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外山兄弟と芙美子に節子の物語。

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三岸アトリエ.JPG

 1928年(昭和3)11月に外山卯三郎Click!一二三夫人Click!と結婚し、翌年に井荻の新居Click!へ引っ越したあと、下落合1146番地の外山邸内に建っていた外山卯三郎アトリエClick!は、弟の画家・外山五郎が使うことになった。1923年(大正12)現在、外山五郎は青山学院中学校の4年生だから、1929年(昭和4)現在は22歳前後になっていただろう。
 外山兄弟の祖父、外山寅太(のち外山脩造)は新潟・長岡の出身であり、昌平坂学問所に学び幕末の藩政改革に従事して近代化に取り組んだ長岡藩士だった。だが、戊辰戦争のときは黒田清隆率いる薩摩軍と戦い、明治維新後は福沢諭吉の慶應義塾に入って開成学校(のち東京帝大)へと進んでいる。その後、大蔵省銀行課から金融畑を歩みつづけ、晩年には日本銀行大阪支店長に就任した。おそらく、その子息である外山秋作が、下落合1146番地へ2階建ての西洋館を建てて住むようになったのは、大正初期ではないかと思われる。
 外山卯三郎が成長すると、母屋の南東側にあたる妙正寺川寄りの敷地へ、離れのようなアトリエを建設している。外山五郎は、兄が井荻へ転居したあと、そのまま兄のアトリエを使っていたのだろう。中学時代から外山五郎は、ボヘミアン生活にあこがれアナーキズムに傾倒していたようだ。友人の大岡昇平Click!に、スチルナー『唯一者とその所有』(辻潤Click!・訳)を奨めたらしいが、大岡は同書を最後まで読みとおすことができなかった。その後、外山五郎は立教大学へ進むがコカイン中毒にかかり、風景画を描きながらフルートを演奏するという、気ままで奔放な生活をつづけたらしい。
 1931年(昭和6)に、学生生活を終えた外山五郎はパリへ遊学している。絵画の勉強を本格的にはじめようとしたのか、コカイン中毒から立ち直り生活を一新しようと決意したのか、あるいは興味をおぼえはじめていたキリスト教を学んでみたかったものか、どのような理由から渡仏したのかがハッキリしない。あるいは、その全部が渡欧理由だったのかもしれない。とにかく、自身が身をおいていた従来の環境をいっさいチャラにし、ゼロから出発したかったらしいことはほぼまちがいない。その“従来の環境”には、もちろん放埓な女性問題も含まれていただろう。
 外山五郎は学生時代、早稲田大学で開かれていたロシア語講習会に参加している。この講習会では、すでに同棲して連れ合いのいる“人妻”と知り合い、親しく付き合うようになっていったようだ。彼は、その関係性を解消するのも理由のひとつとして、渡仏を計画していたフシが見える。外山五郎は、親しかった洋画家の別府貫一郎などとともにパリとその近郊に住んだが、別府には自分の住所を決して“人妻”に教えないよう厳命している。だが、この“人妻”はシベリア鉄道経由で、外山を執拗にパリまで追いかけてきた。まるで、『娘道成寺』の安珍清姫のようだが、“人妻”はパリへ着くと別府貫一郎を激しく問い詰め、とうとう彼の住所を白状させている。そして、“人妻”はさっそく外山五郎のもとへ逢いにいくのだが、ストーブにかかっていたヤカンをいきなりぶっつけられて、1931年(昭和6)12月18日の日記に「不快此上なかつた」と記し、幻滅している。
 この“人妻”とは当時、上落合三輪850番地の尾崎翠Click!が住んでいた借家で、手塚緑敏Click!とともに暮らしていた林芙美子Click!のことだ。どこまで妄想がふくらんで、シベリア鉄道に飛び乗ったのかは不明だけれど、自尊心を傷つけられた林芙美子は以降、外山五郎との関係を断ち切って別の恋愛をはじめている(ということになっている)。このパリ行きの目的が、外山五郎に逢うためだということを、手塚緑敏は知っていたらしい。1974年(昭和49)に学習研究社から出版された足立巻一『現代日本文学アルバム』13巻の「林芙美子」には、次のように指摘されている。
  
