1933年(昭和8)2月に発行された学習院昭和寮Click!の寮誌「昭和」第8号Click!には、巻末に「全寮日誌」と第一寮から第四寮まで各寮別に別れた「寮だより」が付属している。昭和寮の内部や学習院で起きた、学生生活をめぐるさまざまな動向の記録なのだが、同号には1932年(昭和7)5月から11月までの日誌が掲載されている。
「全寮日誌」は、文字どおり昭和寮全体にかかわるエピソードを時系列で記録しているのだが、「寮だより」のほうは各寮で暮らしている学生たちをめぐる記録だったり、学習院の行事やスポーツ大会、イベントなどへ参加した感想など、より学生個人に関わる記載が多い。これらの日誌を参照すると、学習院で行われていた授業とは別に、学生たちがふだん過ごしていた生活やリアルな動向を知ることができる。では、昭和寮で学生たちはどのような暮らしをし、またどのような催しを開催し参加していたのかを見ていこう。まず、1932年(昭和7)の初夏から梅雨にかけての記録だ。同誌の、「全寮日誌」から抜粋してみよう。
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五月二十一日 午後一時より図書館に於て史学会主催の吾等の先住民アイヌの叙事詞ユーカラをニテアツ氏(貝沢久之助)によつて朗唱、解説された、何となく考へさせられる所があつた。
五月三十日 午後六時四十五分より海軍少将子爵花房太郎閣下の「満州、支那、上海」に関する御講演があつた、(於娯楽室) 氏は最近研究会より満州支部上海方面を視察して来られ、写真等沢山見せてくださつた、後談話室で間食を頂き乍ら座談会的に色々御話をして九時頃終了。
六月六日 連日の雨天に寮生中病気になる者稍多し。
六月八日 午後九時半寮務委員の選挙を各寮別に行ふ。
六月十一日 午前十一時より正堂に於て木原工兵大尉の上海事変に関する講演あり、兵器模型、防弾衣、鉄冑、急造爆薬筒等の陳列あり有益な講演であつた。
六月十四日 馬場舎監昨夕より沼津游泳場へ出張。
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第8号の全寮日誌は、5月21日に学習院図書館で行われた、貝沢久之助の「カムイ・ユカル」をめぐる詠唱と講演の会からスタートしている。当時、平取(ビラトリ)の二風谷(にぶだに)Click!出身の貝沢久之助は、アイヌ民族の団結を呼びかけ生活改善をアピールする言説を各紙誌に発表しており、常時特高Click!の尾行が背後についていた。おそらく、この講演会にも関係者のような顔をして、学習院の図書館には特高の刑事がまぎれこんでいただろう。
梅雨に入ると肌寒かったものか、風邪をひく学生が多かったようだ。同時期に、「寮務委員」の選挙が各寮ごとに行われている。寮務委員とは、4つの寮にそれぞれひとりかふたりずつ選ばれた寮代表のことで、生活に必要な規律や情報の伝達、掃除などの業務を管理する役割りをもち、寮別の日誌「寮だより」を日々書くのも彼らの仕事だった。
日中戦争の激化とともに、おもに学習院OBの軍人たちによる講演会が多いのも、全寮日誌の特徴となっている。本来は、音楽会などが開かれていた娯楽室などで、中国情勢についての講演会が頻繁に開催されている。全寮日誌には寮内の出張も記録されていて、当時は沼津に設置されていたらしい学習院用の海水浴場へ、馬場轍舎監が出張している。
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六月十八日 午後七時より本院正堂に於て輔仁会音楽会が催された、久邇宮朝融王殿下を初め其他の来客堂に満つ、近衛秀麿氏の指揮は実に素晴しかつた。閉会十時。
六月十九日 午後一時より本院馬場で打毬会行はる。
七月一日 午後二時より正堂に於て陸軍大臣荒木貞夫閣下の講演あり、風姿実に人を威圧すれど次第に親しみを覚ゆ。
七月二日 第一第(ママ:学)期授業終了。
七月四日 第一学期試験開始。
七月十二日 閉寮。
