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少し前に、「落合道人」サイトの訪問者がのべ900万人を超えました。いつもご覧いただき、ありがとうございます。あと少し、2014年11月で丸10年を迎えるわけですが、なにか総括的なことを書かなければと思いつつ、別に当初の思いClick!が大きく変化しているわけではないので、いつもの落合記事+αでほんの少し書いてみたいと思います。
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関東大震災Click!の3ヶ月ほど前、1923年(大正12)5月15日(火)に下落合にあった目白中学校Click!の3年・4年・5年生は、修学旅行で大磯を訪れている。学年別に分かれ、さらにひとつのグループが10人前後の“班”に分かれて、いまでいう自由行動をとって大磯各地をめぐっているようだ。訪問先は、千畳敷山(のち湘南平)や鴫立庵Click!、別荘街Click!、小淘綾(こゆるぎ)ノ浜の海岸線などで、東京の中学生にはめずらしい風景が多かったらしく、1924年(大正13)4月に発行された校友誌『桂蔭』第10号には、各学年の生徒たちによる修学旅行の感想文がいくつか寄稿されている。
このときは、いまだ千畳敷山には「湘南平」という呼称はなく、鴫立庵も「でんりゅうあん」と呼ばれることが多かったかもしれない。今日の、「鴫」は鳥の「しぎ」ではなく「死木」、すなわち墓標ないしは塔婆のことで、最初期の庵は海辺ではなく沢のもっと上流域にあり、流れの岸辺には多くの「死木」が建立されていたため「死木立沢」と呼ばれていた……というような、新しい解釈が登場する前のことだ。西行は、大磯の浜辺ではなく丘陵寄りの沢で、「三夕の歌」のひとつを詠んだことになる。この説によれば鴫立庵の位置も、以前に三岸節子アトリエClick!を訪ねた際に通過した谷間あたりということになる。「鴫立沢の秋の夕ぐれ」と「死木立沢の秋の夕ぐれ」とでは、まるっきり歌の情景や情感が変わってきてしまうのだが……。
では、目白中学生が体験した鴫立庵の情景を、同誌から引用してみよう。
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しぎたつ澤と書いた碑のたつたさゝやかな門をくゞると右側に茅葺の家がある。つきあたりには小さな御堂がある。御堂のそばに五六本の松があつて、そこに七つ八つの墓石が並んでゐる。これが鴫立澤のすべてである。/この旅行が大浪小浪うち寄せるこゆるぎの磯の風景を貪らうとしての企てには相違なかつたが「こゝろなき身にもあはれはしられけり鴫立澤の秋の夕ぐれ」と詠んだ西行法師の心を汲まうとしてかなりこの鴫立澤を期待してゐた人も少くなかつた。鴫立澤といふからにはさだめし広い澤があつて、春だから鴫は居ないにしても、蘆かなにかが叢生してゐるに違ひないと思つてゐたところが案外単調なのに少からず失望した。(中略)/庵室は二方に縁側のつつた(ママ)八畳一間である。こゝで絵葉書を買ひスタンプをおした。それからいろいろの宝物を見せて貰ふ。
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現在の庵主は、伊達藩の俳諧師・大淀三千風から数えて22代めだそうだが、中学生たちは当時の庵主に文覚が制作した鉈彫りの西行法師像を見せてもらっている。残念ながら、当の鴫立庵の前身となる草庵を、1664年(寛文4)に設立した崇雪(そうせつ)について、生徒たちは詳しく取材していないようだ。
崇雪が江戸時代の初期に、大磯の土地を「盡湘南清絶地」と詠んだことから、明治以降はおもに相模湾の中央部を、大正期は馬入川(相模川)の西側から小田原あたりまでを、昭和に入ってからは同河川から東側の藤沢あたりまで含めて「湘南地方(海岸)」と呼称するようになった。目白中学生たちが鴫立庵を訪れたころは、相模湾のおもに西側の海岸線一帯を「湘南海岸」と呼んでいたころだ。大磯の照ヶ崎に、日本初の海水浴場が設置され、これまた国内初の「海水茶屋」(現在の「海の家」)がおめみえしてから38年後、中学生たちはおもに鎌倉時代の歴史を学ぶために大磯へやってきている。
余談だけれど、ここで大磯の丘や斜面から眺めた、三浦半島と伊豆半島が両腕を拡げたように見える光景を、中国の「湘南」に倣い江戸初期の崇雪由来の地域愛称として呼んでいたものが、おそらく大正期あたりから大きく西の海岸線へと“拡張”されている。大正末の東海道線の電化(国府津まで)をにらみ、国府津に別荘地開発を進めていたのが、またしても堤康次郎Click!だ。ここで、下落合における「不動園」Click!(のち目白文化村Click!)開発にともなう「不動谷」Click!の西への“移動”(前谷戸の改称化)と同様に、大磯界隈の地域名だった「湘南」を観光・別荘地開発のキーワードとして、強引に西へと大きく“拡張”していやしないだろうか? 同じ現象は現在でも見られ、不動産広告や店舗名へ馴染みのない「湘南」とつけられ、「ここはそんな地名じゃない!」とお怒りの、古くからの鎌倉・逗子・葉山人たちがたくさんいる。ちなみに、堤邸はいまでも大磯に存在している。