 緑敏(まさはる)は、このことを知っていた。五郎は、セロなどをひく、ドンファンで、芙美子は棄てられるに決っていると思ったから、極力引きとめたが、緑敏の言葉に耳を貸そうともしなかった。
  
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外山邸1941.jpg
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外山邸1947.jpg

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外山邸跡(井荻).JPG
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外山卯三郎・一二三夫妻.jpg

 余談だけれど、林芙美子の日記によれば、下関からシベリア鉄道経由でパリに着くまでの交通費は、しめて313円29銭だったことが記録されている。佐伯祐三Click!が、再渡仏するために関西で兄の祐正らを中心に画会(頒布会)Click!を組織してもらい、600円あればシベリア経由でパリに行けると話していた内容を裏づける数字だ。600円にいくばくかの貯金を加え、米子夫人Click!と娘の彌智子Click!の一家で旅立つのに必要な額が、600円というひとつのめやすになっていたのだろう。
 外山五郎は、1932年(昭和7)に帰国し(下北沢にある友人だった大岡昇平の自宅を、帰国のあいさつがてら訪問している)、同年から麹町区富士見にあった日本神学校で学び、牧師になる決意をかためていったようだ。
 弟の外山五郎がパリから帰国し神学に取り組んでいたころ、兄の外山卯三郎は、急死してしまった独立美術協会Click!の支柱のひとりだった、三岸好太郎Click!の妻・三岸節子Click!を支援するために画会を組織しようとしていた。外山卯三郎にとっては、1930年協会の旗手だった前田寛治Click!を1930年(昭和5)春に失い、ここでまた独立美術協会の若手であり、特に注目していた三岸好太郎Click!を1934年(昭和9)の夏に失ったことは、彼の美術観的にも、また家族ぐるみで往来していた関係から精神的にも、大きな痛手だったと思われる。
 昨年、三岸アトリエに保存されていた資料類を整理させていただいたとき、偶然、1936年(昭和11)に作成されたとみられる「三岸節子画会申込規約」を発見した。以下、三岸節子について画会規約に書かれた、外山卯三郎「三岸節子女子(ママ)の芸術」を、短いので全文引用してみよう。
  
 三岸節子女子の芸術
 日本の油絵が台頭して以来、もう相当の年月を持つてゐます。この間に、すでに幾人かの閨秀作家が現れてゐるでせう。然しそれ等の婦人たちは、ただ婦人にして油絵を描くと言ふこと、その珍らしさだけで名を知られたものが多いのです。また現在の日本には、数へきれないほど夥しい閨秀作家がゐます。然しそれ等の人たちの多くは、厳密な意味が、お嬢さん芸、言はばお稽古としての画境を出てゐる人は、殆どゐないと言つて良いでせう。/素直に言ふならば、厳密な意味で、芸術家として許される閨秀油絵画家は、先づ三岸節子女史をもつて初めとしなければならないでせう。それほど三岸女史は優れた技巧と、豊かな天分と感覚を持つてゐます。その作品は何等の割引きなしに、堂堂と男子の芸術に挑戦出来るだけの質と感覚と特異さを持つてゐると言ふことが出来るでせう。/三岸女史はまさしく、日本に於けるマリイ・ローランサン的存在です。女子の芸術を擁護し、奨励し生長させることは、日本女流芸術の水準をたかめる上にも、また日本の油絵界を華かにする上にも、極めて大切なことであると言はねばなりますまい。/現在、女史は三人の遺児を抱いて、純粋な芸術道に、文字通のいばらの道を歩いてゐます。私達はこの日本のもつマリイ・ローランサンの芸術を守る上からも、またそのけはしい生活を援助する上からも、ぜひ皆様の暖かい同情を念じねばならないのです。敢へてこの一文を草して、皆様の暖い救ひの手をお願ひする次第であります。  外山卯三郎
  
