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1935年(昭和10)の秋は、大正末から昭和初期に死去した画家たちの遺作展・回顧展が、盛んに開催されたようだ。しかも、3人全員が下落合に住んでいた画家たちだった。ひとりは、下落合661番地にアトリエをかまえ、1928年(昭和3)にフランスで客死した佐伯祐三Click!、もうひとりは牧野虎雄アトリエClick!の斜向かいにあたる下落合596番地に住み、1934年(昭和9)に自栽した片多徳郎Click!、そして下落合464番地のアトリエに住み、1924年(大正13)暮れに病死した中村彝Click!の3人だ。
それらの遺作展・回顧展の展評が、1935年(昭和10)に発行された『アトリエ』11月号へ同時に掲載されている。それを読むと、1935年(昭和10)現在でそれぞれの画家が、すでにどのようにとらえられ、位置づけられていたのかがわかって興味深い。まず、新宿紀伊国屋の2階展示場Click!で開かれた、片多徳郎遺作展の展評を同誌から引用してみよう。片多作品は、晩年になるほど不遇で「置きざり」にされた表現ように書かれているが、おそらく片多の今日的な人気とは逆のとらえ方ではないだろうか。
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片多氏はその悲劇的最後によつても知られてゐるやうに、晩年は甚だ恵まれなかつた作家であるが、僕は時代に常に一歩を先んじてゐるために恵まれない芸術家と、時代を追つて遂に置きざりにされる芸術家とがあり、片多氏は恐らく後者ではあるまいかと思ふ。制作年代順に見ると、片多氏は常にその時代から一歩おくれてゐるやうに思はれる。どこか退嬰的で低徊趣味である。下図で見てもわかるが「霹靂」を描いた頃が彼の一番元気のあつた時で、而も、当時決つして進歩的な作品ではなかつた。たゞ片多氏が才能よりも粘り強い努力の作家であつたことは遺作展を見てもわかる。鉛筆の素描ではあるが「肖像」などを見ると、彼が如何に絵画の基礎的な勉強に努力したかが窺はれるのである。
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次に、銀座三昧堂で開かれた中村彝遺作展の様子を引用してみよう。この遺作展はセザンヌとルノアールの画面を、そのままコピーしたような作品が多かったものか、まったく評価されていない。おそらく、岸田劉生Click!が日本美術としての油絵ではなく欧米の猿マネ表現に憤慨Click!し、「こんなもん描きゃがって、バッカヤロー!」というような作品が並んでいたのではないだろうか。つづけて、同誌から引用しよう。
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最後に中村彝の遺作展だが、今更彝を引張り出さなくてもといふ感じもあるし、それに遺作展などと大きな顔で言へた内容でもない。殆んど彝の作品としては駄作に属するものであるし、セザンヌとルノアールの影響で作品が二分されてゐる感じで、甚だ変なものである。このやうな遺作展観は個人に対する礼儀としてもやらない方がいゝと思ふ。
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これらの展評に比べ、1935年(昭和10)10月3日から15日まで銀座三共画廊で開かれた、佐伯祐三回顧展の評価が高い。筆者の尾川多計は、同号の展評で二科の曾宮一念Click!を好意的な表現でオリジナルの「有閑芸術」家だとし、梅原龍三郎を「ブルジョア意識」をもつ「有閑知識階級の愛玩的価値」しかない画家だと規定しているところから、おおよそその視座を想定することができる。ちなみに同年、銀座三共画廊では下落合にも住んだ前田寛治Click!の遺作展も開催されている。
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佐伯祐三回顧展には、88点の作品が出展されており会場写真も添えられている。『アトリエ』11月号から、佐伯展評を引用してみよう。
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佐伯祐三氏も片多氏と同様最後は悲劇的だつたが彼の方は激情的な芸術的闘争の最中に夭折したといふ関係からか、どこかに華かなものが感じられる。それだけではない。彼は時代の暗澹たる空気を反映し、がむしやらに性急に何かを求めてゐたといふ点はるかに進歩的である。しかし、この激しい狂気に近い追求的態度を以て彼を一代の天才のやうに考へるのはどうだらうか。彼は天才ではなくて芸術と心中した悲劇的英雄だと僕は思ふ。/今度の回顧展は八十余点の相当まとまつたものだ、(ママ) 殆んど佐伯の芸術の全貌をうかゞへるが、彼の作品をヴラマンクの追従だといふ従来の世評は正しくないことを僕は改めて感じた。佐伯の絵は飽くまで佐伯自身のものである。と同時に、彼の持つユニークな鋭いそして流動する感覚を表現する対象は日本にはなかつたと思ふのである。これは日本人である佐伯の致命傷でなければならない。
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記事に添えられた、回顧展会場の写真が興味深い。日本制作と思われる作品が架けられた一画が写っており、そこにはアトリエの近所に住む笠原吉太郎Click!へプレゼントしたタブロー『K氏の肖像(笠原吉太郎像)』Click!とは別に、佐伯が手もとに残した別バージョンの習作『男の顔(笠原吉太郎像)』が写っている。この作品は、山發コレクションClick!をもとに編集された『山本發次郎氏蒐蔵 佐伯祐三画集』(座右宝刊行会/1937年)に掲載されている『男の顔』(以下、山發画集No.66)とも異なる別のバージョンで、つまり佐伯は『K氏の像(笠原吉太郎像)』を描いた前後に、笠原吉太郎をモチーフにした肖像画を少なくとも3点描いていることになる。なお、同作は1980年代に海外のオークションにかけられているようで、先にご紹介した『下落合風景(散歩道)』Click!と同様、現在は海外にあるのかもしれない。
