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佐伯米子をめぐる物語いろいろ。
佐伯米子Click!は、その生涯をほとんど和装ですごしているが、それは佐伯祐三Click!との二度にわたる滞仏生活でも頑固に変わらなかった。そのため、当時のフランスでは見馴れない着物姿の佐伯米子は、さまざまな嫌がらせを受けたようだ。特に、パリの街中を走りまわるワルガキたちは、手を変え品を変えて和装の彼女をからかったり、イタズラをしたらしい。...
View Article外山兄弟と芙美子に節子の物語。
1928年(昭和3)11月に外山卯三郎Click!が一二三夫人Click!と結婚し、翌年に井荻の新居Click!へ引っ越したあと、下落合1146番地の外山邸内に建っていた外山卯三郎アトリエClick!は、弟の画家・外山五郎が使うことになった。1923年(大正12)現在、外山五郎は青山学院中学校の4年生だから、1929年(昭和4)現在は22歳前後になっていただろう。...
View Article相馬邸はなぜ下落合に建てられたのか。
以前、相馬邸Click!がなぜ下落合という立地を選び、赤坂氷川明神Click!前(元・中屋敷)から転居してきているのかを、おもに巫術あるいは望気術的な側面から連載形式で記事Click!にしたことがある。そこには、さまざまな“レイライン”や結界と思われる、出雲神をベースとした多彩な社(やしろ)の連なりや、幾何学的な図形が浮びあがってきた。...
View Article幻の最高峰だったアムネマチン。
きょうは、落合地域にも江戸東京にもまったく関係のない、わたしが子どものころ、特に印象に残った“山”がテーマの記事だ。わたしは基本的に山よりも海のほうが好きなのだが、山Click!にもテントや食料、飯盒などを背負ってけっこうキャンプに出かけていた。この記事は、幼い時代の覚え書きということで……。 ★...
View Article目白中学校の移転と練馬の宅地開発。
1926年(大正15)の秋、下落合の目白中学校Click!は豊島氏の居城だった豊島城(現・豊島園)の西北側、豊島郡上練馬村2305番地(のち練馬高松町1丁目2305番地)へと移転している。なぜ、目白駅も近い好立地のキャンパスから、当時はかなり不便だったと思われる上練馬村へ移転したのか、当初は不思議に思っていた。...
View Article学習院昭和寮の寮誌「昭和」。
下落合406番地にある学習院昭和寮Click!(現・日立目白クラブClick!)が、近衛町Click!南端のバッケの丘上にあたる帝室林野局敷地跡に建設されたのは、1928年(昭和3)のことだ。翌1929年(昭和4)の8月あたりだろうか、前年の入寮時から同年4月までの寮内活動や寮生たちの手記を集めた、年に2回刊行される寮誌「昭和」が創刊された。...
View Article“落合パズル”11年めに感じるダイナミズム。
きのうで、このサイトをはじめてから丸10年がすぎ、きょうから11年めに入る。文章を書いていると、ときどき果てしない複雑なジグソーパズル、ときに謎ときゲームへ挑戦しているようだ……と感じることがある。...
View Article常連たちは床屋でなにを夢みたか。
その昔、下落合に住んでいた人たちは、どこの床屋(理髪店)を利用していたのだろうか? ……と、こんなどうでもいいことにこだわり出して、また、しょうもなくつまらない記事を書くのだろうと思われたみなさん、実はそのとおり。w 普通ならどうでもいいこと、別に知らなくてもいいようなことにこだわって書くのが、このサイトの大きな特徴だと思っている。...
View Article寮誌に描かれる昭和初期の下落合。
1933年(昭和8)2月に発行された、学習院昭和寮の寮誌「昭和」Click!には、下落合の情景をとらえた文章がいくつか掲載されている。第四寮で生活していた通利生(おそらく本名)という学生は、夕暮れが迫る目白通りを散歩した体験をエッセイに書いている。...
View Article季節はずれの怪談物語。(3)
1928年(昭和3)6月19日に、新橋「花月」で開かれた怪談会Click!は佳境を迎えていた。泉鏡花Click!は、いくらでも怪談話を披露できたらしく、また柳田國男Click!と同様に巷間で囁かれる怪談話には精通していたらしく、放っておけばいつまでもしゃべりつづける勢いだったように見える。おそらく、過去に開催された「花月」怪談会でも、常連のひとりになっていたのだろう。 ▼...
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