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ヤギ牧場と家族は1トン爆弾で消えた。

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西武新宿線.jpg

 先日、寺崎マリ子の記事Click!でご紹介した、学習院生涯学習センターの猪狩章・編『記憶―私たち昭和と平成の自分史抄―』(蒼空社)の中に、井荻駅から西武電鉄Click!に乗って下落合駅で降り、5分ほど歩いたところにある戸塚第三尋常小学校へ通われていた方の手記がある。1938年(昭和13)に入学し、そのまま1941年(昭和16)から戸塚第三国民学校となるのだが、日米開戦の直前に井荻の桃井第五小学校へと転校された田村直幸様だ。
 入学当時の西武線は、1927年(昭和2)の開通時と変わらず1輌編成で、田村様の兄も通っていた関係により、井荻から戸塚第三小学校まで“越境通学”されていたらしい。当時の様子を、同書所収の田村直幸「この世から消えた山羊牧場」から引用してみよう。
  
 当時の西武線は一輌、乗客は少なくのんびりしたものだ。車掌は、駅に近づくと、/「お降りの方は?」と乗客に尋ね、乗降客がいなければ駅を通過してしまう。扉の開閉は手動で、自分で操作しなければならない。慣れないうちは手間取った。/やがて、車掌、運転手と顔なじみになった。席が空いていても、運転席の傍に立ち運転手の操作に見入っていた。ある日、運転手が、/「中に入んなよ」と助手席の椅子を勧めてくれた。横にいる運転手の操作を見ながら電車が走る。自分で運転しているような気分だ。その後、運転席に入る機会は来なかった。/しばらく経ち、西武線の乗降客が増えるにつれて、電車は二輌編成になり、さらに自動扉を採り入れた新しい電車に変わって行く。新しい電車では、運転席と乗客との間に仕切りがあり、運転室には立ち入れなくなった。
  
 ドアは手動で、車掌がいちいち降客を確認しているのがわかる。おそらく、西武線の開設から10年が経過した当時も、開業時Click!と変わらない運行形態がとられていたのだろう。電車が2輌編成になったのは、太平洋戦争が近づいた時期であり、車輌に自動ドアが装備されたのはさらにあとだったことがわかる。ただし、筆者は日米開戦が近づいた1941年(昭和16)の秋から、戦時なので電車通学は危険だという理由により、井荻にある地元の小学校へ転校しているので、西武電車に自動ドアが導入されたのは太平洋戦争以前のことだ。引きつづき、手記を引用してみよう。
  
 学校生活に慣れてくると、放課後直ぐ帰宅せず、友達と遊ぶ時間を持つようになった。友達は、下落合から高田馬場にかけて、今の早稲田通りの周辺にほとんど住んでいる。通りの南側は、当時、広大な「戸山ヶ原」Click!が広がり、子供たちのいい遊び場になっていた。友達の鷲尾君の家にランドセルを置き、近くの戸山ヶ原で遊んでから帰宅することが多くなった。/三年生になってから、吉田君と仲良くなった。彼の家は、高田馬場駅に近い雑貨屋だ。ある日、「映画、見に行こうよ」と誘われた。映画館戸塚東宝がすぐ近くにある。彼のお母さんも勧めてくれた。もう一人の友達、岡君も一緒だ。三人で見た映画は、片岡千恵蔵主演の「宮本武蔵」シリーズだ。この時から千恵蔵ファンになった。(中略) 一九四一年、四年生になると、戦争拡大の恐れから電車通学は止めた方がいいということになり、二学期から地元の桃井第五小学校に転校した。
  
