目白通り沿いの南側で、幅20mにわたって建物疎開Click!が行なわれた時期がはっきりした。下落合の地元の方たちの証言、あるいは目白通り北側の方々の証言では、建物疎開が行なわれたのは早い時期では1943年(昭和18)、あるいはサイパン島が陥落した1944年(昭和19)の秋以降、さらに1945年(昭和20)に入ってから……と、さまざまな記憶が錯綜していた。この中で1943年(昭和18)説は、1944年(昭和19)10月22日に陸軍の航空隊が撮影した落合地域の空中写真Click!から、いまだ建物疎開は行なわれていないのが明らかなので除外することができた。また、1944年(昭和19)に作成されたとみられる、「秘」印の押された「淀橋区建物疎開地区図」Click!をある方からいただいたことにより、1943年(昭和18)には防火帯33号の計画が、まだ存在しなかったことも明らかになった。
わたしは、いろいろな方の証言や資料から、建物疎開の実施は1944年(昭和19)の晩秋から暮れにかけてあたりだと想定していた。その根拠は、先の1944年(昭和19)に陸軍によって撮影された空中写真に、神田川沿いの建物疎開(防火帯36号江戸川線)の工事がかなり進捗しており、また山手線沿いの池袋駅から目白駅まで南北にのびる防火帯33号も解体工事が相当進んでいたからだ。また、目白通りつづきの防火帯33号として建物疎開が予定されていた目白バス通りClick!(長崎バス通り)では、1944年(昭和19)に通りの西側へ空き地ができており、そこへ防空壕Click!がすでに造られていたことが、小川薫様Click!のお母様「上原としアルバム」Click!で明らかになっていたからだ。つまり、防空壕が造られた1944年(昭和19)の冬には、目白通り沿いの建物疎開(防火帯33号建設)はすでに行われていた……と考えた。
しかし、実際に本格的な建物疎開が行なわれたのは、敗戦の年、1945年(昭和20)に入ってからのことだ。しかも、第1次山手空襲Click!による爆撃が行なわれた1945年(昭和20)4月13日の夜半現在、いまだ建物疎開は一部を除いてほとんど行われていなかったと思われる。目白通り沿いの防火帯33号の建設計画は、遅れに遅れていたのだ。それが明らかになったのは、第1次山手空襲を予定していた米軍が事前に撮影した、同年4月2日の偵察写真が公開されたことによる。この偵察写真で目白通り沿いを観察すると、ほとんどの商店や住宅が解体されずにそのまま建っていたことがわかる。
一部、櫛の歯が抜けるように建物が解体されているが、おそらくそれは住民が疎開して人が住まなくなった建物か、あるいはもともと空き家で早い時期に解体された建物だ。1944年(昭和19)から、地元の防護団Click!や警察は無人あるいは家族全員が疎開を予定している住宅に対して、空襲による延焼防止のために解体することを家主に対して通告している。近衛町Click!に建っていた旧・杉邸Click!は、その後S家の所有に移っていたが、下町からの引っ越しがまだだったために解体を迫られ、大急ぎで下落合へ転居してきている。
もうひとつ、ひっかかっていた証言がある。1944年(昭和19)のうちに建物疎開が行われたとすれば、目白福音教会Click!の目白通り沿いに建っていた建築は当然解体されていたはずで、空襲により炎上することは考えにくい……ということだ。キリスト教が“敵性宗教”Click!などといわれた戦時、それらの施設をあえて残して建物疎開が実施されたとは考えにくいからだ。ところが、同教会の宣教師館Click!(メーヤー館Click!)の北側に建っていた旧・英語学校Click!(のち宣教師宿泊施設)が、空襲で炎上したという証言が残されている。2006年(平成18)発行の落合の昔を語る集い・編『私たちの下落合』に収録された、目白教会の篠原信牧師による「桜並木が火を噴く」から引用してみよう。
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ポール君一家が住んでいた宣教師舘(ママ)は西側から迫ってきた戦災の火の熱により発火点に達し、突然二階の窓から炎を吹き出して見る見るうちに炎上してしまった。メーヤー宣教師の住んでいた宣教師舘の羽目板は手で触れられないほど熱く、父とともに必死で火がつかないよう努めた。幸い類焼はまぬがれた。先に(昭和十六年)火事によって礼拝堂を失っていた目白教会は、その後、この宣教師館(ママ)で礼拝をしていた。さらに、この宣教師館は日本聖書学校の発祥の地ともなった。庭のヒマラヤ杉はメーヤー師夫妻がお子さんの誕生を記念して植樹されたもの。終戦間近に目白英語学校と目白平和幼稚園の建物は爆撃の目標になるとの理由で強制的に取り壊された。
