きょうは、少し「日本史」のおさらいから書いてみたい。浄土信仰が拡がりはじめたのは、比叡山の恵心僧都源信が『往生要集』を著わした1000年ほど前からだといわれている。同信仰は、阿弥陀仏がいまだ法蔵菩薩の時代に、いくら悟りを得ても衆生(しゅじょう/生きとし生けるもの)を救うことが無理なら、悟りなど必要ないと48の「願」(阿弥陀経)を立てた伝説にもとづいて、阿弥陀仏を信じ念仏を唱えていれば往生できる……とした、仏教のセクト(宗派)のひとつだ。
正法(教・行・証の時代)から像法(教・行のみの時代)、そして1052年(永承7)からはじまる末法(教のみの時代)には、世の中が混乱し安寧だった政治や社会の崩壊現象が限りなく進むと予言されていた。おりしも、東では平将門Click!が武蔵勢力を結集して“反撃”を開始し、西では藤原純友Click!が蹶起するなど、自らの実力を認識しはじめた武家の台頭が目立ちはじめ、京の藤原政権の公家たちは右往左往し、いつ世の中をひっくり返されるか戦々兢々としていた時代だ。浄土信仰の「末法思想」(入末法説)は、ときの権力者たちにしてみれば、まことに都合がよくリアルタイムで切実なテーマに映り、無理なく受容されていったのだろう。これが、浄土信仰の出発点だ。
そして、世の中がひっくり返ったあと、武家政権の時代に登場してきた改革者が、中国仏教の強い影響下にあった法然で、九条兼実の求めに応じて書いたのが「当今は末法、現にこれ五濁悪世」の『選択本願念仏集』だった。中国の道綽が唱える「浄土宗」こそが、「一切を摂す」完全な教義であると規定する。つづけて、弟子の親鸞が流罪先の越後で、また常陸で地域布教をつづけ、『教行信証』を書いて「在家の仏者」のかたちを体現した。そして、弟子の唯円が記録したとされる、親鸞の「悪人正機説」で有名な言行録『歎異鈔(抄)』を遺すことになる。
親鸞の教条が、従来の浄土信仰に比べて“革命的”なのは、阿弥陀仏の「願」は煩悩だらけで無力な衆生のためにこそあるのであり、自分の力で生きられる(自力性)や自信のある人間=「善人」とは、無縁の「願」であるとしている点だ。したがって、自力性や自信のない「悪人」でさえも、念仏を唱えれば阿弥陀浄土への往生をとげられるのだが、その念仏さえも人が意図する行いではなく、「絶対他力」=阿弥陀仏の広大な力が導く「非行非善」のかたちであると定義する。
また、『教行信証』の中では「自力」を棄て、「絶対他力」=阿弥陀の「はからひ」(『末燈鈔』)により本願へ帰依することを「横超(おうちょう)」と呼び、「自力」の修行によって仏になるその他の仏教が「竪超(じゅちょう)」であるのに対し、浄土真宗こそは「横超」であると規定した。晩年の親鸞は、より「絶対他力」を強調し、自分には「自然法爾(じねんほうに)」のもと「南無阿弥陀仏」を唱えて往生を願うこと以外は必要ないとまで言い切っている。これらの教義は、浄土真宗による西洋哲学(おもにヘーゲル)とからめた近代的解釈や、昭和期の“親鸞ブーム”(哲学分野では三木清)によって、戦後の再々評価につながっていると思われる。
さて、1928年(昭和3)に刊行された『主婦之友』2月号には、その急死によって絶筆になったとみられる、九条武子の連載随筆『おのれにかへる静けさ』(連載2回め)が掲載されている。彼女は同年2月7日に、敗血症により42歳の若さで死去しているので、おそらく主婦之友編集部へわたした最後の原稿ではないかと思われる。彼女は、1052年(永承7)からはじまったとされる「入末法」の認識を継承し、文章には「専修念仏」を意識したかなり説教臭い表現を遺している。
九条武子Click!は、西本願寺(真宗本願寺派)の21代・明如(大谷光尊)の次女として生まれた。その生涯を貫いた宗教思想は、もちろん法然から親鸞、蓮如へと継承されてきた真宗(本願寺派)の教義そのものだろう。『おのれにかへる静けさ』では、「久遠の光明」と題する章のはじめに、「私たちはどうしたならば、本当に生きてゆけるでせう。どうして生き甲斐のある生涯に入ることができるのでせう」と、自身の思想を人間の社会観や人生観を通じて解説するという体裁で書き進められている。同随筆から、少し引用してみよう。
