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少し前、わたしのブログを訪問してくださった方が、のべ600万人を超えた。地元の落合地域から、あるいはここ江戸東京地方からのみならず、全国各地や遠く海外からアクセスしてくださる方もいる。このブログとは異なるサーバへ、別のページとして起ち上げている「目白文化村」Click!や「わたしの落合町誌」Click!など、一部の別ドメインへのアクセスカウントを加えると、ゆうに800万人を超えている。2004年の暮れ、東京は新宿区北部のまるで“離れ”のように引っこんだ、非常にローカルかつ局所的な地域をめぐる人々の物語をテーマに、「こんな記事、誰か読む人がいるのかな?」と個人的な嗜好の記録として、あるいは家族の地域アデンティティの形成用として、怖るおそるサイトを開設したときには、まったく想像だにしえなかった数字だ。
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こののべ人数は、東京都市部(23区)の全人口に匹敵するボリュームだろうか? あと1週間ほど、11月24日でスタートから丸8年が経過するのだが、この8年間に書いた記事、あるいは直近の3年間に書いた記事の「アクセスベスト10」を調べてみたくなった。
余談だけれど、11月16日現在の「下落合みどりトラスト基金」Click!サイトへのアクセス数は46万人超、すでに保存が決定し役割りを終えた「中村彝アトリエ保存会」Click!サイトへのアクセス数は27万人超となっている。
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閑話休題
きょうは、わたしが落合地域へ初めて足を踏み入れた、1974年(昭和49)の早春あたりの情景についてちょっと書いてみたい。1970年代半ばの落合地域は、いまとは比べものにならないほど緑がゆたかで、また落ち着いた家並みがつづく典型的な乃手Click!(旧山手ではなく、おもに大正期に山手線の内外に形成されたモダンな新山手)の風情をしていた。学校が近かったのと、のちに南長崎へ下宿Click!することになるので、落合地域のあちこちを歩きまわっていた。
当時の風景を撮影しておかなかったのは残念きわまりないのだが、先日、新宿歴史博物館Click!の資料室へ立ち寄ったとき、1970年代に撮影された落合地域の風景写真を掲載した資料があったので、さっそくコピーさせていただいた。そこに写る街並みは、わたしが20代のときに目にしていた、忘れられない落合地域の風情だ。写真が掲載されていたのは、1978年(昭和53)に新宿区が出版した写真集『新宿区30年のあゆみ~ガレキの中から、30年のいま~』だ。
目白崖線の上から眺める新宿西口には、いまだ京王プラザホテルに住友ビル、三井ビル、安田ビルの4本しかなかった時代だ。下落合の坂道を下れば、背の高いマンションなどほとんどなかったので、富士女子短期大学の時計塔Click!がひときわ空に突きでて見えていた。学校への行き帰りに落合地域を歩いたので、必然的に下落合(現・中落合・中井含む)の風景が脳裏に刻まれ、地形や土地勘とでもいうべきものが身についたのだが、上落合や西落合(旧・葛ヶ谷)は通学路から外れるためあまり歩いてはおらず、それが刻まれたのはもっと後年になってからのことだ。
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同写真集に掲載された街角で、もっとも懐かしいのは近衛町Click!と神田川(と妙正寺川)、そして中井駅とその北側斜面(アビラ村Click!)に拡がる光景だろうか。近衛町コースは、権兵衛坂やオバケ坂のコースとともに、学校からの帰路に選ぶことが多く、日立目白クラブClick!の西側にある急階段を上り、尾根上に出てから北へと歩いて林泉園Click!の尾根道をたどりアパートまで帰っていた。当時の近衛町は、マンションではなく大邸宅が並ぶ丘上の住宅街で、1922年(大正11)に東京土地住宅Click!が開発した大谷石の築垣がそのままあちこちに残る、静かで落ち着いた典型的な乃手の住宅街だった。
