全日本無産者芸術連盟(ナップClick!)が出していた機関誌、1928年(昭和3)の機関誌「戦旗」12月号がめずらしく古本屋で売っていたので、つい購入してしまった。この号は小林多喜二Click!『一九二八年三月一五日』をはじめ、柳瀬正夢Click!の作品を題材に『プロレタリアポスターの作り方』、さらに蔵原惟人Click!訳のマーツァ『プロレタリア文学への道』が掲載されている“古雑誌マニア”垂涎の号だ。でも、わたしの興味はそこではない。槇本楠郎が書いた、『文化村を襲った子供』が掲載されているからだ。
前々から読みたいと思っていた『文化村を襲った子供』なのだが、プロレタリア文学全集にも、またプロレタリア児童文学集にも収録されていなかった。槇原楠郎の作品を集めた本にも収録されてはいない。『日本児童文学大系』(ほるぷ出版)には採取されているが、同書はなかなか出あえる機会がなかった。それが、運よく“原典”にめぐりあえたわけだ。小林多喜二が虐殺される4年3ヶ月前の『戦旗』で、この時期のナップ本部は淀橋町角筈86番地にあり、まだ上落合460番地Click!へ引っ越してきてはいない。ただし、ナップの出版部は中井駅から徒歩1分、寺斉橋をわたってすぐ東側にあたる上落合689番地に置かれており、『戦旗』12月号はそこで編集されていた。
さて、『文化村を襲った子供』を読んでみたのだが、出来がいいとは思えなかった。ふだんは、鉄道線路沿いの広大な原っぱで戦争ごっこをして遊んでいる、職人や職工など「プロレタリアート」の子どもたちなのだが、ある日、線路をたどりながら文化村の丘下にある駅までたどり着く。そこから坂道をのぼって文化村へ侵入し、庭で飼われているイヌに吠えられてみんなで石をぶつけたり、文化村の三間道路と思われる道を騒いでデモンストレーションを繰り返しながら、静寂さを乱して「襲撃」を繰り返す…という内容だ。家々の窓からは、驚いた文化村住民たちが顔を出して子どもたちを見送る。
この文化村とは、どこのことだろう? 当時、『戦旗』に執筆する作家や挿画を描く画家の多くが上落合に住んでいたこと、また上落合689番地の出版部の編集者たちが常に見上げていたのが下落合の丘陵であることを考えあわせると、当然、丘上の文化村とは目白文化村Click!のイメージに直接結びつく。同作から、文化村の記述を引用してみよう。
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白い駅が見え出しました。黄色い幟を立て並べたやうにポプラの木がスクスクと立つてゐます。陽がキンキラと照つてゐます。/その右手になだらかな丘があります。丘の上までキレイな町になつてゐます。キラキラと輝いてゐます。文化村です。/子供たちは思はず立ち止まつて眺めました。/丘の上の町は、色さまざまの小切布を吊したやうな樹木にとり囲まれて、丘全体が吹き寄せられたメリンスの小切物の山か丘のやうです。あつちこつちに赤・青・黄・水色・草葉色・栗色などの色瓦で葺かれた、奇妙な寄木細工のやうな家がキラキラと陽にかがやいてゐます。中には女の洋傘(パラソル)を開いたやうな丸みがかつた赤い屋根、青い屋根、または紙てんまりのやうなだんだら屋根の家もあります。かと思ふとまた黒い男の洋傘を窄めて突つ立てたやうな尖つた屋根、越後獅子の顎のはづれたやうなもの下駄箱の蓋をはね上げたやうに庇の深い屋根もあります。そして町全体がパツとオレンヂ色の秋陽を浴びて浮び上つたやうに輝いてゐるのです。/子供たちは思はず一度にバンザイをとなへました。そして一層先を急いで、われ勝ちにと進んで行きました。どこからかピアノの音が響いて来ました。
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目白文化村に直近の駅は、旧・下落合の丘下にある中井駅だが、駅はベージュ色の外壁にオレンジの屋根で「白い駅」ではない。また、目白文化村の周辺にはニセアカシアの並木はあったけれど、ポプラ並木は聞いたことがない。このあたり、槇本の創作のようにも思えるのだが、子どもたちが戦争ごっこをする丘下の広大な原っぱは、上落合から上高田にかけての「バッケが原」Click!のイメージそのままだ。駅の近くに丘が迫り、中井駅から見て右手の坂道をしばらく上っていくと、丘上には「文化村」が拡がっている(山手通りはいまだ建設されていない)…というシチュエーションは、中井駅や下落合駅を問わず、目白崖線が横切る落合地域のイメージそのものなのだ。
オシャレな西洋館や大きめの家に住んでいるのは、「カネ持ち」であり「ブルジョア」なのだから、子どもは直感的にそれを認識して「階級敵」の臭いをかぎつけ、「襲撃」して石をぶつけたり騒ぎまわって示威行動をする…という視点(槇本楠郎の単純にカテゴライズされた階級観)は、共産主義者はおろか、自由主義的あるいは民主主義的な思想を口にしただけで「アカ」や「非国民」と規定され拘留された戦前・戦中の軍国主義的な、そして怖ろしいほどシンプルかつ浅薄でステレオタイプ化された特高Click!の思想観の“裏焼き”にすぎない。その先にくるのは、「反革命」や「反動」、ときに「トロツキスト」のレッテルを貼りつけてラーゲリへと送りこむスターリニズムの世界だ。
