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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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『武蔵野』と『武蔵野夫人』のリアリティ。

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ハケの屋敷.JPG
 「武蔵野」というワードは、昔から国木田独歩の『武蔵野』(1898年)がまずイメージされるようだけれど、わたしはこの作品にまったくピンとこない。短い作品なのですぐに読めるのだが、読んでは忘れ読んでは忘れを繰り返している。それほど、印象に残らない作品なのだ。もっとも、国木田がロシア貴族のイワン・ツルゲーネフばりの自然描写を模倣して、どこか「武蔵野臭」ではなく「ロシア臭」がするせいなのかもしれない。実際の武蔵野の趣きからは、乖離しているように感じてしまう。
 国木田独歩が生きていた時代、「武蔵野」というといまだ埼玉(北武蔵)や神奈川(南武蔵)を含めた、広い範囲が意識されていただろうか? 古代から、武蔵野の概念や範囲がどんどん小さくなり、ついには武蔵国=江戸東京と本来の何分の1かに“縮小”されるのは、あたかも中国地方全体あるいは四国地方にまで拡がりをみせ、広大だったと思われる「出雲」の概念が、出雲国(島根県の一部)にちぢめられて“集約”されてしまうのに似ている。
 『武蔵野』には、人物がほとんど登場しないところもまた、印象を薄めている要因だろうか。唯一、生きた人間が登場して会話をするのは、著者が武蔵境を訪れて掛茶屋の老婆と会話をするシーンだ。その点描の箇所以外、人間らしい人間がいっさい現れないのは、まるでロシアの原野を逍遥する、「余計者」で「無力」な貴族ツルゲーネフのようだ。
  
 今より三年前の夏のことであった。自分はある友と市中の寓居を出でて三崎町の停車場から境まで乗り、そこで下りて北へ真直に四五丁ゆくと桜橋という小さな橋がある、それを渡ると一軒の掛茶屋がある、この茶屋の婆さんが自分に向かって、「今時分、何にしに来ただア」と問うたことがあった。/自分は友と顔見あわせて笑って、「散歩に来たのよ、ただ遊びに来たのだ」と答えると、婆さんも笑って、それもばかにしたような笑いかたで、「桜は春咲くこと知らねえだね」といった。そこで自分は夏の郊外の散歩のどんなにおもしろいかを婆さんの耳にも解るように話してみたがむだであった。東京の人はのんきだという一語で消されてしまった。自分らは汗をふきふき、婆さんが剥いてくれる甜瓜を喰い、茶屋の横を流れる幅一尺ばかりの小さな溝で顔を洗いなどして、そこを立ち出でた。
  
 三崎町の停車場(飯田町駅)から武蔵境まで出かけ、桜橋へと歩き川沿いを上流の小金井方面へと抜けていく散策コースは、わたしが子どものころ親父に連れられて歩いたコースのまさにひとつなので、おそらく親父もまた国木田の『武蔵野』を意識していたのだろう。このほか、『武蔵野』には渋谷村や目黒村、大久保村、高田村(旧・雑司ヶ谷村:国木田は「早稲田の鬼子母神」と誤記している)などが登場するのだけれど、いずれも印象が薄い。武蔵野を古来より多くの人々が生き、暮らしてきた“そこにある”現実の土地としてではなく、著者の愛着や深いこだわりは感じるものの、どこか突き放した高みの眼差しから「武蔵野」を眺めては、高踏的に描写しているように思えてしまう。
 これに対し、大岡昇平が描く「武蔵野」Click!の印象はとても鮮烈だ。それは、『武蔵野夫人』(1950年)に登場する人物たちが織りなし綾なす、「戦争」や「殺人事件」、「恋愛」、「遺産横領」、「姦通」といった、きわめて人間臭さが横溢した展開の中へ、微動だにせずに横たわる小金井や国分寺、多摩湖Click!あたりの美しい自然描写が、ときに第三者(大岡)の目を通して、あるいは「勉」や「道子」の想いを借り、その眼差しに寄り添うかたちで描写されるせいだからだろうか。
国木田独歩「武蔵野」1898.jpg 戸塚村諏訪1909.jpg
大岡昇平「武蔵野夫人」1950.jpg レーモン・ラディゲ全集1976.jpg
 つまり、武蔵野の姿がさまざまな想いを抱えた人間の目に映じる姿(少なくとも小説上では)として、ある意味では“多面的・多角的”にとらえられている点が、国木田独歩の『武蔵野』とは本質的に異なる点だろう。著者の史的かつ地理学・地質学的な観察眼をはじめ、登場人物たちのめまぐるしく転移する立場や、クルクルと揺れ動く人々の想いの背景画=書割として、武蔵野の美しい自然が次々と効果的に描かれてゆく。特に、「勉」と「道子」が地名を聞いて立ちすくむ、恋ヶ窪の描写は秀逸だ。1950年(昭和25)に大日本雄弁会講談社から出版された、大岡正平『武蔵野夫人』から少し長いが引用してみよう。
  
 川はしかし自然に細くなつて、漸く底の泥を見せ始め、往還を一つ越えると、流域は細い水田となり、川は斜面の雑木林に密着して流れ、一條の小道がそれに沿つてゐた。/線路の土手へ登ると向う側には意外に広い窪地が横はり、水田が発達してゐた。右側を一つの支線の土手に限られた下は萱や葦の密生した湿地で、水が大きな池を湛へて溢れ、吸ひ込まれるやうに土管に向つて動いてゐた。これが水源であつた。/土手を斜めに切つた小径を降りて二人は池の傍に立つた。水田で稲の苗床をいぢつてゐた一人の中年の百姓は、明らかな疑惑と反感を見せて二人を見た。/「こゝはなんてところですか」と勉は訊いた。/「恋が窪さ」と相手はぶつきら棒に答へた。/道子の膝は力を失つた。その名は前に勉から聞いたことがある。「恋」とは宛字らしかつたが、伝説によればこゝは昔有名な鎌倉武士と傾城の伝説のあるところであり、傾城は西国に戦ひに行つた男を慕つてこの池に身を投げてゐる。(中略) 彼女はおびえたやうにあたりを見廻した。分れる二つの鉄路の土手によつて視野は囲はれてゐた。彼女は自分がこゝに、つまり恋に捉へられたと思つた。/見すぼらしい二両連結の電車が、支線の鉄路を傾いて曲つて行つた。その音は彼女を戦慄させた。
  
