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今週の13日(火)の早朝、当ブログへの訪問者(PV)が1,000万人を超えた。落合地域ひいては江戸東京地方の事蹟や物語に、たくさんの方々が興味を抱きアクセスしてくださるのがとても嬉しい。のべ人数とはいえ、まさか東京の人口に匹敵する人々が、このような地域をきわめて限定したテーマ記事にアクセスくださるとは、ブログをスタートした10年前は思いもよらなかったことだ。これからも、新宿の落合地域を中心に、その周辺域を含めたさまざまな人々の物語や記憶を、少しずつ綴っていきたいと思っている。
(2015年1月14日AM現在のPV)
さて、1,000万超を記念する第1弾の物語は、下落合から消えた道路のお話から……。
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おそらく、明治期に名づけられたとみられる下落合の道路名に、「松影道」と「八重垣道」というのがある。この道路名は、1917年(大正6)に作成された地籍図にも採取されていた。現在は、南北へとのびる道路の北半分が、西武線と十三間道路(新目白通り)Click!によって消滅している。落合村の総鎮守である氷川明神社Click!境内の、東西に接した南北に通じる小道の呼称だ。現在、雑司ヶ谷道Click!から南へ曲がると、ふたつの小道はすぐに新目白通りへと出てしまう。
下落合氷川社の東側に接する、郵便ポストが設置された小道は「八重垣道」と呼ばれていた。西武電鉄Click!の開業当時は、初代・下落合駅Click!の駅前へと緩斜面を下る通りだった。雑司ヶ谷道と八重垣道がT字にぶつかる角(下落合889番地)には、初代・下落合駅前の交番である氷川前派出所Click!が設置されていた。この派出所も含めた、目白崖線の下を東西に通じる雑司ヶ谷道(現・新井薬師道)沿いには、西武線の開業と同時に駅前商店街が形成されはじめていたようだ。わたしが学生時代だった1970年代末でさえ、数多くの商店が軒を連ねていたが、現在は理髪店やクリーニング店などほんの数店しか残っていない。
この氷川社の鳥居や参道に面した小道が、なぜ八重垣道と呼ばれたのかはすぐに理解できる。下落合の氷川明神社は由来の知れないほどの古社で、江戸期にはクシナダヒメ1柱が奉られた女体宮だった。だが、明治期に入るとどこからかスサノオやオオナムチ(オオクニヌシ)が連れてこられて合祀され、“夫婦神”が鎮座する社となった。古代出雲でクシナダヒメとスサノオが結婚し、初めて“新居”をかまえたのが現在の松江市の南にある八重垣の地Click!だ。だから、夫婦神がそろった明治以降、鳥居のまん前を南北に貫く小道へ、出雲の夫婦神に親しみをこめて旧蹟地にちなんだ道路名をつけたのだろう。
でも、氷川明神の西側、すなわち本殿の裏側を南北に通る小道に、なぜ「松影道」と名づけたのかがわからなかった。この小道は、「松」がキーワードとなっており、氷川明神の境内に接した西側には、戦前まで銭湯「松の湯」(下落合884番地)が開業していた。この「松」つながりの名称は、おそらく当時の氷川社境内に濃い松林、ないしは特徴のある松の大樹でもあったのだろうと想像していた。それが判明したのは、1916年(大正5)に編纂された『東京府豊多摩郡神社誌』(豊多摩郡神職会)を参照したからだ。
同誌には、当時の氷川社境内をフカンで眺めた社殿や建物の配置はもちろん、大正初期に境内に生えていた樹木類までが、図版に描きこまれて収録されている。同誌から、下落合氷川明神の由緒書きを引用してみよう。
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当社の縁起今詳ならず、江戸名所図会に伝『氷川明神社、南蔵院の申酉田嶋橋より北杉林の中にあり祭神奇稲田姫一座なり是を女体の宮と称せり薬王院の持也』と、盖し高田の氷川明神は祭神素戔嗚命なれば、当社を配して夫婦の宮となすの意なるが如し、祭神は其後更まりたるものと覚し、旧幕時代には真言宗薬王院別当職たり維新の後別当を廃し後ち明治三十九年八月社格村社に被定、(以下略)
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ここで興味深いのが、祭神について「其後更(あらた)まりたるものと覚し」と、スサノオその他の神々が合祀された具体的な経緯を、大正初期の「神職」がすでに他人事のように“知らない”と表現していることだ。『東京府豊多摩郡神社誌』は、当時の地元神職会が編纂・発行しているのであり、当然ながら下落合氷川明神社の宮司も編集に加わっていたか、あるいは必ず自社の記述には目を通していたはずだ。しかし、この時点ですでに、なぜ主柱のクシナダヒメのほかにスサノオやオオナムチ(オオクニヌシ)が合祀されているのかが、早くも不明になっている。(少なくとも“知らない”ことにされている)
明治政府の出雲神に対する圧力(日本古来の神殺しClick!)と、それをかわそうとする地元との間で、さまざまな攻防やエピソードがあったことをうかがわせる微妙な表現なのだ。
