軍少佐の桑原虎雄邸、さらに「自由学院」(ママ:箱根土地の誤記で自由学園Click!)教授の熊本謙三郎邸の、3つの敷地にまたがって建てられていた。したがって、その解体(および移築?)は大正末にいずれかの敷地へ、土地の所有者による住宅の建設計画がもち上がったことによるのだろう。わたしは、1925年(大正14)の夏にはすでに建設されていたのを写真で確認Click!できることから、安食邸の建築計画がこの時期、具体化してきたのではないかと思う。
さて、絵はがき「目白文化村の一部」にもどろう。神谷邸の南隣り、すなわち画面左側の空き地は、のちに箱根遊船株式会社の社長・川島奥右衛門邸が建つ予定の敷地であり、二間道路をはさんだ向かい、画面右側の空き地は遠藤豊子邸の建設予定地だ。しかし、遠藤邸の敷地はなかなか住宅が建設されず、空き地の状態がしばらくつづいていたようだ。ひょっとすると、1923年(大正11)の夏に第一文化村が売り出された際、土地だけ購入して値上がりを待つ不在地主Click!なのかもしれない。二間道路脇に見えている、大谷石製の石板でフタをした側溝は下水ではなく、電源ケーブルに上下水道管を埋設した共同溝だ。
絵はがき「目白文化村の一部」の裏面コピーも、既存の目白文化村絵はがきの文章とはまったく異なっている。以下、より販促色が濃い全文を引用してみよう。
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新緑の風薫る目白文化村は昨夏本社が趣味と健康とを基調として建設致候ものにて直に分譲済と相成申候、今回これが隣地約壱万五千坪を拡張し更に水道電熱装置(台所用及暖房用)倶楽部テニスコート相撲柔道々場等を新設し分譲致候 御散策労経営地御覧下され度く御希望の方は至急御申込相成度候
要 項
位置 山手線目白駅ヨリ府道ヲ西ヘ約十丁目白駅ヨリ文化村迄乗合自動車アリ市内電車予定線停留所ヨリ南ヘ約二丁
環境 山ノ手ノ高台、西ニ富士ヲ眺メ展望開豁(かいかつ)学校ハ新築落合小学校約二丁、目白中学学習院成蹊学園等十四五丁内外、周囲ニ百五十戸ノ府営住宅アリ日用品ノ購入至便
設備 水道、瓦斯、電熱装置下水、道路(幹線三間枝線二間)倶楽部、テニスコート、相撲柔道ノ道場
価格 壱坪五拾円ヨリ六拾五円マデ、五拾坪ヨリ数百坪ニ分譲ス
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既知の目白文化村絵はがきのコピーが、どこか文学的で散文調だったのに対し、絵はがき「目白文化村の一部」のコピーは文語調でかたく、第二文化村の売地価格までが記載されるなど、全体的に事務的な広告文に徹した印象をうける。この中で、あらかじめ台所や暖房の電熱装置を箱根土地がサービスしているのは、設備に「瓦斯」と書いてあるにもかかわらず、ガス管の敷設が大幅に遅れていたからだ。
同絵はがきのあて先は、「府下大井町五六二」のS・U殿となっており、消印はかすれて読みとれないが「早」の字と「5.22」の数字が見えている。おそらく、既知の目白文化村絵はがき(大正12年4月20日の消印)と同様に早稲田局でスタンプが押され、翌月の5月22日に投函されているのではないかと思われる。箱根土地の顧客DMを扱う専門業者が、早稲田界隈に開業していたことをうかがわせる。
また、この絵はがきを印刷したのが、裏面のキャプションから合資会社・日本美術写真印刷所であることもわかる。同社は大正期から昭和期にかけ、さまざまな絵はがきや図録類を制作していたことで広く知られていた。当時の美術展覧会で販売された絵はがき類や図録も、「日本美術写真印刷所印行」と挿入されたものを数多く見かける。
さて、目白文化村の絵はがきは、この2種類だけだったのだろうか? これらの絵はがきが1923年(大正12)の春に作成され、見込み顧客あてに郵送されているとすれば、少なくとも当時の第一文化村にはかなりの家々が建ち並んでいたはずであり、またレンガ造りで竣工したばかりの箱根土地本社社屋Click!や、神谷邸と同じようなライト風のシャレた文化村倶楽部も、撮影モチーフとしては最適だったのではないかと思われる。日本美術写真印刷が、絵はがきセットの制作を得意としていたことを考えあわせると、目白文化村の絵はがきセットが存在していてもなんら不思議ではない。この2種のほかにも、目白文化村の絵はがきを見かけた方がおられれば、ご一報いただければと思う。
◆写真上:1923年(大正12)5月22日に、早稲田郵便局で投函された箱根土地の絵はがき「目白文化村の一部」。印刷は同年春とみられるが、神谷邸の撮影は前年と思われる。
◆写真中上:上は、既知の文化村絵はがきで1923年(大正12)4月20日に早稲田郵便局へ投函されたもの。(新宿歴史博物館蔵) 中央に箱根土地のモデルハウスが写り、その向こう側に白木の電信柱、モデルハウスの右手には神谷邸がとらえられている。下左は、神谷邸のライト風の門をとらえた写真。おそらく1922年(大正11)中の撮影で、神谷邸の南ウィングがいまだ建設されていない。下右は、大正末ごろに撮影された神谷邸で東ウィングの前に電信柱が設置されている。
◆写真中下:上は、1924年7月撮影の第一文化村。前谷戸東側の埋め立てが完了し、まさに造成工事がスタートしている。画面右端には、いまだ箱根土地のモデルハウスが見える。中左は、大正末の撮影とみられる神谷邸。中右は、1938年(昭和13)の火保図にみる絵はがき「目白文化村の一部」の撮影位置。下左は、1925年(大正14)8月撮影の第一文化村。突き当りが神谷邸だが、すでに手前には建設された安食邸の屋根が見える。下右は、1925年(大正14)に完成した安食邸(のち会津八一の文化村秋艸堂)。
◆写真下:上は、絵はがき「目白文化村の一部」の裏面コピー。下左は、不動園(箱根土地本社庭園)に面して建っていた文化村倶楽部。下右は、レンガ造りの箱根土地本社。
★参考情報(2014年3月撮影)
◆追加写真:上左は、解体されてしまった神谷邸のライト風の門。右手が旧・安食邸(会津邸=文化村秋艸堂)。上右は、第一文化村の現状。中左は、前谷戸の谷底から北側を眺めたところ。右側の擁壁の高さで、谷の深さを推定することができる。中右は、家の建て替えで久しぶりに姿を見せた前谷戸の埋め立て土面で、左手の奥が箱根土地の本社跡。下左は、第二文化村で健在の石橋邸。下右は、すっかり解体されてしまった嶺田邸跡で6戸の住宅が建設予定となっている。
★おまけ情報
昨年(2013年)に放送されたドラマ『ガリレオ』(フジテレビ)では、下落合のあちこちで殺人事件が起きていて、東京でいちばん危ない街になっていたようだ。左は、第二文化村にある石橋湛山邸の殺人現場。右は、蕗谷虹児アトリエ跡の殺人現場。ww