1979年(昭和54)7月1日、西落合(旧・葛ヶ谷Click!)に住んでいた瀧口修造が死去したとき、大岡信は同年の『現代詩手帖』8月号に「タキグチさん。/宇宙青ですか、/そこは。」ではじまる、追悼詩『西落合迷宮―瀧口修造氏に―』を寄稿した。その一部を、同誌から引用してみよう。
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西落合。
書斎は迷宮。
ですね。
隣りの部屋から、
おくさんが、
お茶をはるばる
運んで渡つていきました。
ぼくはそれを、
目白通りで、見てゐます。
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瀧口修造の死後、瀧口の存在を慕う人たちの“西落合参り”は、いまもつづいている。きょうの記事は、その“西落合参り”ではなく大岡信が追悼詩を詠む700~800年ほど前、まだ一帯は鎌倉街道が整備されたばかりで、おそらく葛ヶ谷(当初は「くずがや」ではなく「かつらがたに」とも)と名づけられたばかりのころの、“葛ヶ谷参り”について書いてみたい。以前にも記事Click!で触れているけれど、北斗七星(または北極星)あるいは妙見神(または妙見菩薩)への信仰にともなう、葛ヶ谷に設置された妙見山の探訪だ。
日本の北斗七星信仰は、別に外来宗教である仏教が朝鮮半島からもたらされるはるか以前、縄文時代から存在している「日本」の始源的な信仰のひとつだ。それが妙見神信仰Click!と広く結びついたのは、おそらく平安期末から鎌倉期にかけてだと思われる。同時期からの伝承と思われる「葛ヶ谷の起りと鎮守の事」が収録された、1932年(昭和7)7月発行の大澤永潤『自性院縁起と葵陰夜話』(非売品)から、当該箇所を引用してみよう。
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尚古へから鎮守境内に牛頭天王と村内の谷戸といふ地に妙見山といふことに就いて伝説があります。牛頭天王には或る書にこの神は具には和魂の神、牛頭大神と申しまして、往古より悉く大地を宰り、人々の貧富病快を任じて諸の疫病神の主であると申されてゐます。この神を信ずるものは疫病を除き、禍を転じて福をお授け下さる神様として信仰されてゐます。又妙見山は妙見菩薩即ち「北斗七星又一説にはこの北斗の一星とありますが、又或書には妙見の功徳を説いて七星とし、総じて北極星をいふとあります」 この菩薩を祀りし地といひ伝へられます。
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この中で、御霊社がらみで語られる妙見神への信仰が「妙見菩薩」とされているのは、記録者が自性院=仏教者であるゆえんだろう。「鎮守境内」とあるのは西落合の葛ヶ谷御霊社の境内のことであり、北斗七星(妙見神)信仰とともに「牛頭天王」の伝承がセットになって存在しているのが、なによりも興味深い。「牛頭天王」は、出雲神であるスサノオの別称であり、ちょうど「大黒」が出雲神であるオオクニヌシの別名ととらえられるのと同じような位置づけだ。
つまり、平安末か鎌倉期にかけ葛ヶ谷(西落合)界隈では、妙見信仰と出雲神がどこかで連携して意識されており、明治期に下落合へ転居を考えていた将門相馬家Click!(1913年に転居)が、おそらく妙見神と神田明神Click!のオオクニヌシや氷川明神のスサノオ・クシナダヒメなど、出雲神との結びつきClick!(結界)を強く意識していたらしい気配と同様、非常に類似した信仰心(換言すれば世界観)を、700~800年前の葛ヶ谷でかいま見ることができるのだ。