 わたしは、『武蔵野夫人』を高校時代に読んだのだが、大岡昇平は巻頭でレーモン・ラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』(1924年)の一節を引用して、同作がフランスの伝統的な心理小説的手法で書かれていることをあらかじめ宣言している。そういう意味では、国木田はロシア文学から、大岡はフランス文学から影響を受けて作品を産みだしているわけだが、『武蔵野夫人』からは海外文学の臭みをまったく感じない。
 余談だけれど、わたしは当時、しばらくして東京創元社から出版された真紅の表紙で手ざわりもよく、パラフィン紙に包まれた美しい『ラディゲ全集』(全1巻)を入手しているが、「ドルジェル伯爵夫人」の時代設定があまりに現実ばなれして古風すぎ、また日本の環境からはかけ離れた情景だったのが災いしてか、ほとんど面白いとは感じなかったのを憶えている。でも、心理小説という文学史的な側面から見るなら、20歳で死んだラディゲの『ドルジェル伯』は20世紀に産まれた、「時代おくれ」ながら重要な作品のひとつなのだろう。
ハケの道1.jpg
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 1992年(平成4)に刊行された『鉄道ピクトリアル』5月号には、『武蔵野夫人』に登場する情景を鉄道ファンの眼差しから分析・解説する、中川浩一「『武蔵野夫人』と西武鉄道」が掲載されている。それによれば、先の恋ヶ窪のシーンでは当時の西武鉄道が運営していた国分寺線と、多摩湖線とを混同していると指摘している。以下、同記事から引用してみよう。
  
 この支線は西武鉄道国分寺線であるのだが、池のほとりに広がる水田で苗代の作業をしていた中年の農民は、道子と勉を見とがめるそぶりの中で、質問に答えて、この土地の名は恋ヶ窪と告げたとき、道子は夫の眼をかすめて、従弟とつれだって歩く自分の行動が、実は恋なのだと悟って思わず身をふるわせる。/そのおりに、“見すぼらしい二両連結の電車が、支線の鉄路を傾いて曲って行った。その音は彼女を戦慄させた”と書かれるけれど、このあたりの描写は、国分寺線と多摩湖線を混同している。多摩湖線は、野川の流れとは無関係である。みすぼらしい2両連結であったのはその通りで、京王電気軌道23形ボギー車が原型のモハ101形に駿豆鉄道から購入したブリル・ラジアル式単台車装備のモハ21形を固定編成にしたゲテモノが走っていた。
  
 わたしには、野川の湧水源のひとつである恋ヶ窪の美しい情景や、主人公たちの急激な心の移ろいに気をとられ、あまり関心を惹かない記述箇所なのだけれど、鉄道ファンにとっては決して見すごせない鉄路の誤謬なのだろう。
 でも、文学を“文学的”な位置づけや表現でとらえるのではなく、まったく別の視点から作品を分析するのも、非常に面白い切り口だと思う。別に鉄道というテーマに限らず、地理学・地質学・民俗学・植物学などの側面から読みなおしてみるのも面白いだろう。それは、佐伯祐三Click!をはじめとする画家たちの作品を“美術的”な観点からのみとらえるのではなく、落合地域とその周辺で暮らしていた人々の記録Click!という切り口から眺めてみる、いつもわたしがここで試みているのとまったく同一の作業だからだ。
国分寺駅モハ101.jpg 国分寺駅モハ22.jpg
 国木田独歩の『武蔵野』と大岡昇平の『武蔵野夫人』との間には、50年余にわたる時代の流れが横たわっている。わたしが子どものころ、実際に目にした『武蔵野夫人』の舞台は、大岡の時代からすでに20年前後の月日が経過していたが、国分寺崖線の下を東西に貫く「ハケの道」には、当時の面影を残す情景が随所に拡がっていた。しかし、国木田が目にしていた渋谷村や大久保村を、わたしはほとんど身近な情景としてイメージすることができない。そのような時代感覚から、国木田が描く『武蔵野』をどこまでも抽象的にしかとらえられず、ことさら読後の印象が薄まっているのかもしれない。

◆写真上:国分寺崖線の下の道、ハケ沿いにある瀟洒な門。
◆写真中上上左は、1898年(明治31)に東京民友社から出版された国木田独歩『武蔵野』。上右は、1909年(明治42)に諏訪社の裏から撮影された戸塚村諏訪の風景で、現在の山手線・高田馬場駅の東側である高田馬場1丁目あたりの様子。下左は、1950年(昭和25)に大日本雄弁会講談社が出版した大岡昇平『武蔵野夫人』(初版)。下右は、1976年(昭和51)に東京創元社から出版された『レーモン・ラディゲ全集』(全1巻)。
◆写真中下は、親父が撮影した1950年代と思われるハケ沿いにあったケヤキ林の農家。は、ともに1974年(昭和49)に高校生のわたしが撮影したハケの道沿いの風景。
◆写真下:1949年(昭和24)12月に国分寺駅で撮影された、西武鉄道の「モハ101」()と「モハ22」()。中川浩一「『武蔵野夫人』と西武鉄道」より。


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