わたしが紙芝居を見たのは、おそらく幼稚園の園児だったころではないかと思う。なんらかの物語や逸話などを、紙芝居に仕立てなおした内容で先生が読んでくれたのではなかったか。その鮮やかな色彩は、いまだに目に浮かんで消えないでいる。
いまでも憶えているのは、歯磨きをちゃんとしないと口の中にバイキンくんがたくさん増殖し、歯がバイキンくんたちの鑓で突っつかれて虫歯になるよ……というものだったり、ちゃんと食事を摂らないとお腹の中の栄養工場で働いているヲジサンたちが、ひもじい思いをして働けなくなっちゃうよ…とか、そんな教訓めいた教育紙芝居だったように思う。虫歯の紙芝居は、大きく口を開けて喉ちん〇までが見える作画がリアルで、その中を尖がり頭をした黒いバイキンくんたちが走りまわっているのが、気持ちが悪かった。紙芝居を見たあと、なんだか吐きそうになったのを憶えている。
お腹にいる栄養工場のヲジサンたちは、紺色の菜っ葉服を着てやたらリアルに描かれており、そんな人たちがお腹の中にいるのかと思うと不気味なことこの上なかった。かなりあとまで、お腹が痛くなったりお腹を壊したりすると、青い菜っ葉服のヲジサンたちがいまにも死にそうな様子をして横たわっているイメージが目にチラつき気味が悪かったのは、まちがいなくこの紙芝居のせいだ。ヲジサンたちは、いつもうつむき加減で流れ作業のコンベア労働を地道にしており、モノを食べるととんてもない忙しさにみまわれるのだろうな……と、当時から気の毒に思っていた。
小学校の1年生のときも、担任の先生がなにか紙芝居を読んでくれた記憶がうっすらと残っているが、それがどのようなストーリーだったのかは憶えていない。おそらく、幼稚園時代のようなどこかグロテスクでショッキングな画面ではなく、もう少しまともでおとなしい作画による童話のような展開だったのだろう。小学校へ入学すると、わたしは紙芝居よりも絵本のほうが面白く、授業がはじまる30分も前に登校しては、教室に備えつけられた絵本類を読むのが好きだった。中でも、アフリカの動物を紹介した絵本がいちばん好きで、絵本を占有したいため級友と登校競争をしたこともあった。
親父たちの世代では、紙芝居はもっと身近な存在だっただろう。街中で遊んでいると、必ず紙芝居屋が自転車でやってきて、空き地や公園で演じてくれていたからだ。集まった子どもたちが、アメをひとわたり買い終えると、お待ちかねの紙芝居がはじまるのだが、アメを買う子が少ないと紙芝居はいつまでも幕を開けない。アメを買わずにタダ見をする子たちがいるのも、紙芝居屋はちゃんと知っていて、その子たちがアメを買うまでなかなかはじめないのだ。中には、アメを買うおカネのない子もいて、そういう場合はおカネのある年上の子が融通してめんどうをみる、つまりおごってあげて紙芝居を見るというように、近所の遊び仲間にはいわず語らずの“お約束”があったようだ。小遣いClick!が非常識なほど豊富だった親父は、小さな子どもたちによくおごってあげたらしい。
当時の紙芝居で人気があったのは、ただ笑っているだけのよくわからない正義の味方「黄金バット」や「少年タイガー」といった作品で、親父も夢中になっていたようだ。わたしは、街中の紙芝居というのを一度も見たことがない。すでにTVが普及し、アニメが全盛のころだったので、紙芝居屋は相次いで廃業してしまったのだろう。紙芝居屋がまわってきたという話も、近所ではまったく聞かなかった。
親父が夢中になっていた紙芝居とはどんなものか、一度モノは試しと経験してみたかったので、実際に戦前からやっていた紙芝居屋さんを起用し、戦前の紙芝居画面をそのまま使って制作されたCDアプリケーションを、1990年代に手に入れたことがある。もちろん、いちばん有名だった「黄金バット」シリーズだ。「黄金バット」が、中立国のスイスにある目が4つの悪漢「ナゾー」の本拠地に乗りこんでやっつける筋立てなのだが、これがまったく面白くない。紙芝居屋さんの話芸が面白くないのではなく、ストーリーの展開そのものがバカバカしくてつまらないのだ。戦後のアニメで育ったわたしは、どうやら戦前の子どもたちよりも純粋さが失われており、はるかにこまっちゃくれスレているのだろう、途中でアプリをOFFにしたくなるほど退屈してしまった。
