渋谷に生まれて育った大岡昇平Click!は、14歳のとき渋谷町松濤の自宅で関東大震災Click!に遭遇している。このとき、大岡一家は保養へ出かけていた逗子からもどった直後で、松濤の高台にある家の玄関を入ってから30分後、一息ついているときに地震が襲った。渋谷川や宇田川が谷間を流れる渋谷の丘陵地帯は、神田川や妙正寺川が流れ河岸段丘がつづく、同じ武蔵野台地の東端にあたる落合地域とよく似ているので、そのときの大地の揺れ方が両地域で似通っていたのではないだろうか。そんなことを意識しながら、渋谷地域における大震災前後の様子をご紹介したい。
渋谷では、火災による被害は最小限で済んだようなのだが、『新修渋谷区史』によるとそれでも全壊31戸、半壊139戸、死者13名、負傷者56名にのぼっている。もっとも、これはのちの1966年(昭和41)になって編まれた区史の統計なので、現在の渋谷区全体の数字であり、大岡がいた丘陵地帯の多い豊多摩群渋谷町松濤エリアの数字ではない。大岡は、前年からつづいていた大震災の“予兆”、すなわち前触れ的な地震について書きとめている。以下、1975年(昭和50)に筑摩書房から出版された『少年』から引用してみよう。
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前の年からかなりの強震が度々あったことが記録されているが、そういえばそうだった、という程度の記憶しかない。中には上下動から始まるものがあり、外へ飛び出したことがあったように思う。しかし九月一日の上下動は、それまでのものとは全然規模が違っていた。上下に揺れるだけでなく、その軸が前後左右に揺れる。要するにめちゃくちゃに揺れるのである。/私はこの時の揺れ方を身体で覚えているので、大体初震の揺れ方で地震の規模がわかる。この時の余震には、家のたががゆるんでいたせいか、九月一日よりもひどく感じられた時があり、一、二度、外へ飛び出したことがあった。しかしすべてが収まってから、以来五十年、私は一度も地震で外へ出たことはない。
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これによれば、関東大震災の直前には危機感をおぼえて外に飛び出すような、ヨコ揺れではなく予兆と思われる比較的大きなタテ揺れの地震が起きていたことがわかる。もっとも、関東大震災はプレート系の地震なので、江戸東京の直下型と思われる安政大地震Click!とはまた、事前の予兆も揺れの体感も大きく異なるとは思うのだが……。大岡が東日本大震災を体験したとすれば、その経験から初震で外に飛び出しただろうか?
多くの作家が記録したように、大岡もまた震災による直接のショックよりは、その後に起きた社会情勢の大きな変化のほうに、より深刻で大きな衝撃を受けている。つづけて、『少年』から引用してみよう。
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私にとって二日目から始った朝鮮人虐殺と、甘粕大尉が大杉栄をその愛人伊藤野枝、親類の子供といっしょに殺したことのショックが大きかった。軍人とは何というひどいことをするのだろうと思った。それらはそれまで読んだ、どんな小説にも書いてないことだった。/地震のこわさについて、私たちはそれまでに安政の大地震と、近くは明治年間の濃尾大地震の話を聞かされていたと思う。地理教科書や少年雑誌に濃尾大地震の写真が出ていた。広い野を貫く一本の道が、地震によって生じた断層によって上下左右にずれている写真である。水平動より上下動がこわいこと、家内にいる時は箪笥の傍に坐れ、というような教訓も心得として知っていたはずである。
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以前、佐伯米子Click!の土橋にあった実家のまん前に開店し、岸田劉生Click!も行きつけの写真館だった江木写真館が記録した、いまは学習院大学の資料室に保存されている濃尾大地震Click!の写真をご紹介したことがあった。濃尾大地震が内陸型の活断層地震なのに対し、関東大震災はプレート型の巨大地震であり、今日では初期に起きるタテ揺れよりも、長時間つづいた執拗なヨコ揺れ(短・長周期地震動)のほうが、当時の建築物へ決定的なダメージを与えたとみられている。また、最新の研究では、プレート型や直下型の地震形態を問わず、稍(やや)長周期地震動(拡張定義としてのキラーパルス)の危険性が大きくクローズアップされている。
先月、NHKのドキュメンタリーでも取りあげられていたが、阪神大震災で倒壊した高めのビルについて詳細な研究をつづけたところ、同震災では稍長周期地震動(2~5秒)が発生していた可能性が高いことがわかってきた。ヨコ揺れの周期が長くなると、むしろ震動に対して柔軟に対応する耐震設計が施された高層ビルが、むしろもっとも危険な建築ということになるようだ。番組では、25階建ての高さ100mの耐震構造を備えたビルが、振幅4秒のキラーパルスによりほんの数十秒で倒壊するシミュレーションを実施していた。しかも、地盤が軟弱な埋め立て地に建つ高層ビルは、キラーパルスが通常よりも増幅し、そのダメージをさらに受けやすい環境といえるだろう。