 ここに登場する映画館「戸塚東宝」とは、山手線の高田馬場駅から早稲田通りを西へ50mほど歩いたところにある、戸塚町3丁目155番地の映画劇場(旧・戸塚キネマ)のことで、現在の三菱東京UFJ銀行に隣接する西側の敷地にあたる。ちなみに、1995年(平成7)に発行された『戸塚第三小学校/周辺の歴史-付 昔の町並み』のイラストClick!で探してみたが、戸塚東宝の直近にある斜向かいの「田中雑貨店」は見つかったものの、「吉田雑貨店」は見あたらなかった。商店街のイラストが1938年(昭和13)現在とほんの少し早めなため、「吉田雑貨店」はいまだ開店してなかったか、あるいはイラスト作者の「田中」と「吉田」の記憶ちがいなのだろうか。
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 太平洋戦争が進むにつれ、都市住民を中心に食糧事情が急速に悪くなっていく。井荻の田村家では、配給の食糧だけでは子どもたちが栄養不足になるため、近くのヤギ牧場に頼んで毎朝、新鮮なヤギの乳を配達してもらっていた。すでに、牛乳は市場から姿を消し、肉類も闇で流れていたものを入手する以外、口に入ることはなくなっていた。
 育ちざかりの子どもたちを抱えた家庭では、食べ物の調達がなによりも大きな課題としてのしかかり、あらゆる手段を尽くし伝手(つて)を頼って、1日じゅう食糧入手に奔走しなければならなくなった。わたしの祖父母もそうだったが、朝起きるときょう1日の食べ物の心配をまずしなければならない、「戦争なんぞやってる場合じゃねえだろ」の飢餓状況は、敗戦後までしばらくつづくことになる。むしろ毎朝、ヤギの乳が配達される東京郊外の田村家は、当時としてはめぐまれていたほうだろう。
  
 西武線井荻駅・上井草駅間の北側は、当時は田園で小川が流れていた。その北側の斜面に山羊の牧場があり、ここで山羊乳の配達をしてくれることを母は知った。子供の栄養不足を補おうという親心だろう、毎日一合瓶の配達を頼んでくれた。牛乳は全く手に入らない時代だった。/配達に来た人の話を聞いて驚いた。小学校時代に級友だった唐木君のお母さんだった。小学校時代、唐木君の家が山羊牧場だとは知らなかった。中学は別だったから唐木君とは疎遠になっていた。/山羊乳を飲むのは楽しみだった。時々は、唐木君の美人のお姉さんが配達することもある。しかし、この山羊乳とはしばらくして縁が切れることになる。/一九四四年十一月二十四日、東京西郊はB29の大編隊に初めての爆撃を受ける。飛行機工場が爆撃の対象だ。一九四五年に入って爆撃は次第に激しくなり、夜間に防空壕に入る機会が多くなる。近くに高射砲陣地ができてから、爆弾が付近に落ちることも珍しくなくなった。(中略) ある晩、空襲警報が響き、防空壕に駆け込んだ。この夜は近くに爆弾が落ちたらしい。/翌日になって、噂が飛んできた。山羊牧場を一トン爆弾が直撃し、唐木君一家が全滅したという。信じられなかった。
  
 このヤギ牧場がどこにあったのか、1941年(昭和16)に陸軍によって斜めフカンから撮影された井荻駅-上井草駅の空中写真と、戦後1948年(昭和23)に米軍によって撮影されたそれとを見比べてみると、妙正寺川の湧水源である妙正寺池Click!へとつながる井草の小川(現在は暗渠化)が、西武線を逆U字型に北へと横切っているのがわかる。この小川の北側斜面(南向き斜面)で、1941年(昭和16)には存在していた建造物が、1948年(昭和23)には消滅している場所が、1945年(昭和20)の空襲時に1トン爆弾が投下・炸裂したヤギ牧場だろうと推定してみた。当時の地名でいうと、杉並区矢頭町界隈だ。
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上井草-井荻19410727.jpg

