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大正期から昭和初期にかけて、さまざまな動物飼育をビジネスとする事業が、東京郊外のあちこちで起業されている。その中で、もっとも多かったのが乳牛を飼育して東京市内へミルクを供給する「東京牧場」Click!と、同様に新鮮な卵を供給する養鶏場だ。
落合地域では、上落合の福室軒牧場Click!や、安達牧場Click!と提携して「キングミルク」ブランドの原乳を生産していた、上落合との境界に接する上高田2丁目322番地の牧成社牧場Click!が目につく。おそらく、その周囲には乳牛の委託農家Click!もいくつか散在していただろう。また、養鶏場はあちこちにあったようで、中島邸(のち早崎邸)Click!が建設される佐伯祐三Click!アトリエの東南隣り、下落合658番地の敷地も養鶏場Click!だった。だが、落合地域の東隣りである高田地域(現・目白/雑司ヶ谷)には、落合地域にはみられない大規模な動物飼育の事業経営が、大正期になると盛んに行われていた。
まず、1919年(大正8)現在の高田村には牧場が7ヶ所も確認できる。雑司ヶ谷鬼子母神に近接して開業していた北辰社牧場Click!をはじめ、ほどなく事業拡張のため長崎地域の西端へ移転してしまう籾山牧場Click!、宇佐美牧場、前田牧場、塩沢牧場、博勇社牧場、そして報国社牧場の7つだ。この中で、もっとも規模が大きかった北辰社牧場と、籾山牧場の紹介記事を、1919年(大正8)に刊行された『高田村誌』から引用してみよう。
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◆北辰社牧場
社長は前田鉄太郎氏なり。創立は今を去る三十幾年前の事にして、当時は此付近未だ家なく、所謂武蔵野の山林なりし処たり、牛頭数二百余、他に房州に預託するもの三百余頭也。其搾乳料は一日五石を超え、年額販売価格四万円を超え、即ち総石数千七百余石に達す。常に畜牛の改良に努力し、資料濃厚、給与豊富にして、乳質の優良なるものの販売を主義とせり、従つて支店其他の副業を成さず、たゞ剰余の乳汁はバタ(乳酪)の製造に供するのみ、乳牛の種類は、単角種、ゼルシー、エーアシヤ、ホルスタイン等、何れも純粋に改良せられたる良種となす。本店は麹町区飯田町三ノ九、(九段坂下)にあり。其名夙に知らる、牧場坪数は七千余坪を有す。
◆籾山牧場
明治十八年、時の御料牧場波多野尹政氏の経営によれるものを、籾山英次氏其後を継ぎ今日に及べり、場主籾山氏は帝大獣医科の出身、前生産組合副組長、今の代議員勲五等双光旭日章の栄誉ある人なり、乳牛種はホルスタイン、エーアシヤ、ゲルンヂー、シンメンターラー等百九十余頭、牧場坪数、東京本場一万八千坪、内農場一万四千坪、千葉育牛部二千坪外に農家預託のものあり、長野分場十三万八千余坪、内農場十二万坪余なり。如斯にして、本牧場は、其一大特徴とせる飼料自給政策を全うしつゝあり、専ら種畜分譲、生乳卸売、乳製品等に声価を有せり。/更に本籾山牧場は公共的付帯事業として、実費の種付、或は学校実習用として農場の提供をもなし、乳製品の引受もなしつゝあり。
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また、農家の副業的な事業ではなく、700坪の敷地に大型鶏舎を4棟建てた大規模な養鶏企業も開設されている。同書から、島田養鶏場の項目を引用してみよう。
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◆島田養鶏塲
大正七年十月島田氏に変りて現在執行(しぎょう)勤四郎氏の個人経営なり。和洋各品種を網羅し、種鶏種卵、人工孵卵肥育等を専らとす、而して養鶏事業をして国家的に普及奨励せんの計画なり、坪数七百坪鶏舎四棟三十三室を有す、大正四年の創立に成れり。
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さて、ここまでは通常にみられる動物飼育の事業なのだが、高田村にはほかには見られない、めずらしい動物の飼育・研究施設がオープンしている。それは、野鳥を研究して新たな家禽になりそうな種を飼育し、その肉や卵の供給を促進する、これまでにない新規の開発・研究事業だった。高田村雑司ヶ谷345番地に小田厚太郎が設立した、小田鳥類実験場がそれだ。
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中でも、ウズラの肉や卵を生産する研究がもっとも進んでおり、大正中期から東京市街地に出まわりはじめたウズラの肉や卵は、すべて同実験所の研究成果だったようだ。つまり、今日ではあまりめずらしくないウズラ製品だが、その大量飼育法や生産技術を最初に開発したのが、高田村雑司ヶ谷は日本女子大寮の裏手にあった小田鳥類実験場というわけだ。おそらく、ウズラ飼育の技術やノウハウは大正期の当時から現代まで、改良が重ねられてそのまま受け継がれているのだろう。同書から、小田鳥類実験所の紹介を抜粋してみよう。
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◆小田鳥類試(ママ:実)験所
