1955年(昭和30)の4月に、朝日新聞のカメラマンが撮影した1枚の下落合写真が残っている。写っているのは、立っているのが笠原美寿Click!で、しゃがんで庭いじりをしているのが孫娘のどなたかだ。キャプションには、「庭いじりの笠原さんとお孫さん」と添えられている。同じ年の前月、朝日新聞の“ひととき”欄に「七十代の夢」と題する原稿が掲載されてから、朝日新聞社には大きな反響が寄せられた。全国的な反響を受けて、改めての取材記事なのだろう。このあと、笠原美寿は雑誌や新聞の取材を頻繁に受けるようになる。
朝日新聞への投稿は、地域へ老人専用施設の建設を提言する内容だったが、施設のさまざまな用途や催いものの企画などを含め、全国で同様の必要性を感じていた人々に、大きなインパクトを与えたようだ。当時74歳の笠原美寿は、朝日新聞の投稿者の集まりである「草の実会」で、老人問題研究会の特別会員になったのをきっかけに、下落合で「落合木の実婦人会」を結成することになる。その設立趣意書および規約のリーフレットを、当時の新聞記事とともに、笠原美寿の二女・山中典子様よりお送りいただいたのでご紹介したい。
「落合木の実婦人会」の所在地は、新宿区下落合2丁目679番地(現・中落合2丁目)となっており、笠原美寿の自宅、すなわち「八島さんの前通り」Click!または「星野通り」Click!に面した笠原吉太郎Click!のアトリエだった。朝日新聞の記者が訪問する前年、1954年(昭和29)に笠原吉太郎は死去しているが、敗戦後からアトリエは実質使用されていなかった。
空いていたアトリエは、ときどき近くに住むシュルレアレズムの画家・阿部展也(下落合に住んでいたと思われるが住所が不明だ)が、仕事場として借りていたらしい。ちょうど、松下春雄Click!が死去したあとのアトリエClick!を柳瀬正夢Click!が借りていたのと同様のケースだが、阿部展也の場合はアトリエのみを借りており、母屋には笠原一家が住みつづけていた。
1955年(昭和30)4月14日発行の朝日新聞に掲載された、笠原美寿の取材記事から引用してみよう。なお、この記事に添えられているのが、下落合の自宅で撮影された冒頭の写真だ。
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美寿さんのご主人吉太郎氏は昨年二月になくなった。画家の佐伯祐三らと親交があり、ヴラマンク風の画をかいていた。芸術家の妻として八人の子供を育てた三十年間は、お勝手と食堂の往復だけで過ぎた。貧乏暮しをどうしたら明るく便利にできるか、そんな必要の中から、美寿さんはいろいろな「暮しの工夫」をやってきている。衣生活を全部洋服に切りかえたのが大正九年ごろ、まだ婦人服地を売る店などどこにもないころで、横浜の外人相手の店から材料を探してきて、全部自分で仕立てた。メイセンとかお召とか、着物の種類によって子どもたちにひけ目を感じさせたくないという気持からだった。また家族においしいパンを食べさせたいという願いからテンピの改良もやった。それが最近ある工場主の好意で工場生産に乗せられることになり、美寿さんはいまたいへんに忙しい。/「七十代の夢」が、“ひととき”に出てから、美寿さんのもとにも、たくさんの人から便りがとどいた。老人ホームの夢は美寿さん一人の夢ではなくなった。
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写真にとらえられているのは、自宅の東側、谷間に面した庭園の一画だと思われる。カメラは、笠原邸の母屋から東を向いて撮影されており、庭の向こう側には電柱の最上部、変圧器と碍子のついた横木の尖端部分が見えている。すなわち、口を開けた谷間は不動谷(西ノ谷)であり、笠原美寿の背後には国際聖母病院Click!の施設がとらえられている。
右手の建物は、建設当初は「慈善院」および「慈善病院」と呼ばれた施設で、おそらく戦前に医療を満足に受けられない、貧しい人々あるいは老人のために建設された無料医院と医療入院施設、あるいは時代によっては「孤児院」Click!(特に戦時中など)に利用されたとみられる建物だ。フィンデル本館Click!を除き、国際聖母病院ではひときわ大きな建築だった。また、左手に見えているのは聖母ワインを醸造していたワイナリー、または当初は吹きっつぁらしで「シベリア鉄道」と呼ばれた、フィンデル本館からつづく渡り廊下の一部の屋根だと思われる。
笠原邸のある西ノ谷(不動谷Click!)西側の丘上や、国際聖母病院の南側に拡がる丘上、そして諏訪谷Click!をはさんで対岸となる東側の丘上(現・下落合)は、空襲による延焼を奇跡的にまぬがれており、1970年代まで大正期から昭和初期の風情が面影Click!を色濃く残していた一画だ。そのころまで街の風景に大きな変化がなかったため、わたしも実際に目にしており、笠原吉太郎の『下落合風景(小川邸の門)』Click!の描画ポイント特定や、佐伯祐三Click!が諏訪谷を描いた「下落合風景」作品Click!の描画位置などが比較的たやすかったといえる。
朝日の新聞記事をきっかけに、74歳の笠原美寿は90歳で死去するまでの十数年間、「笠原手織会」の会長の仕事も含め、以前にも増して多忙な日々を送ることになる。最後に、彼女がしょっちゅう口にしていた言葉を、笠原豊『笠原美寿の生涯』から引用してみよう。「一日のうち一時間でも二時間でも仕事をしてこそ、生きる喜びがある。これが老後を楽しく暮らす原動力になる」。
◆写真上:1955年(昭和30)4月14日の朝日新聞に掲載された、笠原邸の庭園と笠原美寿。
◆写真中上:上は、1955年(昭和30)3月13日発行の朝日新聞「ひととき」欄に寄稿した笠原美寿「七十代の夢」。中は、下落合で結成された「落合木の実婦人会」の設立趣意書。下左は、下落合の邸横に立つ笠原吉太郎。1920年(大正9)の新築から間もない時期と思われ、笠原邸が下見板張りの外壁(焦げ茶)で白い窓枠の西洋建築だった様子がうかがえる。下右は、女学生姿の星野美寿(笠原美寿)で青山学院時代のものだろうか。山中様は古いアルバムを探してくださっており、笠原吉太郎とともに写る佐伯祐三や1930年協会のメンバーたちの姿が残されていないかどうか楽しみだ。
◆写真中下:上は、1955年(昭和30)4月14日発行の朝日新聞に掲載の取材記事。下は、同時に掲載された笠原邸写真の背景のクローズアップ。
◆写真下:上は、1947年(昭和47)の空中写真にみる笠原邸からの撮影ポイント。下は、1934年(昭和9)ごろに発行された聖母病院絵葉書にみる撮影ポイント。絵葉書には笠原邸のような2階家が描きこまれているが、他の家々がリアルでないようにあくまでもイメージだろう。