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下落合432~456番地の近衛新邸Click!敷地に住んでいた近衛秀麿Click!が、学習院正堂(講堂)で指揮棒をふるいコンサートを開いている。出演したのは学習院の学生交響楽団で、演奏曲は明らかではないが、寮だよりを参照すると各寮から学生が計5名、ピアノやバイオリンなどで演奏に参加しているのがわかる。
また、6月19日には学習院馬場Click!で、華族学校らしくポロの大会が行われたようだ。この年の夏は、東京じゅうでコレラが流行しており、スポーツで身体を鍛えることが奨励されていたのかもしれない。期末試験が終わるとともに、7月12日には一学期の授業が終了して閉寮となっている。
学生の夏休み中は「閉寮」となるが、昭和寮の全体を封鎖して立入禁止にしてしまうことではない。寮生は、ほとんどが帰宅・帰省してしまうため、寮内は空き部屋だらけで閑散としていたようだが、学生は寮の自室へは自由に入ることができた。寮のオバサンや舎監、用務員などの管理者も夏休みに入ってしまうため、学生たちへのいつもの「サービス」はなく、寮内へとどまる学生たちは外食をしなければならなかったようだ。全寮日誌も、夏休みになるとまったく記載がなくなる。つづけて、「全寮日誌」を抜粋しよう。
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九月十二日 午後六時より乃木将軍の夕を催す、乃木将軍の副官たりし伯爵山田英夫閣下の講演を行ふ。内容は乃木、ステツセル会見を中心とする当時の挿話、中等科学生も聴講全部で八十名近く非常な盛会であつた。七時二十分閉会後談話室に於て座談会を行ふ。
九月十六日 通常授業を開始す。
九月十七日 午前十時半満州事変一週(ママ)年記念講演として前関東軍司令官本庄繁閣下来院せられ院長及び学生総代の挨拶の後 熱誠なるお話があつた。(於正堂)
九月二十二日 オリンピツクに馬術選手として活躍せられた山本先生の講演が午後一時五十分より正堂に於て行はれた、一同面白く拝聴す。
九月二十九日 午後四時より対付属中学剣道定期戦が行はれ、本院は大将、副将を残して七年振りで快勝した。
十月二日 輔仁会水上部秋季会が催された、対寮レースに於ては各寮棄権し三寮独漕して優勝す。
十月四日 秋季野外演習が本日より群馬県相馬原に於て開始せられた、一同雨も物ともせず意気天をつく。
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毎年、自裁した9月12~13日の命日には、院長だった乃木希典Click!をしのぶ講演会や座談会が、昭和寮で開催されていたらしい。いまだ夏休み中だが、中等部の生徒たちも含め参加者は多かったようだ。9月16日より二学期授業がスタートするのだが、“スポーツの秋”らしく、さまざまな競技会が開かれている。特に、学習院中等部と東京高等師範学校の附属中学校Click!との対戦は人気が高かったらしく、対附属中学の試合は競技の種類を問わず数多く記載されている。
また全寮日誌には登場していないが、寮生の手記を読むとあちこちに早慶戦Click!の予想や勝敗をめぐる記述が登場し、当時の異様で熱狂的な人気をうかがい知ることができる。学習院や同昭和寮は、早稲田大学Click!の戸塚球場Click!(のち安部球場)にも近かったため、旧・神田上水をわたって“グランド坂”まで、選手の練習を見物しに出かけた学生も少なからずいたかもしれない。早慶戦があると、談話室のラジオが点けっぱなしにされ、寮生たちは贔屓の大学側に声援を送って熱狂していた。
笑ってしまうのが、寮対抗の水上部の試合(ボートレース)で、4寮のうち第二寮と第四寮がそもそもレースをやる気がなくて棄権し、第一寮はなぜか試合時間をまちがえて遅刻、第三寮のボートチームが「優勝」している。ちゃんと漕艇したのかも曖昧で、かなりいい加減な「試合」だった。第一寮の寮だよりには、「対寮レースに吾が寮は時刻を間違へて棄権の止むなきに至る」と記載されているけれど、あらかじめ「おい、ボートレースなんてかったるいよな」「やってらんね~や」と寮同士、学生同士が示し合わせた、実はハナから想定されていた“八百長試合”ではなかったか?
