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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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「文化生活」の丸ごと提唱雑誌『住宅』。

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渋谷T邸1921.jpg
 住宅改良会の主催者であり、またあめりか屋Click!の創業者でもある橋口信助Click!と、同社の技師長だった山本拙郎Click!は1916年(大正5)から昭和期にかけ、住宅建設の専門誌『住宅』を毎月発行しつづけた。表向きは住宅改良会による住まいに関する雑誌という体裁なのだが、実質は、あめりか屋が提供する洋風住宅の販促・普及をめざす、企業広報誌のような性格が色濃い。
 誌面は、西洋館あるいは和様折衷住宅などの建築ケーススタディ記事が多く、住まいをテーマにした最新情報やエッセイなどが掲載されている。広告も、その多くが洋風住宅を建てるための新建材や輸入建材の案内であったり、洋風生活を演出するための調度や家具、小物類のものが多い。また、出版社の広告では、ほとんどが洋風住宅の建設に関するものであり、具体的な間取り図や設計図、完成した建築事例やモデルハウスの写真集などが紹介されている。当サイトでご紹介してきた、目白文化村Click!近衛町Click!などに建っていた具体的な洋風住宅Click!の写真は、この同誌掲載の“作品”のものも少なくない。
 住宅改良会の活動開始にあわせ、『住宅』は1916年(大正5)8月に創刊されている。刊行をつづけるうちに、装丁やデザインがくるくる変わるのは、大正期を通じて洋風住宅への関心が高まり、内容が徐々に充実していったからだろう。当初は1色印刷だったものが、数年で表紙と本文で2色、ときに巻頭の口絵にはカラーグラビアを挿入するまでになっている。おそらく発行部数も伸びていったのだろう、大正中期になると広告の掲載数も急激に増えている。そして、当初は住宅建設に関する国内外の情報や記事、エッセイなどで占められていた誌面が、大正中期になると住宅建設には直接関係のない、洋風庭園の造り方や洋風ランチの作り方などまでが、記事として掲載されることになる。
 たとえば、1922年(大正11)4月に発行された『住宅』(第二文化村号)では、「お弁当代りの献立」とか「公道を歩む時の礼法」といった、文化住宅街における新しい生活様式を意識した記事までが登場している。「献立」記事では、パンやバター、牛乳、スープ、シチュー、サラダ、フルーツ、デザート(菓子類)などの洋食が主体であり、すでに和食は姿を消している。現代の目から見れば、こんな食生活をつづけていたら身体を壊すぜ……というような、欧米の食文化へ偏ったメニューだ。また、「礼法」では女性と街中へ外出するときのエスコートのしかたとか、社交会場での礼儀や作法、電車や自動車に乗ったときのエチケットなど、こちらも欧米の生活習慣をそのまま輸入したような内容となっている。当時は、生活の欧米化=「文化生活」化ととらえられていたのだろうから、そして事実、江戸期からつづく住宅の仕様や生活習慣には非効率的な側面が多かっただろうから、それを合理的な住環境の創造とともに一度、全否定する必要があったと思われる。
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 そして、同号には「想苑」というページが設けられ、小説や詩、短歌、童話、民謡、そして音楽(楽譜)までが掲載されている。小説は、坂本由郎が訳した連続長編小説のオルコット『愛の花』(現在の『若草物語』)だが、短歌や詩は小野勝也『惜春賦』に福田夕咲『銀の魚』と非常に日本的な味わいの強い作品が掲載され、どこかチグハグな印象を受ける。『住宅』は、日本の新しい住環境を創造し広めるという目的ばかりでなく、そこで暮らす人々の食事や習慣、鑑賞する芸術にまで足を踏みこんで新生活を提案している。このころになると、『住宅』の誌面は「住宅改良」ではなく「生活改良」の性格が強くなっているようだ。たとえば、同号掲載の濵名東一郎による「民謡」を引用してみよう。
  
