旧・下落合西部(現・中井2丁目)に建つ、金山平三アトリエClick!の解体がすでにはじまっている。満谷国四郎Click!とともに、アビラ村(芸術村)Click!の名づけ親と思われる金山平三Click!が、下落合2080番地に自身でデザインしたアトリエを建設したのは1925年(大正14)3月のことだ。日本画家の中野風眞子の証言によれば、金山は「二の坂の上辺りは、アヴィラそっくりの地勢である。非常によく似ている。それで僕は早速アヴィラ村と命名した」と語っている。
金山アトリエ解体のニュースは昨日、モスさんClick!からお知らせいただいたのだが、寝耳に水で驚愕してしまった。モスさんも書かれているように、先週の日曜日(10月28日)、吉武東里Click!が設計した島津一郎アトリエClick!が公開され、わたしも所有者の方からお誘いをいただいていた。しかし、急用で行けなくなり非常に残念な思いをした。もし用事がなければ、まちがいなく金山アトリエ前を通過して島津アトリエを訪れていただろうから、4日前には異変(工事予定プレート)に気づいてたはずだ。でも、「工事のお知らせ」の予定表には「11月2日~12月5日」が解体予定とされ、11月2日のきょう、工事業者が家の周囲に足場を組み解体工事がすでにスタートしている。これでは、解体までのリードタイムが短すぎて保存へ向けたなんの動きもできない。
新宿区の地域文化部文化観光国際課のご担当も寝耳に水だったらしく、持ち主の方からの連絡で金山アトリエ解体を初めて知ったのは、つい10月22日のことだ。それから、わずか1週間ほどしかたっていない。モスさんの記事にもあるとおり10月29・30・31日、そして11月1日の4日間、新宿区と早稲田大学による大急ぎの記録調査が入っている。調査の終了後、翌日には解体工事がスタートしたことになる。最近解体された近衛町の旧・杉邸Click!もそうだが、いくら貴重な近代建築だからといって持ち主の方の「売って解体したい」という意向を、「やめてください」とも「ダメです、待ってください」ともいえはしない。だが、金山平三アトリエは落合地域にとっては特別な存在なのだ。それは、美術(芸術)の街Click!を視点にすえた場合の“街づくり”においては、画家のアトリエを点と線でつなげる、きわめて重要な地域資産のひとつだからだ。それが、目白駅を起点とすれば山手通りの手前で途切れてしまい、目白文化村を介して旧・下落合西部(アビラ村)までの“導線”がつづかないことになってしまう。美術好きな訪問者の多くは、途中から下落合駅へと下ってしまい、中井駅までは足を伸ばさなくなってしまうだろう。
旧・下落合東部には、いま復元工事が進んでいる中村彝アトリエClick!がある。下落合中部(旧・下落合2丁目→現・中落合2丁目)には、こちらでもあまたご紹介してきた目白文化村Click!第三文化村に隣接する佐伯祐三アトリエClick!がある。そして、下落合西部(旧・下落合4丁目→現・中井2丁目)には、すでに松本竣介アトリエClick!や刑部人アトリエClick!が存在しないいま、アビラ村(芸術村)のコアとなる記念物は金山平三アトリエだった。しかも、金山平三Click!は中村彝や佐伯祐三たちと同様に、地域画家ではなく全国的に知られた高名な画家でファンも数多い。金山の出身地である兵庫県立美術館には、彼の作品や資料を集めた金山平三記念館がオープンしている。
アビラ村(芸術村)Click!には先年、文化庁の登録有形文化財に指定された島津一郎アトリエがあるけれど、同アトリエはあくまでも私邸内でたいせつに保存された建物であり、常時、誰もが芸術散歩の途中で訪れることができる状況にはない。だからこそ、美術の側面からいえば、空襲にも遭わずにそのまま焼け残った大正建築の金山アトリエは、かけがえのない存在であり同地域のコアでもあったのだ。せっかく、下落合西部のアビラ村(芸術村)が広く認知Click!されてきた矢先、金山アトリエを失うことは街の大きな文化的損失といっても過言ではないだろう。