さて、ここに記述された「妙見山」とはどこにあるのだろうか? 葛ヶ谷(西落合)地域で「谷戸」と表現される谷間は、以前に落合分水Click!(千川上水の分水)でご紹介した谷間しか存在しない。その谷戸に沿った丘陵で、明らかに頂上のある“山”状の場所は、これもたった1ヶ所しか存在していない。まさに、『自性院縁起と葵陰夜話』の巻末に添えられた、おおざっぱな絵図に記載されているあたり、耕地整理が行われる前の明治期に作成された地籍図の地番でいうところの落合村(大字)葛ヶ谷(字)北耕地202番地界隈、耕地整理後は旧・西落合1丁目176番地あたり、すなわち現在の西落合3丁目7・9・10・11番地に囲まれた交差点あたりが、妙見山のピークだと思われる。この交差点から、東南北いずれの道路を向いても急な下り坂であり、西側はゆるやかな傾斜だがほぼ平坦で、このような山らしい形状は葛ヶ谷の谷戸地域ではここにしか存在していない。
旧・西落合1丁目149番地の瀧口修造邸や、同1丁目338番地にあった東京国立近代美術館の初代館長であり美術史家の富永惣一邸にもほど近い。松下春雄アトリエClick!または鬼頭鍋三郎アトリエClick!から、南南東に400mほど下がった位置にあたる。
おそらく、大正末あたりからスタートした耕地整理の前は、街道筋あるいは付近の村々から眺めれば、明らかに左右へ裾野を拡げる山嶺、ないしはところどころに集落のある△状の段々畑のように見えていただろう。鎌倉期から時代が下って、室町後期あるいは江戸期に入るころからだろうか、妙見信仰の事蹟は妙見山の存在とともにすっかり忘れ去られ、妙見山の山麓も次々と田畑へ開墾されて、由来の古い葛ヶ谷御霊社あるいは自性院に残る伝説としてのみしか、語られなくなってしまったのだ。
もうひとつ、葛ヶ谷にあった妙見山の位置関係がとても面白い。周囲を、出雲神の氷川明神社に囲まれているのだ。しかも、妙見山に近い位置の氷川社4社は、主柱がスサノオである点にも留意したい。すなわち、妙見山の真南には上高田氷川社Click!(スサノオ)、南西には沼袋氷川社Click!(スサノオ)、北西には江古田氷川社(スサノオ)と豊玉氷川社(スサノオ)、さらに南東にはやや離れて下落合氷川社Click!(クシナダヒメ)と高田氷川社Click!(スサノオ)、北東にもやや離れて長崎氷川社Click!(現・長崎神社:クシナダヒメ)と、出雲神だらけのほぼ中心点に妙見山が位置していたことになる。そして、周囲の氷川社はスサノオ5社とクシナダヒメ2社とで、偶然にも計7社を数える。
さて、いまから700~800年ほど前の人々は、牛頭天王や妙見神(習合して妙見菩薩)への信心から、その信仰を深めるために葛ヶ谷に展開していた社や寺、ときには妙見山へも参詣したのだろう。その時代の妙見山は、はたして北斗七星(または北極星)からの“気”が降りそそぐ聖なる山(ご神体)として立入禁止だったものか、あるいは今日のパワースポットのように山頂へ上って瞑想する、一種の修験・修行の場であったものだろうか。
昭和初期に耕地整理が完了し、住宅街として開発された西落合の街並みからは、星降る神聖な妙見山の姿を想像するのは、もはや困難だ。それとも、星空がきれいに見える「宇宙青」の宵、この交差点から北斗七星や北極星を眺めていると、なにか特別いいことでも起きるのだろうか。それとも、東南北いずれの道路からも坂上のピークにあたる交差点なので、勢いをつけて上ってきたクルマにはねられ、目から星でも出るのだろうか。
◆写真上:葛ヶ谷の妙見山へと上る、新青梅街道側からの絶壁のある登山口。w
◆写真中上:上左は、落合分水が流れていた谷戸の現状。上右は、妙見山の東側からの登山口で山裾の商店街や地下鉄に出られるせいかもっとも登山者が多い。w 下は、1932年(昭和7)7月発行の大澤永潤『自性院縁起と葵陰夜話』に掲載された周辺伝説マップ。
◆写真中下:上左は、妙見山の東側斜面から谷戸方向の谷間を眺めたところ。登攀にはいちばん苦しいあたりだが、やたら軽装な高齢者の登山者が多い。w 上右は、1880年(明治13)ごろに作成された妙見山あたりの地籍図。中は、1936年(昭和11)の空中写真にみる妙見山。下は、耕地整理後の旧・西落合1丁目あたりの様子。
◆写真下:上は、1909年(明治42)作成の1/10,000地形図にみる妙見山とその周辺。中は、山頂からの四方の眺望で東南北が急激に落ちこんだ坂道になっている。下は、1921年(大正10)の1/10,000地形図にみる妙見山の地域的な位置関係。★はスサノオ、★はクシナダヒメが主柱の氷川社。