  別れた妻
 妻にわかれて/別れた妻に
 せめて/眉なと似た人を――。
 町に求めば/心がみだれ
 野べは、龍膽(りんどう)が/邪魔になる。
  
 奥さんと別れたあとの未練なのか、オシャレでハイカラな文化住宅や文化生活を紹介する雑誌に、この「別れた妻」や「人買船-N子の歌-」などの「民謡」がふさわしいのかどうかは疑問だが、およそ住宅建設とは関係のない文芸作品が、誌面の4分の1を占めるまでになっていた。
 しかし、『住宅』は昭和に入ると、ショルダーを「住宅・庭園・家具・装飾・美術・工芸の雑誌」と銘うってはいるが、文芸作品などはいっさい載せなくなり、再び住宅建築に関する専門誌へと回帰しているようだ。本文は横文字に組まれ、表紙も右開きへと仕様が変わり紙質や製版、印刷の品質も格段に向上している。関東大震災を経ているので、広告もコンクリートやブロック、石膏材、耐久ボードなど難燃性の建材や、軽量瓦、石綿製屋根材といった製品が目につく。余談だが、佐伯祐三Click!アトリエClick!に一時期用いられていた、曾宮一念Click!が記憶するところの「布瓦」Click!だが、菱形に張りつける石綿製の軽量瓦だったと思われる。屋根に張ると、独特な菱形の模様を形成する「石綿瓦」は、佐伯米子Click!実家Click!近くにあった浅野スレート(銀座6丁目)製の可能性が高い。
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川崎工場広告192204.jpg 浅野スレート広告193010.jpg
 再び余談で恐縮だが、古書店で1922年(大正11)4月発行の『住宅』(第二文化村号)を手に入れたとき、東京朝日新聞の切り抜きがページにはさまっていた。同年4月21日(金)の朝刊に掲載された記事で、とある住宅で暮らすといつも「15日」に人が死ぬ、なんと「渋谷怪談」なのだ。かなり長い記事だが、その冒頭部分を引用してみよう。
  
 渋谷の高台に家の不思議
 階上の窓には島津邸の森が迫り遥かに都会の姿が一畔の中に集まつて居る市外渋谷町字下渋谷一一七吉和田秀雄氏の家は此高台の立派な住宅である、主人の吉和田氏は去る十五日脳膜炎で死に一昨日麻布笄町の大安寺に法要が営まれたが、この高台の家を中心として奇怪な風評がパツと起つた 大正五年から今年迄此家に住む程の人は殆ど死霊に取憑かれたやうに眠つてしまふ、而もその死ぬ日は月こそ違え皆十五日である、
 住む者は死ぬ
 忌日も同じ謎の十五日/馬にまつはる因縁話・うまく逃れた筑紫将軍

 呪はれた家の最初の犠牲者は歩兵大佐中川幸助氏で、参謀本部に勤務し少将に昇進し豊橋旅団長を拝命の辞令を得た歓びの五月十五日に倒れるやうに永眠した。昨年六月十五日に死んだ会社員武藤武全氏が引越して来る前にも二人目の犠牲者があつた。この界隈では当時既に迷信的な噂が起つて居たが武藤氏は頗る強健な人で『噂や迷信を担いで居ては都会生活は出来ない』実際武藤氏は住宅難の渦中へ飛込んで苦しんだ揚句担ぎやの夫人を励まして風評の中へ飛込んだ 偉大な体格で而も強健な武藤氏の家庭はこだわりのない生活が続いたが、或る日勤めの帰途広尾橋の電車停留所で下車する時電車に跳ねられてひどい打撲傷を負った、手術によつて家族も全快の時を楽しんだが其期待は裏切られて遂に敗血症といふ病名の下に死んだ、(以下略)
  
 “呪いの館”で「武藤氏」が死んだのも、また5月15日だった。このあと入居した人たちが次々と「15日」に死亡し、同館の死者は都合6名になった…という記事だ。
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 面白いのは、東京朝日新聞の記事自体ではない。1922年(大正11)4月現在、最先端の生活誌だった『住宅』を購読し、オシャレでハイカラな文化生活を送ろうとしている読者が、“呪いの館”の記事を気にしてわざわざ切り抜き、同誌のページへスクラップしておいた……という行為が実に面白いのだ。先進技術を活用した住環境で、どれほど合理的に生活をしようが、どれだけ欧米の効率的な生活習慣を取り入れてマネしようが、早々に人の思念や心の中までは理路整然というわけにはいかない。『住宅』にはさまれた“呪いの館”記事は、大正期のそんなアンビバレントな生活人を象徴しているように感じるのだ。

◆写真上:あめりか屋が、1922年(大正10)に渋谷の高台へ建設したT邸。
◆写真中上は、1916年(大正5)8月発行の『住宅』創刊号()と、1921年(大正10)1月発行の『住宅』(趣味住宅号/)。は、1922年(大正11)4月発行の『住宅』(第二文化村号/)と、1930年(昭和5)10月発行の『住宅』()。
◆写真中下は、1922年(大正11)の『住宅』4月号に掲載された音楽「白壁」の楽譜()と、小倉支店を閉じたあとのあめりか屋広告()。は、同号に掲載された川崎工場による「鉄鋼混凝土(コンクリート)」広告()と、1930年(昭和5)の『住宅』10月号表4に掲載された浅野スレートによる「浅野石綿瓦」広告()。
◆写真下:1922年(大正11) 4月21日の東京朝日新聞に掲載された「渋谷怪談」。


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