10月4日に群馬県の相馬原で行われた軍事演習について、「意気天をつく」というようなひときわ感情過多の表現をしているのは、演習を昭和天皇Click!が観閲したからだ。全寮日誌ではオーバーな表現なのだが、各寮だよりでは、単に軍事演習の実施のみを短く記録した表現が多い。特に第四寮の寮だよりには、軍事演習の実施さえ省略されて記載されていない。学生たちに、泊りがけの軍事演習や行軍演習が、歓迎されていない様子がうかがえる。全寮日誌から、再び抜粋してみよう。
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十月十六日 本院年中行事中最も重要且つ盛大なる輔仁会秋季大会が正九時より正堂に於て催された、相憎の雨ではあつたが観衆は頗る多かつた、催物の中でも特に喝采を博したのは昭和寮々生オール、スター、キャストの「想ひ出」であつた。終了後六時より当寮に於て桜友 輔仁会の懇親会が行はれた。
十月十九日 午前四時頃久し振りで三寮と四寮に泥棒が入つた、四寮の被害最も多し。
十月二十五日 本院対付属中学の定期柔道試合行はる、本院選手奮闘これ勉めたが惜しくも引分けとなる。
十月二十七日 午後一時より正堂に於て学習院出身の特命全権大使吉田茂氏の御講演あり、先ず中世の外交より御話を初められ最近満州事変、国際聯盟、リツトン報告書に至るまでを話され終りに学習院出身者の素質の外交方面に適するにもかゝわらず近年その外交科を志望するもの尠きを惜しまれ今後時局多端(ママ:難)の折柄学習院出身者の外交方面に活躍するを奨めらる。
十月二十九日 午後七時より正堂に於て弁論部秋季講演会が催された。講演者文部大臣鳩山一郎閣下、紀平正美先生で、他校の聴講者特に多し終了九時。
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「輔仁会秋季大会」とは、今日でいう全校をあげた学園祭のようなもので、学生たちが1年を通じてもっとも力を入れた年中行事だ。この大イベントの準備があるために、寮対抗のボートレースも軍事演習もあまり熱が入らず、できればパスしたい行事だったのかもしれない。
学習院正堂では、吉田茂Click!と鳩山一郎が相次いで講演している。意外なのは、本院や昭和寮で開かれる講演会が、政治や軍事、国際情勢など時事のテーマに関連したものが多く、学芸分野の講演がほとんど存在しないことだ。5月から10月までの半年間、唯一の例外だったのが歴史・文芸のテーマに入りそうな、貝沢久之助による「カムイ・ユカル」の詠唱・講演会のみだった。
もっとも、全寮日誌を書いているのが理科の学生だったりすると、興味のない文科系の講演会はすべてパスしていた可能性もあり、「昭和」第8号の半年間のみ時事テーマの講演会記録が、やたら目につくだけなのかもしれない。
さて、10月19日の早朝、昭和寮の第三寮と第四寮へ泥棒が入っている。「久し振りで」と書かれているところをみると、以前はしょっちゅう侵入されていたらしい。被害は大きかったようだが、盗まれた金額や品物については特に書かれていない。第三寮の寮だよりには、「今暁四寮、三寮に泥棒入る。とられた奴の寝呆け面は見られたものでやねェ(ママ:じやねェ)」と記録したが、第四寮では寮務委員が戸締りの責任上きまりが悪かったのか、泥棒被害についての記述は記載されていない。
◆写真上:学習院昭和寮(現・日立目白クラブClick!)の第一寮棟入り口。
◆写真下:旧・学習院昭和寮の、現状における外観・内観いろいろ。