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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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星野家に残る目白文化村の空襲記録。

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星野邸・東条邸跡.JPG
 第二文化村Click!から南へと下る振り子坂Click!のとっつきに、戦時中は戦時金融金庫理事をつとめていた大きな星野剛男邸が建っていた。1923年(大正12)に箱根地土地Click!が第二文化村を販売するのと同時に、土地を購入して家を建てたのは陸軍中将で『落合町誌』(1932年)にも登場する父親の星野金吾だ。その子息である星野剛男は、1945年(昭和20)4月13日夜半の第1次山手空襲Click!を、その前後の出来事とともに記録している。
 星野剛男の「目白文化村の空襲記録」と題する日記は、空襲当日をはさみ東京や落合地域の様子を活写していてたいへん貴重だ。同年4月13日に、西武線沿線と川沿いの中小工場をねらった空襲で、第一文化村と第二文化村、そして第四文化村の大半が焼かれたClick!のだが、第三文化村はいまだ無事だったようだ。ところが、同年5月25日夜半に行われた第2次山手空襲Click!により、第三文化村もその大半が延焼した。星野邸は、4月13日の第1次山手空襲で焼失している。「目白文化村の空襲記録」の著者である星野剛男について、『落合町誌』から引用してみよう。
  
 日興證券株式会社支配人兼総務部長 星野剛男  下落合一,七二四
 陸軍中将星野金吾氏の長男にして明治二十二年七月を以て生れ、大正二年早稲田大学政治科を卒業し、日本興業銀行に入社後同行神戸支店支配人代理に累進、同九年同行の別働機関たる日興證券株式会社の創立に際し、同社大阪支店長に就任し兼て大阪株式取引所国債取引員となり、昭和二年同社本店営業部長を経て現時支配人兼総務部長の要職に在り、夫人春子は陸軍少将中岡彌高氏の令妹にて三輪田高女の出身、長男慎吾君は落合第一(小学)校を経て学習院中等科在学中である。(カッコ内は引用者註)
  
 星野邸は、以前よりご紹介している安東邸Click!から淀橋区長・山口重知邸をはさんだ2軒上、第二文化村の三軒道路に面して建っていた。うちの子どもたちがまだ小さかったころ、下落合みどり幼稚園Click!まで送っていく途中の、山手通りへと下りる坂道の右手角の敷地になる。佐伯祐三Click!「下落合風景」Click!でいえば、ちょうど第二文化村の水道「タンク」Click!「文化村前通り」Click!を描いた描画ポイントのすぐ背後にあたり、樹木が大きく育っていなかった当時、振り返れば巨大な星野邸が見えていたはずだ。1945年(昭和20)4月13日の、第1次山手空襲による目白文化村の焼失エリアとしては、この三軒道路沿いは最南端にあたる一帯だ。
星野邸1925.jpg 星野邸1926.jpg
星野邸1936.jpg 星野邸1944.jpg
 星野剛男による「目白文化村の空襲記録」は戦後、近くに住んでいた毎日新聞の名取義一に託され、1992年(平成4)にまとめられた地元資料『東京・目白文化村』にその一部が収録されている。かなり長くなるが、貴重な記録なので空襲前後の文化村の様子をご紹介したい。
  