ちなみに、ピアノの音色をブルジョア趣味に象徴させているけれど、ピアノは乃手Click!の習いごとや趣味一般であり、下町に流れる三味Click!(しゃみ)の音色と同様の位置づけであることを、どうやら槇本は知らない。ましてや高級な、あるいは名うての三味一式なら、今日のアントニオ・ストラディバリと同様に、当時の家庭用ピアノよりもはるかに値段が高いことも知らないのだろう。高価な楽器=「ブルジョア趣味」と短絡的に規定するなら、当時の神田や日本橋、尾張町(のち銀座)など下町のほうが、よほど「ブルジョア」になってしまうではないか。
目白文化村あるいはその周辺には、いわゆる子どもたちが(槇本が)規定する本来の意味での「ブルジョアジー=資本家」の住民は案外少なく、学者や文化人、芸術家、官吏、管理職クラスのサラリーマンが数多く住んでいた。また、目白文化村を囲むように建てられた大きめな屋敷である府営住宅Click!は、ほとんどが給料をコツコツためては東京府が運営していた住宅貯金制度を利用し、勤続数十年でようやく一戸建てを手に入れた一般の勤め人だ。眺めのいい丘上に、大きめな屋敷街が拡がっているから「ブルジョア」、または「インテリ」は資本主義やその上に起立した政治体制の走狗なのだから「階級敵」という、単細胞的かつ大雑把なカテゴライズの先にくるのは、中国「文化大革命」の感情や衝動に突き動かされた「紅衛兵」の稚拙な階級観や、権力闘争の果てに荒廃したご都合主義的な権力者の世界観であり、極端化すれば「農村が都市を包囲する」(毛沢東)を、そのまま物理的かつ呵責なく「実践」した、ポル・ポトによるカンボジアの都市住民や高学歴者のジェノサイド(大量虐殺)だろう。そこでは、数多くの都市に住んでいた「プロレタリアート」でさえ生き残れなかった。
余談だが、中国の文革はほぼ全否定されたけれど、その中の推進テーマのひとつだった「洋法と土法の合体(西洋の科学技術と東洋の伝統技術の融合)」のみは、唯一、例外的に成果をあげて根づいた分野だろうか。特に、医学や薬学の分野では日本にも大きな影響を与え、西洋医学と東洋医学の合体、すなわち膨大な経験則の蓄積による治療法をとり入れた「中医学」的な考え方で、一般の病院が化学薬品のみならず漢方薬を扱ったり、リハビリテーションに針やマッサージを治療法に取り入れたりする、現在ではまったくめずらしくなくなった現象は、1960年代に「洋法と土法の合体」を推進した文革による影響だ。また、農業などにおいてもすべてを化学薬品(農薬)に頼らず、家禽を用いて害虫や雑草を駆除する融合手法なども、古くからアジア各地で行われていた手法へ、改めてスポットを当てた文革の効用なのだろう。
さて、あまり出来がいいとは思えない『文化村を襲う子供』なのだが、そのせいか収録される機会も少なくなり、目に触れる機会がなかったのかもしれない。
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第一、杉林の向ふにこんな広い原つぱのある事は夢にも思はぬ事でした。(中略) けれど、もつとおどろいた事は、その広い原つぱの芒(すすき)の中で十五六人の男の子が駈けづり廻つてゐることでした。/よく見ると、それは戦争ごつこです。/吉は唾をのみこんで、突つ立つたまゝぢつと見下しました。/芒の穂は風になびいてゐます。子供たちはその間を見へ隠れして駈けて行きます。みんな棒を一本づつ持つてゐます。
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昭和初期、耕地整理が進む「バッケが原」には、秋になると一面にススキの穂が波打っていただろう。そんな中で子どもたちはふた手に分かれ、棒切れをもちながらチャンバラごっこや戦争ごっこをしていたにちがいない。でも、まかりまちがっても「プロレタリアばんざい!」とか「異議なあし!」とか、さらに「弱虫はブルジョアだぞ!」などとは叫ばなかったにちがいない。同時に収録された、小林多喜二の作品における文章表現や描写力に比べても、本作のリアリティは格段に希薄で文学的な質や思想性の奥行きが、イマイチに感じられてしまうのだ。そして、それが今日では本作をあまり目にする機会がなくなってしまったゆえんなのだろう。
◆写真上:上落合689番地にあった、全日本無産者芸術連盟(ナップ)出版部跡の現状。
◆写真中上:1928年(昭和3)11月に発行された、全日本無産者芸術連盟(ナップ)の機関誌「戦旗」12月号の赤い表紙(左)と目次(右)。
◆写真中下:上は、同誌の奥付でナップ本部は淀橋町角筈86番地、出版部は落合町上落合689番地、また印刷は高田町高田357番地と記載されている。下左は、槇本楠郎『文化村を襲った子供』の扉ページ。下右は、作者の槇本楠郎。
◆写真下:上は、目白文化村だと想定した場合の子どもたちの文化村襲撃ルート。バッケが原から線路沿いに中井駅へ歩き、駅前右手の振り子坂Click!から文化村へと「突入」した。下は、同号掲載の小林多喜二『一九二八年三月十五日』で伏せ字と削除だらけだ。