この最新研究によれば、高層ビルは途中階から出火した火災を消火する方法がない、あるいは震災後にはエレベーターが破壊されるので実質的に事業や生活が成り立たない……というようなリスク課題よりも以前に、大きな地震(稍長周期地震動)の発生から、わずか数十秒で倒壊する危険性のほうがより大きそうに思えるのだ。小林信彦Click!の危機感をベースにした“予言”Click!は、どうやら的中しそうな研究成果となっている。
大岡昇平は、渋谷の大和田横丁に住んでいて、たまたま外を歩いているところを関東大震災に遭遇した藤田佳世という女性の手記も紹介している。同書より、1961年(昭和36)に出版された『渋谷道玄坂』(弥生書房)から引用してみよう。
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友達の家から神泉の狭い廻りへ下って来ると、下り終えたところで両側の家の戸が、がたがた鳴り出した。「原田さん、風よ、風が出て来たみたいね」と、友達と顔を見合わせたとたん、足元の大地がぐらぐらっとゆれ出したのである。「ごーっ」という凄まじい地鳴りを聞いたようにも思うが、それは私の錯覚かも知れない。だが、立っていられないほど地面がゆれていたことは確かであった。/「大変だ」と、私は弟と友達の手を堅く握り、夢中になって駆け出した。/「危いっ、坐れ、すわれっ」と、誰かがうしろでさけんでいた。だが、夢中で駆けた。/神泉の通りを南へ抜けて、大坂上の用水堀の端へ出ると、用水の水が両岸に叩かれてピシャッピシャッと、四、五尺もはね上る。もうこれ以上走ったら危い、私は友達と弟の肩を抱いてそこへしゃがんだ。いや走ろうとしても恐らく走れなかったのであろう。(中略) その時の凄まじさは、どう伝えたらいいのだろうか。あまりのゆれ方に立っていられなくて、かたわらの梅の木にすがったが、その梅の木ごと、体が前後に一尺もゆれた。家々の廂が、地につきそうであったといっても決して過言ではない。倒潰する家の凄まじい土煙りを火事と早合点して、「兄さん、大変だっ」と、父の弟岩吉叔父が、するどく呼んだのもこの時である。
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関東大震災の最大振幅は20cm前後とされているが、地域や地形による地盤の強弱によっては、より大きなヨコ揺れがあったと思われる。渋谷の谷間にあたり、湧水源のひとつである神泉では、「一尺(約30.3cm)」ほどに感じられる大きなヨコ揺れがあったようだ。また、農業用水が大きく波立ち河岸へとあふれる様子は、先の東日本大震災で撮影されたプールや噴水などの映像でも記憶に新しい。
最後に、大岡昇平が自身で体験した1923年(大正12)9月1日午前11時58分30秒すぎ、関東大震災のその瞬間の様子を引用しておこう。
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十一時半頃、家に着き、父と私は裸になって、縁側に出て涼んでいたところへ、地震が来た。/どこからともなく、なにか変な音が近づいてくると思ったら、これまで私の経験したことのない、はげしい上下動が来た。それから前後左右にめちゃめちゃに揺れた。立ち上って縁側の硝子戸につかまったが、その手がはずれてしまうほど、激しかった。庭の植込の石灯籠が互い違いに三つに割れて崩れ落ちる不思議な光景を見た。父と私はほとんど同時に、目の前の揺れる地面に飛び降りた。
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大岡家では、幸い家族にはケガがなく、弟の子守りに雇っていた女の子の頭に、屋根から落ちた瓦の破片が当たって、小さなコブをつくったぐらいで済んでいる。
◆写真上:画面左手にある渋谷駅に到着寸前で、減速中の内まわり山手線。
◆写真中上:上は、1923年(大正12)9月1日から間もないころに、陸軍航空学校Click!の練習機から撮影された江戸川(現・神田川)の隆慶橋Click!あたり。下の小石川諏訪町あたりは延焼で焼け野原だが、対岸の牛込区新小川町あたりはなんとか火災をまぬがれている。下は、水が豊富で田畑が展開していた谷底にあたる現在の神泉駅踏み切り。
◆写真中下:上は、大火災が発生している市街地から貨物列車で避難する人々。下は、被服廠跡の慰霊堂内部には関東大震災を記録した絵画が壁に架けられて並ぶ。
◆写真下:上は、大震災直後の上野駅前に殺到する大群衆で火災は右手から迫っている。このあと、上野駅とその周辺は全焼した。下左は、上野公園へ着の身着のまま避難した人たちで外国人の姿も見える。落下物で負傷したのだろう、頭に包帯を巻く人たちが目立つ。下右は、地割れで車両が通行できなくなった旧・鎌倉街道(場所不明)の路面。