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その昔、下落合に住んでいた人たちは、どこの床屋(理髪店)を利用していたのだろうか? ……と、こんなどうでもいいことにこだわり出して、また、しょうもなくつまらない記事を書くのだろうと思われたみなさん、実はそのとおり。w 普通ならどうでもいいこと、別に知らなくてもいいようなことにこだわって書くのが、このサイトの大きな特徴だと思っている。
でも、どうでもいいことを調べていくと、意外なところで面白いテーマに出会うことも決して少なくない。今回の記事も、そんなもののひとつだろうか? たとえば、下落合436番地の近衛新邸Click!に住んだ近衛文麿Click!、下落合426番地の近衛町Click!に大正期から住んでいた3つの内閣で外相をつとめた有田八郎Click!、下落合437~456番地にあった目白中学校Click!で英語教師をしていた金田一京助Click!、下落合310番地の広大な相馬邸Click!の御留山Click!を買収し住宅開発地の一隅Click!に自邸を建てて住んでいた東邦生命の5代目・太田清蔵Click!、これらの人々に共通するのはなんだろう? それは、通っていた床屋がみんな同じ店だったということだ。
本郷にあった加賀藩前田家上屋敷の赤門Click!前、理髪店「喜多床」という床屋がそれだ。「喜多床」は、明治政府が文明開化の象徴ともいえる断髪令を出した、1871年(明治4)に営業をスタートしている。中邨喜太郎という人物が創業者で、もともとは幕府旗本の舩越家の出身だった。それまで、江戸の街中には髷(まげ)を結う数多くの髪結い床が存在したが、本格的な技術をもつ西洋理髪店として開業したのは「喜多床」が嚆矢だった。中邨喜太郎は、前田家に出入りする顧問外国人だったフランス人から、当時は最新の西洋散髪技術を学んだらしい。赤門前に建てられた店舗は、当時としては人目を惹く3階代建てのモダンなビル状の西洋建築だった。店名の「喜多床」は、当時の加賀藩当主で前田家13代めにあたる前田慶寧(よしやす)が命名したらしい。
開店当初から、スタッフの全員が洋装で白衣を着用し、店内の機材はすべてフランスから輸入されたものが使われていた。特に、客と相対する巨大な鏡を製造する技術が、当時の日本にはいまだ存在しなかったため、わざわざフランスで製造されたものを細心の注意を払って運んでいた。創業者の中邨喜太郎は、「喜多床」と店名に「床」がつくものの、自分の店を「理髪店」、自職を「理髪師」、そして散髪技術を習得したスタッフを「アーテスト」と呼んでいた。当時、このような建築や店は、いまだ東京市街でもめずらしかったらしく、一時期は「東京新名所」として見物客を集めたらしい。
つまり、今日的な近代理髪店の元祖が、前田家の正門前、のちに東京帝国大学Click!の赤門前に開店していたわけで、当時の新しもの好きたちはこぞって「喜多床」へ通ったようだ。同店の常連には、実に多彩な分野の人々の顔が見える。ちょっと挙げてみると、夏目漱石Click!、徳田秋声、内田百閒Click!、森鴎外Click!、尾崎紅葉Click!、菊池寛Click!、久米正雄Click!、石川啄木、芥川龍之介Click!、佐々木信綱Click!、山本有三、伊藤博文Click!、渋沢栄一Click!、前田利為、新渡戸稲造、吉田茂Click!……etc.。
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たとえば、落合地域も登場して主人公が逍遥する、夏目漱石の『三四郎』Click!にはこんな描写がある。角川書店版の『三四郎』(1909年)から、引用してみよう。
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講義が終ってから、三四郎はなんとなく疲労したような気味で、二階の窓から頬杖を突いて、正門内の庭を見おろしていた。ただ大きな松や桜を植えてそのあいだに砂利を敷いた広い道をつけたばかりであるが、手を入れすぎていないだけに、見ていて心持ちがいい。野々宮君の話によるとここは昔はこうきれいではなかった。野々宮君の先生のなんとかいう人が、学生の時分馬に乗って、ここを乗り回すうち、馬がいうことを聞かないで、意地を悪くわざと木の下を通るので、帽子が松の枝に引っかかる。下駄の歯が鐙にはさまる。先生はたいへん困っていると、正門前の喜多床という髪結床の職人がおおぜい出てきて、おもしろがって笑っていたそうである。その時分には有志の者が醵金して構内に厩をこしらえて、三頭の馬と、馬の先生とを飼っておいた。ところが先生がたいへんな酒飲みで、とうとう三頭のうちのいちばんいい白い馬を売って飲んでしまった。それはナポレオン三世時代の老馬であったそうだ。