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さて、目白中学生たちが出かけた日は、あいにく雨もよいの日で大山は見えても富士山は見えなかったのか記述には登場していない。雨の中、千畳敷山へと登った中学生たちは、さんざんなめに遭っている。引きつづき、『桂蔭』の感想文から引用してみよう。
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「千畳敷いてもお釣が来らあ」と誰かゞ云ふ。居合せた十人許りの黒洋服がどつと笑ひくずれる。小松林をぬけて、「どつこいさ」と爺さんみたやうに土手をはね越えると、いちめんの芝草原が平らかに広がつてゐる。/五月といふのに今日は馬鹿に寒い。大粒の雨が強く草原――とは云へ山頂の平へ偉い勢でふきつける。こんな日に元気なことだ。小学の女生徒が緋袴の傍(ママ)を高くとつて辷(すべ)りながらも小さき足に土踏みしめつゝ頂へ登つて来る。五月の空の憂さを含んだ色が海面をひくゝ流れて美しい荒浪も今日に限つて何となう和かである様に見える。灰色に眼界遠く――然しぼんやりと展開された相模の海がしんめりした梅雨期の鬱々しい雨になやまされて鳴きひたつてゐるのが悲しく思はれてならぬ。真只中にいさり船が二三隻ほのかにゆれる。/広い草つ原だ。細かい芝草が途切れて所々に赤黒い痩土の色が雨にぬれて悲しく見える。そこへ足を踏み入れたが最後、すてんころりと尻餅どころか頭餅までつく、外套を泥だらけにした奴が、世界中の苦虫を一度にかみつぶしたかの様な苦い笑をする。(中略)/小松林をぬけて明るい北向の芝草道を下りると真正面にあの美しい相模大山のゆつたりとした英姿を見る。附近の何物よりも一番俺の眼を喜こばして呉れる相模大山、今更ながら去年の夏がしのばれる。(中略)/登るときに比して、下山する時の辛さ、苦しさ、靴底が平らな所へもつてきておまけに赤土の急な坂道が辷つてあぶなくてたまらない。一寸でも油断しようものならつるつとすべつて、千丈の谷底でもないが、外套から何から泥だらけになつて泣面をしなければならないのだから、危険なこと極りない。思はず足を辷らしてあはて、傍の笹薮の中へ飛び込む。お蔭でヅボンがびしよぬれになつてつめたくてたまらない。山麓のしめり切つた赤土畑に桐の紫がさみしく散る。海岸の里ではあるが山村の峡の様な感じがしてうれしい。段々畑には青麦がのびのびとしてゐる。野に山に新緑の美しい輝きが満ちみちてゐる。
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当時の千畳敷山(湘南平)には、休息する茶屋もなければ戦後のようなレストハウスもなく、中学生たちは雨の中を山道で滑って泥だらけになりながら下山している。同山のハイキングコースは、雨が降ると今日でも山道を横切る沢が突然出現する箇所がいくつかあり、また水に濡れると滑りやすい箱根連山や富士山の火山灰地質のため、滑って転ばなかった生徒はひとりもいなかったのではないかと思われる。いまでは、ところどころに土止めが整備され、急斜面には階段状の横木がわたされた山道となっているが、大正当時は自然のままの状態だったろう。当日は風も強かったようなので、目白中学生たちはなかば冒険気分で湘南平へ登ったのではないだろうか。
また、生徒たちは地元で、千畳敷山には「朝倉義景の館があった」という伝承を採取しているけれど、彼らも不可解に感じているように鎌倉期の“誰か”の館と、室町期の朝倉義景とを混同してしまったものか、あるいは江戸期の他愛ない講談のたぐいの出来の悪い付会なのかは不明だが、大磯と越前の朝倉家との接点はまったく存在しない。
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修学旅行の日は、風雨が強くて肌寒かったと思われるのだが、大磯は明治期から海水浴とともに首都圏を代表する別荘地として拓けてきた。夏の避暑や冬の避寒はもちろん、春秋にも美しい風景を楽しめる、他には見られない四季折々を通じての別荘保養地だ。特に千代田城Click!の御殿医で、のち蘭学ではなく西洋医学を初めて学び初代陸軍軍医総監をつとめた松本良順(のち松本順)による海水浴場が設置されたせいで、東京人たちにとってはあこがれの別荘地となった。
真夏である8月の平均気温が26.2℃、いちばん寒い2月の平均気温が5.4℃(2010年測定値)で、春は花見に秋は紅葉と海や山の風情を1年じゅう楽しめる大磯は、東京人にとっては人気ダントツの別荘地だった。当時は町域の狭さと宅地の稀少性から、鎌倉よりも大磯のほうが地価がかなり高かっただろう。事実、わたしの父方の祖父は大磯に別荘を持ちたがったようだが、土地が高くて手が出ず場所を熱海に変更Click!している。いまでこそ、大磯は東京への通勤圏内となり、別荘地の面影はかなり薄れているけれど、古くからの江戸東京人には憧憬の街であり、他の別荘地とは格ちがいの別天地、それが大磯という街の位置づけだった。たとえば「大磯」と同じ別荘地である「軽井沢」とのスタンスのちがいは、ブームになっている「江戸東京学」に興味をもたれている方には、古くからの花柳界である「柳橋」や「日本橋」と明治以降の新しい「新橋」や「赤坂」の存在に近い関係……といえば、その感触がお分かりいただけるだろうか?