下落合735番地に、教育紙芝居の創始者である高橋五山(高橋昇太郎)が住んでいる。京都市美術学校と東京美術学校の、ふたつの美術学校を出た高橋昇太郎は子ども向けの絵本や紙芝居の世界で活躍した人物だ。自身でも金甲社という出版社を起ち上げ、幼児や児童向けの図書を編集している。特に子ども向けの紙芝居では、「教育紙芝居」という概念を打ちだし、幼稚園や学校など教育現場で演じられる紙芝居の創作・普及に尽力している。現在、幼稚園や学校などで教育に取り入れられている紙芝居は、すべて高橋昇太郎が開拓した路線上に位置しているといっても過言ではないだろう。いまでも、優秀な紙芝居に贈られる「高橋五山賞」(1962年~)としてその名が知られている。高橋五山の名前は、実はここの記事にもすでに登場している。戦前・戦中に下落合で行われた、旗行列や提灯行列Click!のルートを紹介した記事だ。
1926年(大正15)に作成された「下落合事情明細図」には、高橋昇太郎ではなく父親の高橋五三郎が掲載されている。おそらく、ペンネームであり筆名の「五山」は、父親の「五三(郎)」からとったのではないかと思われる。また、1932年(昭和7)出版の『落合町誌』には高橋昇太郎が載っており、職業は「画家」ということになっている。
街頭紙芝居の多くが手描きなのに対し、高橋昇太郎は印刷紙芝居を創作して広範囲への普及を図った。紙芝居の絵は、絵本とともに画家たちのいいアルバイトにもなっただろう。紙芝居の作家である加太こうじが、こんなことを書き残している。加太こうじは染物屋「丁字屋」の息子だが、旧・神田上水もほど近い早稲田に住み、太平洋美術学校(旧・太平洋画研究所Click!)へと通っている。1972年(昭和47)に淡交社から出版された、加太こうじ『江戸っ子』の中から引用してみよう。
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叔母が学生相手の素人下宿として二階を貸すと、斎藤は終日階下の長火鉢の前にいた。そのころは、私は紙芝居の絵を描きながら私立の美術学校へ通っていた。
「お前、油絵をやってるんだって、梅原のせがれが、そっちのほうで、洋行帰りでえらいってから紹介してやろうか」
などと、私に調子を合わせて斎藤は梅原龍三郎のことを話した。梅原龍三郎は染物屋の息子で、その店と丁字屋は取引があったらしい。しかし、紙芝居の作画を業とする私には、日本の洋画壇を背負っているような大家梅原龍三郎は、あまりにもえらすぎた。
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高橋五山は印刷紙芝居ばかりでなく、当時は斬新だった貼り絵紙芝居など、それまでになかった表現法による紙芝居も発明している。1965年(昭和40)に死去するのだが、特に戦前は出版した紙芝居がなかなか思うように売れず、その生涯は苦労の連続だったといわれている。
◆写真上:諏訪谷も近い、旧・下落合735番地にあった高橋五山邸跡(右手)の現状。
◆写真中上:上は、戦前の紙芝居ではヒーローだった「黄金バット」(左)と「丹下左膳」(右)。下は、1964年(昭和39)の新宿で撮影された街頭紙芝居で、新宿歴史博物館が2009年に出版した写真集『新宿風景―明治・大正・昭和の記憶―』より。
◆写真中下:上は、高橋五山が創作した1937年(昭和14)の「フシギノクニ」(左)と1955年(昭和30)の「なかよしのおうち」(右)。下左は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる高橋三五郎邸。下右は、1938年(昭和13)の「火保図」にみる高橋五山邸。
◆写真下:戦前戦後を通じて紙芝居を創作した、高橋五山(左)と加太こうじ(右)。