1923年(大正12)9月1日に起きた関東大震災Click!のあと、下落合の目白中学校Click!は9月18日から授業を再開している。18日からの授業再開は、新聞の広告欄に掲載されたが、震災の混乱で新聞の発行や配達自体が遅延しており、再開した授業を知らなかった生徒もずいぶんいたようだ。大震災による落合地域の揺れは、市街地に比べて相対的に軽く、目白中学校も倒壊をまぬがれている。校舎の被害は、壁の一部が剥脱したのと屋根瓦が部分的に落下しただけで、とりあえず授業に差し障るような大きなダメージは受けていない。
関東大震災のあと、1924年(大正13)の春に編集された目白中学校の校友誌『桂蔭』第10巻には、大震災の記述は意外なほど少ない。冒頭の短歌と、生徒たちの手記や体験談が2篇、そして同誌編集委員による「震災雑記―報告に代へて―」が1篇と、同誌に掲載された原稿の5%にも満たない。河岸段丘による強固な地盤のせいか、落合地域は大震災による被害が比較的少なく、古くからの家屋が2棟倒壊Click!したという伝承のみにとどまっている。また出火による焼失も、淀橋警察署(戸塚分署)の記録によれば、早稲田大学理科学研究所で薬品類の落下による発火が原因で、研究所の1棟が全焼したのみの被害だった。
ただし、現在の新宿区の南部にわたる一帯は、揺れが激しかったせいか大きな被害が出ている。四谷警察署管内の記録では、家屋の全壊が52戸で半壊が159戸、しかも数ヶ所から出火して大火災となっている。また、神楽坂警察署管内では陸軍士官学校理科室の薬品棚から発火して半焼、早稲田警察署管内では全壊262戸で半壊328戸を記録し、若松町と山吹町の2ヶ所で出火したが消防活動ですぐに鎮火している。中でも四谷地区の被害は大きく、死者168名で全焼家屋は642戸にものぼった。これに対して、落合地域では死者も火災も発生しておらず、目白中学校が震災日から半月ほどで授業が再開できたゆえんだ。おそらく、授業は震災の数日後から再開できたと思われるのだが、戒厳令が布告されたあとの目白中学校には、軍隊が駐屯していて教室を使用することができなかった。
さて、『桂蔭』第10巻の編集委員による「震災雑記―報告に代へて―」には、震災時の目白中学校の姿が記録されている。同原稿を執筆した編集委員の“天邪鬼”は、大震災により被害を受けた地域で流される言説に激怒している。いわゆる、「物質文明」や「科学」に毒された人間を、「神」が覚醒させるために「天譴」を下し「試練」を課したのだ……とする流言だ。同誌から、怒れる“天邪鬼”の編集後記ともいうべき文章を引用してみよう。
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天譴(てんけん)である、神の人間に下した試練であると臆面もなく――いや反つて得意顔に云ふものがある。私はこの語を聞く度に堪へがたち憤怒に駆られる。その者が長上であれ、貴人であれ、容赦なく横面(よこっつら)を張り飛ばしてその高慢顔に啖をはきかけてやりたい衝動を感じる(。)さういふ事を云ふ者は、所謂知識階級、似而非(えせ)道徳家に多かつた。彼等は得意になつて新聞雑誌に力説した(。)さも自分は清浄潔白なるが故に天譴を免れたと云わぬ許りに筆を走らせた。そして原稿料をかせいだのである。おゝ聖人顔した、心の敗絮(はいじょ)の輩の多いことであるよ(。)あまりに贅沢の限りを尽したが故に天はいましめたのだといふ。だが理屈は何とでもつけられる。結果をたねに、自分だけがいゝものになつてつまらぬことをほざく者に呪あれ。(中略) 天譴説は換言すれば彼の死者がより多くの―生き残りより-罪を有して居たが故にその当然受くべき罰をうけたのだといふに当りはしまいか。自分は聖道を歩んだが故に無事助かつたといふのに当りに(ママ)しまいか。然りとすれば死骸に鞭打つのである。死者を侮辱するものである。死者がみな驕堕に耽つて居たか。おゝ天譴説は人に反抗を起さしむるに過ぎぬ邪説逆説である。(カッコ内引用者註)
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本来、目白中学校の校友誌『桂蔭』は、乃手Click!の学校らしく穏やかで落ち着いた誌面のはずだった。ところが、マスコミでさかんに喧伝された「天譴説」に対し、大学並みの教授陣をそろえ学問を追究する、大正期は一中と並び称された学府「私立中学ノ雄」として、ついにキレた、いや怒りを爆発させたようだ。「横面を張り飛ばして」とか「啖をはきかけて」、「つまらぬことをほざく」、「呪あれ」などの語彙は、それまでの『桂蔭』誌面には決して見られなかった表現だ。