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誰しもこの世にたゞ存在してゐる、生存してゐるといふだけで、満足してゐるものはないでせう。一歩進めて、生きてゆく、生活してゆくといふことに想ひ至つたとき、しみじみと生きることの価値について考へさせられるのであります。この価値ある生涯の建設にさゝげる努力は、大まかな言ひ方ですけれども、生命を求むる努力であります。自分の生命を忘れた、漫然と小鳥のやうに生きようとする考へは、この地上には、おそらく実現し得ないでせう。生命のない営みは、刻一刻に果敢なく滅びてゆくよりしかたがないのです。それは何の感激もない、しかも寂寥しい生活と申すより他はありませぬ。
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小鳥や彼女がかわいがる下落合のネコClick!たちだって、持てる能力や宿る精神を精一杯ふりしぼりながら、日々、感性的認識力をフル稼働させつつ一所懸命に生きてるでしょ、それをどうして「生命のない」「何の感激もない」「寂寥しい生活」などと決めつけができるんだい? 人間には見えないものが、彼らには見えているかもしれないじゃんか……というような、日本の自然神的=アニミズム的な視界からの反駁は、人間以下の下劣な衆生三悪道(畜生道・餓鬼道・地獄道)を信じる仏教者たる彼女には、まったく通用しなかったろう。わたしのような「自然神」的な世界観は、未開の「原始宗教」とでも呼ばれてしまうのかもしれない。
わたしは、人間が「上」で動物は「下」と蔑視して見くだすような、中国や朝鮮半島の思想をたっぷりまぶされた、階級的で差別的な「シャカ王国」の外来宗教をまったく信じてはいないので、九条武子の言質には諸々反発を感じるのだが、彼女の人間に対する尊厳や慈しみには、たまに共感はおぼえることがある。
しかし、彼女の“認識論”の本質は「現状(現環境)肯定」=「自己肯定」であり、苦境に陥っている人々への最終的な諦念を前提とする「悟り」こそが「たましひ」の救済であり、(近代人の)自我のみに頼ろうとすると絶望の淵へ落とされるのであるから、それは「宿業」として受け入れることで、初めて「救ひの光」が見えてくると説いている。つづけて、同随筆から引用してみよう。
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然し、はつきりと自分のたましひを抱いて、一生懸命に進み進んで行つてゐると思つても、この現実において、さのみ恵まれてゐることを感知できないのが人生であります。『自分はかくまで喘ぎ辿つてきた――』 しかしみづから享くるところのものは、依然として苦難と懊悩にみちてゐることを知るとき、何か訴へたい、呪ひたい、泣きたいやうな、否、むしろ、泣くに泣かれぬ心地さへ抱くでありませう。けれども、真実に生くる試練は、こゝにあたへられてをります。/宿業――さういふのでせう。あらゆる苦難も、畢竟、自分に荷せられた、逃避することのできない宿業なのであります。然し宿業といふ言葉を、簡単に諦めの如く、軽々しく用ひてはなりません。自分の精一杯の力をさゝげても、なほ浅ましい、悩みにみちた自分がかへりみられたときに、はじめて、自分の力では、どうにもならない、厳かな宿業のことわりが、さとられると思はれます。