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 すると、井荻駅を出てすぐ右手、上井草駅へ向かう線路のすぐ北側に、密集して建っていた牧舎のような建物が、敗戦後の写真にはまったくなくなり、更地のようになっているのが見てとれる。地番でいうと、杉並区矢頭町40番地あたりだ。この建物の右手(東側)には、空き地のようなスペースがあるのだが、そこがヤギたちを放し飼いにしていた牧草地ではないだろうか。1トン爆弾は、おそらくB29が三鷹(西武線では東伏見駅近く)にあった陸海軍の中島飛行機武蔵製作所Click!(戦争末期には第一軍需工廠)を爆撃するために搭載してきたものであり、ヤギ牧場の牧舎がなんらかの部品工場か高射砲陣地にでも見えたか、あるいは余剰爆弾を投下していったのだろう。250キロ爆弾ならまだしも、1トン爆弾を落とされたら、たいていのコンクリート建築でも飛散するとんでもない破壊力だ。木造の牧舎はもちろん、3~4mほど掘り下げた防空壕でさえ、ひとたまりもなかっただろう。爆撃後の斜面には、巨大なクレーターができていたのではないだろうか?
 矢頭町40番地界隈の建物が、もし手記に書かれたヤギ牧場だったとすれば、神戸町の外山卯三郎邸Click!里見勝蔵アトリエClick!から線路をはさんで、わずか400mほどしか離れていないため、両家には1トン爆弾によるヤギ牧場全滅のエピソードが残っていたはずだ。おそらく、すさまじい振動と衝撃波が伝わってきたのではないだろうか。
 軍国少年の筆者は、戦時中、田河水泡Click!の「のらくろ」の大ファンだった。ところが、建築家で反戦意識の強かったらしい父親から、「のらくろ」漫画を読むことを禁じられている。そのような家庭環境だったせいか、戦後、筆者が「軍国少年の呪縛」から案外早く解放されているのを、前回の記事でも少しご紹介している。でも、例外的に『のらくろ探検隊』だけは買ってくれたようだ。同作は、すでに「のらくろ」が軍隊を退役して一般市民にもどり、起業家として活躍するストーリーであり、どうやら戦闘シーンがなかったかららしい。軍国少年だった筆者は、戦闘で敵(豚の国=中国)をやっつけて羊の国=「満州国」を助ける筋立てがないのに、少なからず不満だったようだ。
  
 なぜか父は、「のらくろなんか読むと、のらくら者になる」と言ってのらくろ漫画を買ってくれなかった。のらくろ漫画は、友達から借りて読むよりしようがなかった。机の引き出しに借りた漫画本を開いたまま入れて、読みふける。親が部屋に入りそうな気配があると、あわてて引き出しを閉めて勉強をしているふりをした。/ある日、のらくろ漫画シリーズで新しく出版された『のらくろ探検隊』を、母が買ってきてくれた。(中略) それにしても、父は何故『のらくろ探検隊』だけ買うことを許してくれたのだろう。父に直接聞いたことがないので本当のことはわからない。建築家で平和主義者だった父が戦争に疑問を持っていたことは、子供心に感じていた。豚軍との戦闘で活躍し、大陸を侵略する「のらくろ漫画」を自分の子供が読むことは許せなかったのかもしれない。
  
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のらくろキャラクターと田河水泡.jpg

 余談だけれど、うちの親父もやはり家庭環境Click!からか「のらくろ」はキライだったようで、麻生豊の「ノンキナトウサン」や、1941年(昭和16)12月8日の開戦日まで日本橋の映画館で上映されていたディズニーアニメなどを、好んで観賞しながら育ったようだ。わたしが小学生のとき、海水浴で日焼けし皮がむけはじめた鼻のアタマを真っ赤にしていると、よく「おい、ノンキナトウサンみたいになってるぜ」といわれたものだ。わたしには当然、まったく意味不明だったのだが……。

◆写真上:下落合駅を出てすぐ、千代久保踏み切りにさしかかる上りの西武新宿線。
◆写真中上は、昭和初期に撮影された落合西端の妙正寺川をわたる1輌の西武電車。は、1931年(昭和6)に出版された『戸塚町誌』(戸塚町誌刊行会)の戸塚第三尋常小学校。は、1936年(昭和11)の空中写真にみる戸塚第三小学校()と同校の現状()。
◆写真中下は、濱田煕「昔の街並み」にみる1938年(昭和13)現在の戸塚東宝映画劇場。は、1941年(昭和16)の空中写真にみる山羊牧場(唐木家)と思われる矢頭町40番地あたりの建物。は、1948年(昭和22)の米軍写真にみる同所。
◆写真下上左は、1924年(大正13)に制作されたマヴォClick!時代の構成主義的な高見澤路直(田河水泡)『作品』。上右は、大正期に上落合の村山知義Click!が主宰した「マヴォ」へ参加していたころの高見澤路直(田河水泡)。下左は、復刻版の『のらくろ漫画全集』(講談社)。下右は、戦前・戦中に「のらくろ」漫画が大ヒットした田河水泡は一時期、下落合の第一文化村Click!に住んでいる。


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