近年、その大磯地域を自然や地勢、歴史、物語、風俗文化を含め、全的にとらえようとする「大磯学」が起ち上げられているようだ。2013年に創森社から出版された『大磯学―自然、歴史、文化との共生モデル―』には伊藤嘉一、小中陽太郎、坂上寛一、高津茂など多彩な分野の方々が執筆している。同書の「はしがき」から引用してみよう。
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JR東海道線大磯駅の北側は丘陵末端部が間近に迫っており、現在は駅北側の出入り口がなく、南側に改札口があるだけである。駅前ターミナル広場の周辺には高層ビルがなく、銀行もパチンコ屋も見当たらない。首都圏の駅前としては珍しいことである。/広場の隅には旧サンダース・ホーム(澤田美喜記念館Click!)があり、いわゆる洋食屋があるかと思えば、瀟洒な料理屋がある。機能的な広場ではなく、アットホームな雰囲気がある。市営バスがなにか不釣り合いな気までしてくる。/町は相模湾に面し、東西に細長い。大磯丘陵の南の低平地に主要な生活の場がある。JR東海道線と国道1号線(東海道)がこの低平地部分を並行して走っている。大磯町の商店街は東海道沿いであるが、その街並みも華美さは一切ない。/なぜこのような落ち着いた街並みを維持できたのか。町の歴史を繙くと、歴史に裏打ちされた伝統の町であることが了解できる。このような町の努力とその成果としての町の良好な雰囲気は、湘南の一隅として他に代えがたい価値がある。
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文中の「市営バス」は、神奈中バス(神奈川中央交通)で「私営バス」の誤りだし(それに大磯は市制ではなく町制だ)、「湘南の一隅」ではなく同書でも高津茂が書いているとおり、大磯はその名が発祥した「湘南」の中核地点なのだが、地質時代から現代までの一貫した各時代ごとの物語を紡げるのは、ここ新宿の落合の街とまったく同様の条件であり環境なのだ。そして、目白中学生たちが見た大磯の光景、あるいは佐伯祐三Click!が家族を連れて1927年(昭和2)の夏に訪れた大磯Click!の光景とは(尾張町Click!=銀座に生まれ育った地付きでプライドの高い米子夫人Click!が、避暑地にことさら大磯を希望したのではないかと推定している)、見ちがえるほど大きく様変わりをしてしまった……とは思えない風情を残している街でもある。
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さて、今年の11月で「落合道人」サイトは丸10年を迎える。東京でもっとも繁華な街=新宿区の片隅に、まるで忘れ去られたように武蔵野の森や湧水源が残り、いまだ野性のタヌキClick!が棲息する落合地域だが、どこか首都圏ではもっとも繁華な東海道線(東海道)の中で、独特な存在感を失わない大磯駅(宿)の街に通じるものを感じる。上掲の「はしがき」にある「大磯」を「落合」に読みかえてみても、ある側面では不自然さを感じない。ともに明治以降は、「海浜別荘地」または「郊外別荘地」として拓けた土地柄だ。わたしにとっては“マグネットポイント”である大磯と落合なのだが、「大磯学」に倣い「落合学」のようなものが成立するとすれば、さまざまな分野の多角的で斬新な視界が開けてくるのではないかと想像している。
このサイトの記事を読むと、いつもの街角がきのうとは少しちがって見える、そんなコンテンツづくりをめざしたい。それが、街をよく識ることであり、地域に愛着を抱くきっかけになると思うからだ。このサイトが、いつか生まれるかもしれない「落合学」のささやかな基層のひとつになれば、うれしい限りなのだが……。
◆写真上:わたしが子どものころから変わらない、東海道線の大磯駅舎。
◆写真中上:上左は、駅前にある岩崎別邸の丘。上右は、日本キリスト教団の大磯教会。下は、東海道(国道1号線)沿いの鴫立沢(左)と鴫立庵(右)。
◆写真中下:上は、小淘綾ノ浜から望む箱根連山。下左は、東小磯から眺めた千畳敷山(湘南平)。下右は、東小磯の線路近くにある旧・島崎藤村邸。
◆写真下:上左は、照ヶ崎の岩礁。上右は、西小磯の海岸に露出した「大磯層」の岩礁から採れる貝化石。ときに、魚の化石やサメの歯の化石が見つかることもあり、付近の小学生にはうれしい自由研究ポイントだ。下左は、わたしが子どものころからクルクルと用途や店が変わる旧・木下別荘。下右は、2013年に出版された『大磯学』(創森社)。