小田鳥類実験所は、高田村大字雑司ヶ谷村三四五女子大学寮の裏手に在り。一般野禽の学術的及生産即ち家禽的価値を研究するを目的として設立せられたるものにして、所長小田厚太郎氏の独力経営するところなり。氏は醇々洞主人と号す。十数年前より斯の研究に志し、現今新家禽として世に喧伝さらるゝ鶉飼育の如き、氏の実験に基き、その流行を見たるものなり。(中略) 氏の斯の事業は実に空前のものにして、その言によれば、この新なる実験により、従来の養鶏の如きも、更に改良進歩せしめ、その生産率を増進し得べしといふ。/雑司ヶ谷の地とも鶉御猟の旧蹟なり。この地に鶉の飼育に成功せる小田鳥類実験所を見るに、又不思議の因縁といふべし。
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文中で「鶉御猟の旧蹟」としているのは、徳川将軍の鷹狩場(御留山)Click!に指定されていたことを指しており、高田村には当時「鶉山」という小字がいまだ残っていた。
また、輸入された大量の西洋ミツバチをもとに、本格的な養蜂ビジネスも登場している。いまでは、銀座蜂蜜Click!や渋谷蜂蜜など、都心での養蜂業による「東京蜂蜜」はぜんぜんめずらしくないけれど、大正期の養蜂業はやはり郊外地域が主体だった。養蜂技術は当時、北海道がもっとも進んでいたようで、池袋駅も近い日本養蜂場では、北海道の養蜂企業と提携しながら事業効率を高め、生産性を向上させる技術やノウハウの修得に励んでいたらしい。
養蜂事業は、おもに蜂蜜や蜜蝋を収集・販売するのだが、それらは食品のほか化粧品や薬品などにも利用されはじめており、大正期に入るとその需要が爆発的に増えていった。高田村のミツバチは、1箱あたり年間に10貫匁(37.5kg)の蜂蜜を生産したが、北海道の養蜂業では1箱あたり年間30貫匁(112.5kg)がふつうなので、生産量はわずか3分の1ほどにすぎなかった。『高田村誌』に掲載された、岐阜に本社のある日本養蜂場の広告文を引用してみよう。
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◆養蜂事業
養蜂事業は現代に於ては国家的事業にして蜂の不足を感ずる事夥しく北海道との連絡をとり其欠点を補へるの現状なり 輸出額二十万封度を算ふ化粧品薬品原料五臓円等薬品に用ゆるはよく人の知る処也 菓子類印刷原料染料文房具原料として有らゆる方面に需要多し。蜂蜜は食料として滋養豊富、大学の分析成績に徴して纔(わず)かに水一割七分のみ(卵水分六割)(牛乳八割)といふ/欧米諸国は蜂蜜と其巣を郵便物同様に取扱ふの盛況也 黒龍江方面にても人口五、に対し一群の比率を示せり 養蜂一箱より十貫匁の採蜜を疑はず(北海道は三十貫匁)
日本養蜂塲/塲主 岡田岩吉
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高田村で起ち上げられた新事業が、次々と「国家的事業」になってしまう『高田村誌』の表現が、ちょっと面白い。今日、蜂蜜の需要は当時の比ではないほど爆発的に増加しており、国産品はわずか5%にも満たず、残りの95%以上が輸入品となっている。手間ヒマのかかるわりには利幅が少なく、中国などからの安い輸入品にはとても対抗できないのだろう。だが、大正当時には国内産の蜂蜜のみで輸出品も含め、ほとんどの需要がまかなえていたのかもしれない。
上記の動物飼育に関するビジネスは、あくまでも大正中期における高田村の様子だが、このあと5~6年ほど時代がくだると、さまざまな動物ビジネスが新たに登場してくる。たとえば、落合地域でも見られたが、この土地の豊富な湧水や地下水を利用して、自然の池や新たに造成した養魚池などへ、東京市街地の料亭などで需要の多いアユを放して養殖したり、観賞用のコイを育てたりするビジネスだ。手っとり早く現金収入を得られる事業へ、東京近郊の農家は次々と積極的に投資して事業を起こすのだが、長く成功をつづけた例は少ない。
ときに、投機的な動物飼育事業も現れた。昭和初期に流行した、ハトを大量に飼育してその肉を出荷するハトポッポビジネスだ。大阪から生まれた新事業のようだが、ちょっと考えればわかるとおり、日本人はハトの肉を食べる習慣がほとんどまったくない。その当時、米国や中国で食されていたのをマネて、近いうちに日本でも大量に食べられるようになると次々にハトが輸入され、関西を中心として各地に養鳩場が設置された。だが、戦争による食糧難の時代はともかく、その後もハトを食べる習慣は日本にまったく根づかず、事業に失敗した養鳩場ではハトをきちんと処分したところもあったのだろうが、多くの場合は経費節減のために放置されるか、あるいはハトはそのまま野外へ放たれた。
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今日、「エサをやらないでください」と各地で嫌われているハトの群れの多くは、昭和初期に失敗したハトポッポビジネスの遺伝子を受け継いでいる個体も少なくないにちがいない。まるで、先物取引のように投機熱が過熱した養鳩場ビジネスについては、機会があれば、また別の、動物物語……。
◆写真上:描いた制作者が不明な北辰社牧場の全景で、右手の森が雑司ヶ谷鬼子母神だと思われる。1990年(平成2)に発行された豊島区立郷土資料館『ミルク色の残像』より。
◆写真中上:。上は、北辰社牧場のホルスタイン。(前掲書より) 中は、1919年(大正8)出版の『高田村誌』に掲載された北辰社牧場(左)と宇佐美牧場(右)の広告。下は、1926年(大正15)作成の「高田町住宅明細図」にみる北辰社牧場。
◆写真中下:『高田村誌』の、小田鳥類実験所の外観(上)と島田養鶏場の広告(下)。
◆写真下:上は、小田鳥類実験所の南にある日本女子大学寮の正門。下は、『高田村誌』掲載の小田鳥類実験所(左)と日本養蜂場(右)の広告。