 昭和二十年二月二十六日 晴
 昨日の雪晴れて終日快晴、夜月明らかなり。然し乍ら積雪三尺去る二十二日の大雪以上にして行路難。出務に意外の時間を要し十二時半事務所に到着。帰途山手線上野廻りにて早く帰る。途中昨日のB29盲爆の跡を車窓に見る。神田下谷殊に甚だし。神保町の本屋街全滅は文化の灰塵惜しむべし。
 同三月十日 晴
 (第四十四回陸軍記念日) 午前〇時半頃空襲警報、B29約百三十機宛連続房総方面より帝都上空に約三千乃至四千米の低空侵入し来たり都内各所に盲爆、東より南に亙り一帯に中空を紅に染むる火災頻発、午前三時漸く敵機退去。交通機関中絶の間を漸く四谷迄都電省電にて行き後は徒歩にて中岡家を見舞い金庫事務所に出務。職員等も全部出揃わず。/午後副総裁他役員と共に火災に罹りたる大野総裁邸を見舞い其焼け跡の惨Click!に驚く。
 同三月十二日 晴
 沢操より電話、昨日未明の空襲により芝公園地宅全焼、着のみ着のまま避難、水光社に一夜を明かし野原家に仮に引き移りたる由、大いに驚く。遂に空襲による親族中に犠牲者を出すに至れるは遺憾痛憤。
 同三月十五日 曇
 早朝七時警戒警報発令され情報によれば敵機動部隊の動き警戒を要するものありとの事。幸い無事にして午後三時解除さる。/調所政君来訪、令兄泰中尉十九年十一月十三日内南洋に於て名誉の戦死されし由海軍省より内報ありし趣通知さる。洵に惜しき事なり。
 同三月十八日 晴
 午後退避壕を地害物品入に改造に着手。(ママ)/午後警報二回鳴る。九州に敵機動部隊現れし由大本営発表あり。又此の日畏くも聖上(天皇)親しく鹵簿(ろぼ)を帝都罹災地に進めさせられ御巡幸遊ばさる。民草(たみくさ)をあはれと見そなわす大御心感激に不堪。
 同三月二十一日 晴
 大本営より悲痛なる発表あり。硫黄島守備の皇軍は遂に十七日全員壮烈なる総攻撃敢行、午後通信絶えたりという。/栗林中将最後の電文壮絶を極め感奮を禁じ難し。いよいよ本土に敵は近迫し来る。/都内は速に疎開を促進しつつあり。又帝国議会は軍事特別措置法案上程審議中なりという。(後略)
星野邸1938.jpg
星野邸1947.jpg
 同四月一日 晴
 朝八時頃一機侵入し来たり高田馬場駅付近に投弾Click!、大きな気味悪き音きこゆ。
 同四月四日 雨
 午前一時頃より四時二十分頃迄B29約九十機は単機又は数機編隊を以って低空より侵入し来たり、遂に淀橋区にも火災起これり。時限爆弾投下による轟音次々に聞え物凄し。
 同四月五日 曇
 小磯内閣総辞職す。
 同四月十四日 晴
 昨夜十一時頃B29来襲の警報鳴り渡り防空活動に入りしが従来に比し我が家の方面に来襲頻りなり。〇時過ぎ益々激しく遂に我が家に焼夷弾の集中爆撃し来たり一瞬にして全家屋炎上、火勢猛烈にして如何ともすべからず。遂に避難を決意して四人名を呼びあって御霊神社境内に赴く。/午前三時頃火勢静まると共に帰る。完全に焼けて一物を剰さず。敵米英の暴挙真に憎むべし。/防空壕に直撃弾を蒙りしに不拘、一同無事たりしは不幸中の幸というべし。/付近一帯より目白駅迄一面の焼け野原と化し去る。嶺田家の好意にて同家離れ家に立ち退き御厄介になる。
 同四月十九日 曇後雨
 罹災以来御厄介になりし嶺田家を本日限り辞去することとし同家の並々ならぬ好意に感謝しつつ午後二時暇乞いす。・・・去る昭和二年以来(先考の時より二十二年)のなつかしき下落合邸の廃きょに暫しの別れを告げて去る。洵に千万無量の感に不堪。/一日も早く再びここに帰り来ん事を期しつつ・・・。/敵機B29機と小型機五十機午前九時半頃来襲あり。
  
 罹災後の星野家の4人が、一時的に滞在していたのは坂道の途中に建っていた同じ第二文化村の、星野家からは斜向かいにあたる嶺田邸だった。同日の空襲では、道をはさんで坂上の星野邸と杉坂邸が全焼しており、坂の中腹の西側に建っていた先の山口邸と安東邸、東側に建っていた「空襲記録」にも登場している調所邸と嶺田邸の4軒が焼失をまぬがれている。
 ちなみに、1944年(昭和19)11月13日に戦死したとの報が入った、海軍の調所泰中尉の記述が出てくるが、当時の海軍はフィリピンへ上陸する米軍迎撃のために「捷一号作戦」を発動しており、10月中にフィリピン沖で行われたいずれかの海戦、あるいは航空戦に参加していたのではないか。また、11月13日は米軍の空母艦載機による、マニラ湾大空襲の日とも一致している。
星野邸1941.jpg
嶺田邸1.JPG 嶺田邸2.JPG
 余談だけれど、戦後、星野邸の広い敷地を購入して住んでいたのは、戦時中に米国の首府の名前を冠した店の名前が軍部からやり玉にあげられ、やむなく店名の変更を余儀なくされた銀座の大店の経営者である東條家だ。うちは以前より、ひょんなことから東條様とはおつきあいがあり、この春の京都旅行でも古い町屋への宿泊ではたいへんお世話になった。現在、第二文化村の東條邸Click!は解体され、その跡地には新築の住宅が9棟建ち並んでいる。

◆写真上:戦前は星野邸で戦後は東條邸だった、下落合1724番地の第二文化村の現状。
◆写真中上上左は、1925年(大正14)の箱根土地による「目白文化村分譲地地割図」にみる星野金吾邸。上右は、1926年(大正15)の「下落合事情明細図」にみる星野邸。は、1936年(昭和11)の空中写真()と1944年(昭和19)の空襲直前に撮られた写真()にみる星野邸。
◆写真中下は、1938年(昭和13)の「火保図」に描かれた星野邸。は、敗戦後の1947年(昭和22)に米軍が撮影した振り子坂界隈の様子で、いずれも北が左側になる。
◆写真下は、1941年(昭和16)に上落合上空の南斜めフカンから撮影された振り子坂界隈のめずらしい空中写真Click!は、第二文化村に安東邸とともに現存する嶺田邸。


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