中村彝=鈴木誠アトリエClick!のように、所有者の方の「できれば残したい」という意思があり、また早めにそのことが判明していれば、さまざまな方面への働きかけや、いろいろな分野の方々へのネゴシエーションが可能なのだが、今回の金山アトリエのケースは突然、抜き打ち的に現象化した無念なケースだ。きょう(11月2日)から解体工事に入っているので、保存はもちろん移築も含めて、もはやいかんともしがたい状況なのだろうか。関東大震災Click!と東京大空襲Click!、そして東京オリンピックの「町殺し」Click!で、あちこちが名所・旧跡だらけなのになにもない(城)下町Click!のことを、これまでさんざん書いてきたけれど、せっかく苦難な時代をくぐり抜けてたいせつに保存されてきた乃手の重要な記念物が、アッという間に消滅するのが残念でならないのだ。
金山アトリエの外観は、建築当初からほとんど変更されていない。その後にお住まいの方々も、ていねいにメンテナンスを繰り返されており、この30年以上にわたり安心して観賞させていただいてきた。でも、内部が各時代によりかなり改装されているようだが、中村彝アトリエの保存状態および復元条件もまさに同じだった、いや、より困難な条件ではなかったろうか。きょうは、アトリエの窓が開け放たれており内部を垣間見ることができたのだが、壁面の漆喰や天井の様子は、むしろ中村彝アトリエよりもはるかに良好な状態のように見える。また、黒光りした焦げ茶色の柱もそのままであり、すべてを解体してから復元が必要となる中村彝アトリエよりも状態がよく、むしろ保存が容易なようにさえ思える。
ただ、残念なことに所有者の方が、そのような文化的意志や希望を持たなければ、周囲がいくらとやかくいっても、一歩も前へ進めないのもまた確かなのだが・・・。金山アトリエの内部の様子を、1975年(昭和50)に日動出版から出版された飛松實『金山平三』から引用してみよう。
▼
ややうす暗い玄関に立つと、廊下がT字型に走つてをり、廊下に沿ふ壁の向かうがアトリエで、玄関からは、廊下越しにアトリエの背中の壁を見てゐるわけである。古びたオルガンのある廊下の左端は二階へ通じる階段となり、右の突き当たりは洋間の応接兼居間に続いてゐる。/居間の調度類、例へば大机(一.五×一メートル)、物置、戸棚などは、何れも太い角材や部厚い板で作られてゐて、それらが皆茶褐色に沈み、如何にも時代がかつた民芸調の趣きを備へてゐる。壁際に五段ばかりの用棚があつた。四センチ近い厚さの棚板の間隔が、どの段も不同で、それでゐて板の厚みや、支柱の角材の太さが、お互ひにバランスをとり合ひ、美事な統一と均整を保つてゐる。/「どつしりとした珍しい棚ですね。先生の設計ですか。」/「あなた、これが分かつたかね。いいでせう。正倉院の写しです。友人が寸法書きをもつてゐたので、借りて作らせました。」 さう聞くと、いよいよ変化と統一の妙の迫つてくる棚であつた。/居間の南側が広縁で、サンルーム風になつてゐる。古びた藤の安楽椅子や、サイドテーブル代はりの古い一斗樽などがあり、茶や菓子はこの上に置かれることが多かつた。/此処からは繁つた庭木を透して遥かに大東京の街々を眺望することが出来た。東京タワー、国会議事堂他の高層ビルは言ふまでもなく、秋晴れには、西方雲上に富士の秀嶺を望見できるのであつた。
▲
これほど唐突ですばやい解体工事の着手なので、神戸にある兵庫県立美術館の金山平三記念館も、いまだアトリエが消滅しようとしているのを、まったくご存じないかもしれない。ひょっとすると、兵庫県立美術館(金山平三記念館)の敷地近くへ移築したい・・・という要望が出るのかもしれないのだが、もはや手遅れだろうか? いずれにしても、これから20年、30年先を展望した“街づくり”インフラのかけがえのないリソースを、またひとつ落合地域は失うことになる。
◆写真上:解体工事がスタートした金山アトリエで、南東側から足場が組まれはじめている。
◆写真中上:1970年代から見馴れた、アビラ村(芸術村)の象徴的な建築・金山平三アトリエ。
◆写真中下:上左は、1924年(大正13)9月ごろに金山平三が描いたアトリエデザイン。上右は、同アトリエの庭で踊る金山平三とらく夫人Click!。下は、アトリエ北側の採光窓。
◆写真下:上は、保存されている金山平三のパレット。下は、アトリエ北側の窓。