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山本發次郎Click!は、1935年(昭和10)の佐伯祐三回顧展で、自身のコレクションも出品しているようだが、同時に佐伯家と池田家に残され、同展に出品された両家所蔵の多くの遺作をほとんどすべて購入している。(山本發次郎年譜における記載だが、山尾薫明は88点すべては両家の所蔵品だとまったく異なる記述をしている) 会場写真では、左端に写る『ロシヤの少女(A身)』(山發画集No.33)と、ふたりの男が立ちどまっている右隣りの『工場Ⅰ』(山發画集No.22)の作品が、すでに大阪にある額縁工房の工臣長之助が制作したと思われる、特徴のあるオリジナル額に入れられている。しかし、『男の顔』を含め、一般的な額に入れられたもの、たとえば中央の女性の上に見えている『リラダンの雪景Ⅰ』(山發画集No.39)や女性の陰になっている『リラダンの雪景Ⅱ』(山發画集No.40)、右側のパーティションに見えている『壁』(山發画集No.16)などは、佐伯・池田両家から同展へ出品され、この時点で山本發次郎へ売却された作品群だろう。
また、『男の顔』の右横に見えているのは、下落合と葛ヶ谷(現・西落合)の境界あたりの目白通りを描いた『下落合風景(目白通り)』Click!だろう。同作画面の右半分には、少し下り坂になった敷地に第三府営住宅Click!の大きめな屋敷群が描かれている。この作品は、同展で山本發次郎に買われたとすれば、山發コレクションに含まれていたはずだ。だが、1979年(昭和54)に出版された『佐伯祐三全画集』(朝日新聞社)では、モノクロ写真でしか掲載されていないし、わたしもカラーでは一度も観たことがないので、ひょっとすると先の神戸空襲で失われてしまった山發コレクションの1点なのかもしれない。
さて、最後に遺作展ではなく、下落合623番地にアトリエをかまえた曾宮一念の個展評を引用しておこう。先述したけれど、梅原龍三郎の個展がほとんど「悪評」に近いのに対し、曾宮一念の作品は梅原と同様に「有閑芸術」と規定しながらも、そのオリジナリティをどこか好意的に評価している。
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曾宮一念氏は色彩感覚の鋭いオリヂナルな作家である。描く対象物は主として花であるが、彼はその対象を、自分の持つている生活感情を表現する手段としないで、絢爛たる模様として、甚だ楽しげに、なんの渋滞もなく描いてゐる。そこが彼の持味でもあり、吾々の物足りなく感ずる点でもある。彼は人間を描かない。人間は彼の美しい模様には恐らく不必要なのだらう。彼の作品に梅原氏のブルジヨア意識は毛頭感じられないが、同じ温室に咲いた有閑芸術の花であることに変りはない。
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同評をどこかで読んだ曾宮は、「オレぁそれほど、ヒマてえわけじゃねえんだけどな~」と、ボソッとつぶやいたかもしれない。w
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山發コレクションのうち、神戸空襲時に確認されているのは104点であり、そのうち62点を焼失したことになっている。しかし、これらの作品は人臣額に入れられ、疎開を視界に優先的にリストアップされた点数(おそらく山本發次郎とともに、山尾薫明や國田彌之輔がリストを作成しているだろう)であって、単に購入したまま保管されていた作品点数は、もっと多いのではないだろうか? なぜなら、それは國田の証言からもうかがわれるし、1930年代にはすでに120点の佐伯作品を所蔵していた記述(子息の山本清雄は最終的に250点と書いている)が、山本發次郎の年譜には見えているからだ。その中には、『目白風景』(山發画集No.67)のほかにも、『下落合風景』が何点か含まれていたかと思うと残念でならない。
◆写真上:1935年(昭和10)10月に、銀座三共画廊で開かれた佐伯祐三回顧展の会場。
◆写真中上:上は、大分市所蔵の1923年(大正12)制作の片多徳郎『初夏』(左)と、1928年(昭和3)制作の片多徳郎『自画像』(右)。下は、茨城県近代美術館所蔵の1913年ごろ描かれた中村彝『静物』(左)と、1909年(明治42)制作の中村彝『自画像』(右)。
◆写真中下:上左は、佐伯祐三回顧展写真の拡大。上右は、1927年(昭和2)制作の佐伯祐三『男の顔』。中左は、1927年(昭和2)に制作し笠原吉太郎に贈られた佐伯祐三『K氏の像(笠原吉太郎像)』。中右は、『山本發次郎氏蒐蔵 佐伯祐三画集』に収録された佐伯祐三『男の顔』(No.66)。ただし、展示会場に架けられた『男の顔』も山本發次郎が購入し、当初は山發コレクションに含まれていた可能性がある。下は、1926年(大正15)ごろ目白通りを描いたと思われる佐伯祐三『下落合風景』。
◆写真下:上は、1925年(大正14)ごろ制作の佐伯祐三『リラダンの雪景Ⅰ』(山發画集No.39/左)と同『リラダンの雪景Ⅱ』(同No.40/右)。中は、1928年(昭和3)の佐伯祐三『ロシヤの少女(A身)』(山發画集No.33/左)と、1925年(大正14)制作の同『壁』(同No.16/右)。下左は、1928年(昭和3)制作の佐伯祐三『工場Ⅰ』(山發画集No.22)。下右は、神戸空襲で焼失した山發コレクションの佐伯祐三『目白風景』(山發画集No.67)。