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わたしは、丸山眞男以降から現代まで、左右を問わずおもに戦後の“主体性論”をめぐる思想状況の中で生まれ、育っているので、この文章は最後的な地平まで主体的な“選択”(自力)をしつづけることをあきらめた「敗北主義」としてしか映らず、残念ながら受け入れられない。よしんば、当時は経済的な基盤を容易に形成できず、自立への道を阻まれていた家庭で孤立しがちな「主婦」を相手の随筆にせよ、同時代の女性たちが主張するする言説とを勘案・比較すれば、明らかに時代遅れな思想の感は否めない。もっとも、現在よりもかなり年を重ねていった結果(ひょっとすると死ぬ瀬戸際になって)、「まあ、そんな考え方も“あり”なのかな?」……ぐらいは感じるのかもしれないが。
そして、九条武子は法然の生き方を引用し、「南無阿弥陀仏」と唱えることで救いの光に照らされて、「愚痴の法然房、十悪の法然房」の意味を「尊く味はれてくる」と結んでいる。つづけて、同文から引用してみよう。
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自我にのみ頼らうとする人は、自らの力の及ばぬとき、絶望の淵に突きおとされてしまうでせう。あらゆるはからひのつきたときに、救ひを信ずる者と、信じない者の、大いなる差が、はつきりと見分けられるのであります。『兎毛羊毛のさきにゐるちりばかりも、つくるつみの宿業にあらずといふことなし』(歎異鈔)――宿世の業火に喘ぐ身は、救ひの光に照らされて、はじめて自らの、醜き浅ましさがかへりみられるでせう。
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九条武子の『おのれにかへる静けさ』は、明らかに親鸞の言行録『歎異鈔』を骨子とする論旨が展開されているのだけれど、『歎異鈔』が、その書かれた時点から再び広く脚光を浴びたのは、蓮如の時代や江戸期における国学の一部を除けば、明治時代になってからのことだ。しかも、『歎異鈔』研究では、九条武子の真宗本願寺派とは対立する、真宗大谷派が先んじていた。
きょうは、九条武子が著した晩年の所感・随筆をご紹介したが、彼女は勉強家なので対立する真宗大谷派の著作ながら、ヘーゲル哲学と真宗教義とを比較し近代的解釈への道を拓いた、哲学者・清沢満之の『他力門哲学』その他の著作にも、目を通しているのではないだろうか。もしそうであれば、近代人の「自我」を前提とする西洋思想(哲学)と、自身の思想とをどのようにとらえ、位置づけ、探究し、解釈していたのかを、一度詳しく聞いてみたいものだ。
さて、九条武子はまるで現代女性のように、彼女の目の前で近代的自我をあらわにしながら“自己投企”を激しく繰り返す、「静けさ」とはほど遠い親友の柳原白蓮(宮崎白蓮)Click!について、どのような想いを抱いていたのだろう。どこまでも「宿業」や「証」(悟り)を受容しない、わからずやの困った姉のような存在として、「たましひ」の救済のために諌(いさ)めていたものか、それとも彼女の真宗本願寺派としての「表の顔」とは裏腹に、少なくとも20世紀を生きる女同士として、いわず語らず共感めいた想いを白蓮に寄せていたものだろうか。そこで、もうひとつ考慮しなければならない側面は、随筆『おのれにかへる静けさ』が九条武子の“本来業務”、つまり公開を前提とするあくまでも真宗本願寺派の、義務的な「おつとめ」として書かれたものであるということだろう。
◆写真上:下落合の九条邸南側にあたるオバケ道への入り口で、九条武子がネコ(工事用手押し車)を使って石を取り除く「道路整備」Click!をしていた現場。
◆写真中上:上は、法然(左)と親鸞(右)。下は、九条武子(左)と1928年(昭和3)の『主婦之友』2月号に掲載された彼女の随筆『おのれにかへる静けさ』(右)。
◆写真中下:上は、同じく九条武子(左)と『おのれにかへる静けさ』の最終ページ(左)。文末には「以下次号」となっているが、九条武子は2月7日に急死しているので、これが随筆としては絶筆とみられる。下は、九条武子の手紙にみる筆跡。
◆写真下:九条邸南の路上で、ネコ車を押しながら道路整備をする九条武子。撮影は親友のカメラマニアの“清子さん”で、木漏れ日の下に見える崖は現・野鳥の森公園。