さて、目白中学校の被害はどうだったのだろうか? 校舎の瓦が落ちた教室では、雨漏りがしていたようだ。同誌の「震災雑記―報告に代へて―」から引用してみよう。
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〇山の手、而も地盤堅固といふのか知らぬが学校は幸にも――本当に幸にも倒潰せずに済んだ。瓦と壁が落ちただけだつた。でも瓦は授業が始まつても仲々繕はれなかたので(ママ)、雨の日は教室へ雨漏がして早く授業をしまつた組があつたらしかつた。外に忙しいこともあつたらうけれど、もう少し瓦を早く繕つて呉れたらよかつたと思つた。
〇(九月)二日から十七日迄授業はなかつた。それまで兵隊さんに占領されてゐたのと、交通機関の不通の為とであつた。
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目白中学校の2学期は、9月18日(火)からスタートしているが、授業の再開は新聞広告によって告知されている。ところが、震災直後の新聞広告欄は、企業の消息を掲載したり行方不明者を探したりする尋ね人情報があふれ、授業スタートを告知する目白中学校の広告は目立たなかったらしい。また、17日の夕刊あるいは18日の朝刊に掲載依頼をしたものが、編集作業の遅れで18日の夕刊に掲載された新聞もあった。したがって、新学期の開始を知らない生徒が、かなり存在していたようだ。また、当時の新聞は流通経路がズタズタに寸断されていたため、配達の遅れることも多かった。したがって、9月18日に登校した生徒はまだ少なかったらしい。
家が倒壊したり、焼失したりした生徒の罹災者はかなりいたようなのだが、生徒の犠牲者はひとりもいなかった。文中にもあるとおり、他校に比べると目白中学の被害は非常に軽微で済んでいる。つづけて、「震災雑記―報告に代へて―」から引用しよう。
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〇授業開始の新聞広告の中、日々(東京日日新聞)のは十八日の夕刊か何か(或ひはそれ以後だつたか)に出たので、日々のみを見て居た人は一日乃至二日は知り得なくて欠席の止むなきに至つた。元来日々は広告の輻輳する新聞である。下手にすると遅れるのだ。この点を、も少し考へて呉れたらよかつたと思ふ。
〇先生の罹災された方は、井上(勇)先生及剣道の檜山(義質)先生である。井上先生は旅行中であつたとか。多年苦心になる博物の標本及研究資料全部焼失せられたといふ。誠にお気の毒で、生(徒:ママ)等にも、学会の為にも惜しいことである。生徒罹災者は可成あつたが他校に比較すると少ない方であつた。死者は全然ない。喜ばしいことであつた。罹災種数は別表の通りである。(罹災者表は掲載漏れ)
〇九月廿日附で九州小倉中学の生徒諸君から各学年別に深切(ママ)な見舞状を送られた。ほんたうに有難いことであつた。我々はあの厚意に対して深く感謝せねばならない。
〇中央工学校に震災以来校舎を貸した。焼けた学校の人は本当に気の毒である。
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市街地で焼け出された学校の学生たちに、目白中学校が校舎を提供していた様子がわかる。目白中学には、大正期にも東京同文書院Click!の事務所Click!が残存していたようだが、校舎の一部を池袋にある豊島師範学校Click!の事務局Click!に貸していた記録が残っている。『桂蔭』第10巻の「震災雑記」は、1923年(大正12)の大震災以降も、同校の校舎を他校へ貸していた様子がわかるめずらしい記録だ。
◆写真上:新宿区域では被害が大きかった、市谷本村町の状況。(『牛込区史』より)
◆写真中上:上は、同区域の外濠に面した揚場町の被害。下左は、江戸川(左手・神田川)に沿った東五軒町の地割れ。下右は、市谷の外濠通りの地割れ。(同上)
◆写真中下:上左は、1924年(大正13)現在の校長室における柏原文太郎。上右は、1923年(大正12)現在の1/10,000地形図にみる目白中学校。下は、職員室の様子。
◆写真下:文藝部の部活動の様子で、中央は顧問教師であり部長の秋山正平。