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この文章の中で、「ポール君一家」が住んでいた目白通りに近いもうひとつの宣教師館が、前年1944年(昭和19)の暮れ、幅20mにわたる建物疎開がすでに行われていたとすれば、当然ひっかかっていたはずの建物であり、“敵性宗教”の施設として優先的に解体されていたはずだ。もちろん、1941年(昭和16)12月の日米開戦後は、「ポール君一家」すなわちハーヴェー・シード宣教師夫妻は住んでおらず、1945年(昭和20)の第1次山手空襲で延焼しているとすれば、なにか教会の建物をあえて残しておく別の理由が存在していたのではないか?……と、わたしは想像していた。
たとえば、“敵性外国人”である欧米人の強制収容所Click!として使用された関口教会や聖母病院Click!などを警備する、憲兵隊ないしは警備兵の駐屯所のような用途だ。しかし、そもそも建物疎開が1945年(昭和20)4月の第1次山手空襲時まで間に合わず、実施されていなければ「ポール君一家」の宣教師館がそのまま残っているのは当然のことだった。1945年(昭和20)4月2日に撮影された米軍の偵察写真には、目白通り沿いの同宣教師館はもちろん、文中に登場している目白英語学校や目白平和幼稚園の建物も、そのまま建っているのが確認できる。
そして、次にB29偵察機が撮影した同年5月17日の空中写真には、4月13日夜半の空襲で延焼した「ポール君一家」の宣教師館(の残骸)と、建物疎開ですでに存在していない目白英語学校および目白平和幼稚園の建物跡を確認することができる。すなわち、米軍による2種の偵察写真を比較することにより、目白通りの南側で幅20mにわたり行われた建物疎開は、1945年(昭和20)4月2日から5月17日まで45日間のどこかで実施されていると規定することができる。さらに、同年4月13日夜半の第1次山手空襲の際に、「ポール君一家」の宣教師館が解体されずに残っていたことを考慮すれば、一部の建物疎開は進捗していたのかもしれないが、すべての作業を終了していたとは考えられず、防火帯33号と名づけられた目白通り沿いの建物疎開が完了するのは、4月14日から5月17日までの33日間のどこか……と、より期間を絞って想定することができる。
おそらく、4月13日の空襲で被災した建物の残骸はもちろん、焼け残った目白通り沿いの建物も、大急ぎで解体されたと思われる。建物を引き倒す解体作業に戦車が動員されたのも、防火帯33号の建設リードタイムを短縮し効率化するためであり、次の空襲に備えた不休の作業がつづいたのだろう。しかし、次いで5月25日夜半に行われた第2次山手空襲では、この防火帯33号はほとんど役に立たなかった。470機のB29による同日の空襲は、山手地域の一帯をほとんどくまなく絨毯爆撃しており、にわか造りの防火帯などでは火災を防ぐことができなかった。ナパーム焼夷弾による延焼を防いだのは、むしろ山手のあちこちに残る森林や、樹木が濃い屋敷林Click!の存在だった。
さて、目白バス通り(長崎バス通り)では、目白松竹館Click!(旧・洛西館Click!)が建物疎開からまぬがれているのを以前に書いた。4月2日撮影の偵察写真では、やはり櫛の歯が抜けるように建物がわずかに解体され、町内運動場Click!などの空き地には防火用水の設置されているのが見てとれる。だが、5月17日の偵察写真を参照すると、商店や住宅はその多くが解体され、通りの西側は小川薫様Click!のお母様の証言どおり、かなり広い原っぱと化していた様子がわかる。目白バス通り沿いは、4月13日の空襲では大きな被害を受けておらず、商店街や住宅街は空襲前と変わらずに建っている。この通り沿い(おもに西側)が戦禍にみまわれるのは、5月25日夜半の第2次山手空襲のときだ。
以前、御留山Click!の相馬孟胤邸Click!は空襲で焼失したという証言を、当の相馬邸を買収した東邦生命の5代目・太田清蔵による証言(花田衛『五代太田清蔵伝』Click!)から、あるいは地元にお住まいの方の証言でも耳にしていた。しかし、相馬邸はすでに跡形もなく解体され宅地開発の進んでいる様子が、1944年(昭和19)秋の陸軍撮影による空中写真でも、また翌1945年(昭和20)4月2日の第1次山手空襲直前に撮影された米軍の偵察写真でも判然Click!としている。戦時中の混乱した状況では、さまざまな記憶の齟齬や勘ちがい、時系列の錯覚や思いちがいが生じやすいものであることを、改めて痛感している。
◆写真上:1945年(昭和20)4月13日夜半に行われた第1次山手空襲の直前、11日前の4月2日にB29偵察機によって撮影された目白福音教会。
◆写真中上:上は、1945年(昭和20)4月2日に撮影された目白駅寄りの目白通り偵察写真。下は、5月17日の第2次山手空襲直前に撮影された同所の偵察写真。
◆写真中下:上は、1945年(昭和20)4月2日撮影の目白通りと山手通りの交差点界隈。下は、5月17日に撮影された同所の偵察写真。
◆写真下:上は、5月17日の偵察写真にみる目白福音教会で「ポール君一家」がいた宣教師館の残骸が見える。下は、5月17日の偵察写真にみる長崎バス通り界隈。雲の陰でわかりにくいが建物疎開が進んでいる様子と、4月13日夜半の空襲では下落合側とは異なりほとんど被害を受けていない様子が確認できる。