ときに中井駅へ出たのは、目白文化村を散歩しながら通学するときだ。山手通り沿いには高いビルがあまりなく、中井駅の高圧電線の鉄塔Click!が遠くからでも視認できた。山手通りを南へ向けて歩いていると、前方には中井駅の位置を教えてくれる高圧鉄塔が、ふり返れば東池袋にそそり立つサンシャイン60がよく見えた。同時に、当時はあちこちで開業していた銭湯の煙突から、午後になると排煙がもくもく空へ立ちのぼっていたのを憶えている。
中井駅の北側、下落合西部(現・中井2丁目)を歩いたのはアルバイトが休みの土日が多かったように記憶している。重厚でひっそりとした近衛町とも、オシャレでハイカラな目白文化村とも異なる雰囲気の住宅街で、このブログをスタートしてからアビラ村Click!(芸術村)の経緯を知ったとき、初めてストンと街の成り立ちや“アイデンティティ”が腑に落ちる思いがした。70年代は、いまだ茅葺きの家々が残っており、中井御霊社Click!の拝殿屋根も茅葺きのままだった。
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ひと口に落合地域といっても、その範囲は思いのほか広大であり、エリアによって多彩な表情を見せる、歩いても歩いても飽きないとても“楽しい”街だと思う。当時はほとんど散歩をしなかった西落合(特に三角形に突き出た北端部は当時、ほとんど足を踏み入れていなかった)は、昭和初期に碁盤状の三軒道路を含め整然と形成された美しい街であり、古い道筋をそのまま残す下落合や上落合ともまったく異なる風情を色濃く宿している。このように、落合地域はエリアによって実にさまざまな街の“匂い”を楽しめる、「一粒」で4つも5つも美味しい街だと感じるのだ。
これらの街の風情や感触は、人々が住宅を建てはじめた当時から、大なり小なり形成されていたと思われ、換言すれば、そのような街々の“匂い”へ惹かれるように、このサイトに登場するさまざまな人々が各エリアに集い、落合地域ならではの物語を形成していったのだろう。そして、現在でも少なからず、それぞれの街にはそこで暮らした人々の多彩な物語や伝承とともに、その“匂い”をそこはか感じとることができるのだ。それは、いたるところ名所や旧蹟だらけなのにもかかわらず、その“匂い”の大半が失われてしまった(城)下町とは大きなちがいだ。
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落合第四小学校が、2002年(平成14)に開校70年を記念して、同校を中心に下落合の東端部の空撮を行なっている。この写真は、“下敷き”にして生徒たちに配られたものだが、わたしが初めて落合地域に足を踏み入れた1974年(昭和49)の空中写真と比較すると、緑の減少がいちじるしい。1974年の空中写真は、真冬に撮影されているため一見、2002年の写真ほうが緑が多い印象を受けるのだけれど、落合地域の緑の減少率は新宿区の街々では群を抜いてワースト記録を更新しつづけている。「タヌキの森」Click!の課題もそうだが、ほんの少しでも70年代に眺めた、緑ゆたかで落ち着いた下落合の美しい街並みへもどってくれたら・・・と願わずにはいられない。
◆写真上:柿が実った晩秋の、いかにも下落合風景らしい風情。
◆写真中上:いずれも、新宿区が1978年(昭和53)に出版した写真集『新宿区30年のあゆみ』より。上は、神田川と妙正寺川の合流地点(左)と田島橋の少し下流(右)。田島橋の向こうには富士短期大学の時計塔が見え、また右手にはすでに三越マンションが建設されている。下は、懐かしい風情の近衛町(左)と目白崖線から眺めた中井1丁目から高田馬場駅方面の眺め(右)。
◆写真中下:上は、山手通りの陸橋から眺めた中井駅(左)と斜面に拡がるアビラ村(芸術村)の街並み(右)。下は、同じく陸橋から眺めた中井駅踏切り(左)と上落合2丁目の街並み(右)。
◆写真下:上は、1974年(昭和49)の空中写真にみる山手線が近い旧・下落合の東端部の街並み。下は、落合第四小学校の開校70周年を記念して撮影された同じ地域の空中写真。