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三岸節子画会申込規約2.jpg

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 なんだか、「閨秀作家」という用語をはじめ、「三人の遺児を抱いて」、「同情を念じ」、「救ひの手」と、かよわい女性を助ける「騎士」のような文面だけれど、当時の女性画家が置かれた環境は、おしなべてこのような認識でとらえられていたのだろう。だが、外山卯三郎の眼に狂いはなかった。三岸好太郎の属した、独立美術協会の画家たちからは、おしなべて彼女は冷ややかに扱われながらも、たくましい三岸節子は画家としてグングン頭角を現わすようになっていく。
 「三岸節子画会申込規約」には、外山卯三郎のほか11名の後援者たちの名前が列記されているが、当時の会費、つまり作品価格も記載されている。それによれば、10号=100円、12号=120円、15号=150円と、彼女の作品が1号あたり10円だったことがわかる。
 林芙美子が外山五郎を見かぎり、新しい恋人の考古学者・森本六爾、つづけて建築家・白井晟一の面影を抱いて1932年(昭和7)に帰国したあと、装丁か挿画がらみの仕事で2歳年上だった林芙美子に会いに、三岸節子は下落合の家を訪ねている。そのとき、手塚緑敏へ聞こえよがしにパリでの「恋物語」を話すので、三岸節子はハラハラのしどおしだったようだ。「三岸さんに言えば、ちゃんと知っているような建築家。京都の人なの」と、三岸節子に話した相手は、ときどき林芙美子を連れ出しに下落合へとやってきた白井晟一のことだろう。後年、手塚緑敏から三岸節子はグチを聞かされている。1999年(平成11)に出版された、吉武輝子『炎の画家 三岸節子』(文藝春秋社)から引用してみよう。
  
 あるとき、着替えのために奥に入った芙美子を見送りながら、/「家のことも、畑のことも、子ども(四三年、生後四ヵ月の泰を養子にする)のことも何もかも自分任せで、仕事ばかり。家のことは縦のものも横にしない」/と緑敏が節子に嘆くように言ったことがある。/この言葉を小耳にはさんだ芙美子が、/「三岸さんになにを悪口言っているの! ちゃんと食べさせてあげているのに、何が不満なのよ」/と奥の部屋から怒鳴り上げるように言った。節子は緑敏が気の毒で目のやり場に困った。
  
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林芙美子1936.jpg
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白井晟一「精神と空間」2010.jpg

 先日、新聞を見ていたら亡くなった森光子Click!に代わり、舞台『放浪記』の林芙美子役を仲間由紀恵が演じると書かれていた。イメージ的にもキャスティング的にも、どこかが思いっきりまちがってると感じるのだけれど、ご冗談じゃなくて、マジですか?Click! ……あの~、ぜんぜんちがうでしょ。

◆写真上:三岸アトリエ2階の廊下隅にまとめられていた、整理前の三岸夫妻資料類。
◆写真中上上左は、1941年(昭和16)に斜めフカンで撮影された下落合1146番地の外山邸。上右は、1947年(昭和22)に米軍が撮影した外山邸。下左は、井荻の旧・神戸町114番地に残る外山邸のものとみられる大谷石。下右は、外山卯三郎の子孫にあたる次作様Click!よりお送りいただいた、井荻の自邸で撮られた外山卯三郎(右)と一二三夫人(左)。
◆写真中下:いずれも、三岸アトリエ2階の資料整理で見つけ、三岸好太郎・節子夫妻の孫にあたる山本愛子様Click!より提供いただいた「三岸節子画会申込規約」。
◆写真下は、1931年(昭和6)11月にパリへ向かう列車の中の林芙美子。は、2010年(平成22)に青幻舎から出版された『白井晟一 精神と空間』。


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