さて、昔日の氷川社写真とともに掲載された図版を見ると、ことさら目立つ大樹を採取したとみられる木々には、針葉樹のスギが4本、マツが3本描きこまれている。さらに、シイやモミ、イチョウ、カエデなどの木々が採取されている。もちろん、これらは境内でも記録にあたいする大きな樹木だったとみられ、ほかにも中小の木々が生えていたのだろう。そして図版からは境内の西側、つまり本殿裏の道路沿いにはマツとイチョウが繁っていた様子がうかがえる。
特に本殿の南側、境内の南西角に生えていたマツは、枝葉が道路側に大きく張りだす特徴的な老松然とした姿ではなかっただろうか? だから、道路へ覆いかぶさるように生えた独特な姿から、この小道を松影道と名づけたのだろう。
氷川明神は、1945年(昭和20)5月25日夜半の第2次山手空襲Click!で焼けているが、大正期に採取された社殿や境内の様子を、もう少し同誌から引用してみよう。
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向拝に氷川神社の金字額を扁す、公爵近衛文麿の筆なり、殿内に子爵小笠原長生、同川村景明の筆に成れる金字額あり、社前に石製巌上の獅子一双を置き、社北に末社二字を安ず、盥石よりは清泉溢れ出づ、社南に喬松五株(包各一丈以上)列り立てるを始めとし、境内老樹散立すること九十八幹、風色神さびたり、表口なる石橋及び玉垣は大正四年秋御大礼記念の為め、村より奉献せる所也。(中略) 社宝に剣一振(長一尺二寸、明治四十一年十月四日近江国堀井胤明作井献) 及び陸軍省より下付されたる三十七八年戦役記念の砲弾方匙等あり。
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この記述によれば、上記の図版に収録された樹木のほかに、境内には98本の「老樹」が繁っていたことがわかる。社の南には「喬松」が5本繁っていたようで、やはり図版に採取されているのは98本を数える木々の中でも、特に樹齢を重ねた大きな樹木だったのが想像できる。
また、氷川社の扁額を近衛文麿Click!や川村景明Click!らが書いていたのを、わたしは知らなかった。さらに、社宝として堀井胤明が制作した1尺2寸の「剣」があるのも初耳だ。「剣」と書かれているので、とりあえずそのまま踏襲するけれど、1908年(明治41)に胤明が鍛えたのは諸刃造りの脇指、ないしは寸延び短刀ではないだろうか? 茎(中心:なかご)Click!の銘が、表裏どのように刻まれているのか興味のあるところだ。
大慶直胤(荘司箕兵衛)Click!の門下だった、刀工名に「胤」の1文字を受け継ぐ堀井家の初代・胤吉と3代・俊秀にはさまれて、2代・胤明は相対的に目立たず地味な刀工だが、相州伝Click!に魅せられて一時は鎌倉の瑞泉寺で作刀するなど、その焼き場は日本刀の代名詞である正宗Click!や貞宗を理想とする、鎌倉鍛冶の作品をめざしたものが多いようだ。氷川社の「剣」も、相州伝ないしは相伝備前の特徴が顕著な、実は諸刃造りの脇指ないしは寸延び短刀ではないだろうか?
1916年(大正5)の『東京府豊多摩郡神社誌』は、東京西部(現・東京23区の西部)に展開する代表的な社を網羅した、大正期の詳細な由来・解説書として貴重だが、その中には面白い記述を見つけることができる。下落合の西隣り、野方村のやはり由来が不明なほどの古社である江古田氷川明神社には、スサノオとともに第六天神Click!の男神オモダルが合祀されているのがわかる。
つまり、落合村下落合の第六天(大六天)2社や、長崎村の第六天社と並び、野方村江古田にも第六天社の存在が確認できるのだ。おそらく、1870年(明治3)に明治政府が発布した大宣教令=神仏分離・廃仏毀釈、あるいは1906(明治39)発布の神社合祀令による“日本の神殺し”政策=「国家神道」化で、江古田に建立されていた第六天社は政治的な圧力で廃社となり、女神カシコネは抹殺されオモダルだけが明治期に合祀されているのだろう。
◆写真上:境内の東側に接する「八重垣道」から写した、下落合氷川明神社の現状。
◆写真中上:上は、1917年(大正6)に撮影された下落合氷川明神社。下は、1916年(大正5)の『東京府豊多摩郡神社誌』に掲載された境内見取り図版。
◆写真中下:上は、1916年(大正5)作成の地籍図にみる「松影道」と「八重垣道」。中は、1938年(昭和13)に作成された北が左の「火保図」にみる氷川社とその周辺。氷川社の西には銭湯「松の湯」が収録されているが、西武線が開通しているので「松影道」と「八重垣道」はともに鉄路で断ち切られている。下は、右手に新目白通りに面しているにもかかわらず3階建ての低層ビルが建設中の「松影道」。
◆写真下:上は、郵便ポストが設置された「八重垣道」の現状。中は、1945年(昭和20)5月17日に米軍偵察機から撮影された第2次山手空襲による焼失8日前の氷川明神社。下左は、1916年(大正5)に編纂された『東京府豊多摩郡神社誌』(豊多摩郡神職会)。下右は、大六天神の男神オモダルが合祀されている1917(大正6)撮影の江古田氷川明神社。