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夏目漱石Click!は、相変わらずここでも癇性でヘソまがりで神経質そうな性格をあらわにしており、店主の中邨喜太郎が「先生、良いお天気です」と声をかけると「大きなお世話だ」と答え、散髪しながらグッスリ寝入ってしまい、疲れている様子なのでしばらくソッとしておいてやると、目をさましてから「終わったのか。遅いぞ」と叱られたらしい。w 喜多床へよく通っていたのは、漱石が西片町10番地ろ7号Click!に住んでいたころのことだろうか。あるいは、気に入った床屋は遠くへ転居しても通うものなので、早稲田南町7番地Click!からも移転した「喜多床」へ通いつづけたかもしれない。
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そのうち、「喜多床」は1階が学生、2階が博士・文士たちと、当時の知識人たちが集まるサロンないしは倶楽部のような場所と化していったらしい。1887年(明治20)ごろになると、本店だけで散髪椅子は18台に増え、従業員は20人ほどにまで成長している。また、このころから全国各地に「喜多床」を勝手に名のる床屋が多く出現し、モダンな理髪店の代名詞として、一種のネーミングブームにもなっていたようだ。
「喜多床」の2代目・舩越景輝は、明治末に「大日本美髪会」つづいて「一会(はじめかい)」という団体をつくり、機関誌「美髪」の発刊をはじめている。また、欧米各国を視察旅行をして、米国の理髪店がもっとも発達しているのを知ると、帝大の学者たちとともに理髪師の勉強会や研究会を開催している。大正期に入ると、「一会」の会員は日本国内ばかりでなく朝鮮や台湾、清国、ロシア、ハワイにまで拡がっていった。1914年(大正4)になると、舩越景輝は「帝国通信理髪大学」を開設し、理髪師に必要な知識や技術を習得するための通信講座をスタートさせている。
筑摩書房版の内田百閒による随筆『ねじり棒』(1933年)から、引用してみよう。
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本郷の赤門と正門の丁度真中辺りの向こう側に、喜多床と云う大きな床屋があった。喜多床は老舗であって昔から続いていたらしく、漱石先生の『三四郎』の中にもその名前が出て来る。/初めて上京した当時は落ちつかなくて頻りに下宿を変わったから、その時分は床屋にもどこときまった記憶に残る様な店もない。只行き当たりばったりに転々としていた様である。/その内に大分東京に馴れて落ちついて来て、下宿も正門前の森川町にあったから喜多床に行き馴れた。店に這入って行くと、喜多床の鏡は左右の壁を一ぱいに潰してきめ込んであるので、その前に起った自分の身体が、右にうつっているのが左にうつり、それがそのまま右のもっと奥にうつり、それが又左のもっと奥にうつり、何処まで行ってもきりがない。
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1922年(大正11)になると、赤門前の本郷通りの拡幅と区画整理のため、「喜多床」本店は本郷からの移転をよぎなくされ、丸の内にあった日本倶楽部会館ビルの地下へ移転している。日本倶楽部会館は、当時の政財界人たちが数多く集まる社交場として使用されており、同店に政治家や実業家の常連が多いのはそのせいだろう。
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戦争の混乱をへて、GHQによる「喜多床」の「床」が封建主義的だという理由から、「舩越理容室」へと改称命令を受けながらも、同店は「喜多床」Click!の名前に復帰して、現在でも渋谷のクロスタワー地下で4代目と5代目がともに営業をつづけている。理髪料は少し高いけれど、同店へ散髪に出かけると下落合やその周辺域をめぐる、いろいろな人物たちの飾らない素顔のエピソードが聞けるかもしれない。
◆写真上:旧・下落合282番地の高田邸跡に建つ、七曲坂下の理髪店。
◆写真中上:上左は、荻外荘Click!の応接室Click!で撮影された近衛文麿。上右は、1940年(昭和15)に撮影された下落合時代の5代目・太田清蔵。下左は、大正期から下落合に住んでいた有田八郎。下右は、目白中学校で英語教師をしていたころの金田一京助。
◆写真中下:上左は、2006年(平成18)に発行された小冊子『喜多床 百三十五年史』で、表紙に写る3階建ての店舗は創立時の意匠。上右は、同史に掲載された米国のKOKEN社製理髪イス。下は、常連だった夏目漱石(左)と内田百閒(右)。
◆写真下:丸の内にあった、めずらしい日本倶楽部会館ビルの写真。(同史より)