学習院昭和寮Click!の本館内、あるいは付属する共有施設の管理は、学生の自治運営に委任されていた。本館では娯楽室と談話室が、本館周囲では庭園が学生たちの管理対象であり、年に一度の担当委員が選出されている。また、発行人は同寮の舎監だった馬場轍となっているが、寮誌「昭和」Click!の編集・発行も学生が主体となって行っていた。これらの委員(「主任」とも呼ばれる)は、いわゆる寮務委員(寮長)とは異なる役務で、年度ごとに選出されている。
それぞれの担当委員には、かなりの自由裁量が許されていたようで、いわば“役得”から自分の好きな趣味を施設へ反映できたらしい。たとえば、娯楽室では自分の趣味に合うレコードを集めたり、庭園には好きな草花を植えたり、あるいはまったく手をつけずに野草の生えるままにしたり(要するにサボって放置したり)と、いい加減で好き勝手ができたようだ。
1933年(昭和8)2月に発行された「昭和」第8号には、娯楽室委員あるいはその仲のいい学生たちに濃い宝塚ファンがいたものか、宝塚のレコードがやたら増えたことが報告されている。このころのスターは、わたしがおばあちゃん役しか知らない葦原邦子だろうか。同誌の「寮だより」Click!につづいて記録されている「娯楽室報告」から、その一部を引用してみよう。
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今丁度夕食が終つた頃です。一寸娯楽室を訪れて見ましよう。凡そ娯楽室にそなへつけられて居るものすべて使用されております。ピアノとヴアイオリンの二重奏、ピンポン、闘球盤、碁、将棋、U・S・W・ 午後六時頃の娯楽室は全く楽しさと親しさのオーケストラです。こゝにももうぢ(ママ:じ)きスチイームが通るでしよう。暖さと楽しさは将に飽和に達しようとして居ます。/レコード、二学期は学校でもいろいろな催物がありました、輔仁会、運動会、これらにも昭和寮のレコードは非常に効果的でありました。蓄音機も大分年をとつた様です、しかしまだまだこちらの使ひ様一つで長生をするでしよう。レコードも出来るだけ御希望に沿つたものを購入するつもりです。今学期は妙に宝塚が多くなりました。といつて決して主任どもが宝塚からも蓄音機屋からも月給はもらつて居りません。やつぱり何となく面白いので買つてしまひます。
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「闘球盤」とは、どこかビリヤードに似た盤上ゲームのことで、今日では廃れてしまって見かけない。「U・S・W・」はドイツ語und so weiterの略で、ラテン語のet ceteraを略した「etc.」と同様の意味だ。
娯楽室には、ピアノやヴァイオリンなどの楽器類が常備されていたのがわかる。この報告は、寒い日々がつづく第8号〆切まぎわの1932年(昭和7)11月に書かれたと思われるので、盛んに「スチイーム」のことが書かれている。同年の冬、本館の各室にはスチーム暖房を導入する工事計画が進められていたようだ。
楽器や蓄音機などの大きな買い物は、舎監への申請が必要だったと思われるが、レコードライブラリーは学生が好き勝手にそろえていたらしく、おそらく娯楽室主任が変わるたびに“趣味”が変わっただろう。宝塚のほかはクラシック音楽が主体だったと思われ(近衛秀麿の録音盤がそろっていたかもしれない)、まちがっても長唄や清元、流行歌、芝居、講談に、広沢虎造といったレコードはなかったにちがいない。
次に、談話室の主任報告を聞いてみよう。談話室にはラジオが備えられており、人気番組のときは寮生たちが集合していたらしい。学習院昭和寮で人気が高かったのは、野球とラグビーの早慶戦だ。談話室にはバーがあるので、寮生たちはコーヒーを飲みながらラジオで観戦(聴戦)していた。同誌の「談話室報告」から、短いので全文を引用してみよう。
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「打ちました打ちました ヒットヒット此れで早慶同点試合は愈々白熱化して来ました、観衆は――」/秋のスポーツの王座早慶野球戦又は肉弾相打つラグビー試合の中継放送 夜は演芸効(ママ:放)送を熱いコーヒーを飲みながら聴くのも悪くはありませんね。/冬も近くなりましたが今年はおでんをやめて田中屋を入れようと思ひますから、精々食べてやつて下さい。
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前年までは、おでん屋が昭和寮本館に出店していたらしいが、1932年(昭和7)の冬から「田中屋」にスイッチしたようだ。このように、昭和寮談話室に設置される出店も学生たちが決めていた。さて、田中屋とはなにを扱う飲食店だったのだろうか? 当時の広告類や地域地図を片っ端から探してみると、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」に、飲食店らしいほぼ唯一の田中屋を見つけることができる。ちょうど当時の目白駅前、つまり目白橋の西詰めに位置する店舗で、場所がらから蕎麦やうどんなど麺類を食べさせる店のような風情だ。食べ盛りなので、とても寮の食事だけでは足りなかった学生たちも多かったろう。
この時代、スポーツでもっとも人気が高かった試合は、大学の野球Click!にラグビー、レガッタ(隅田川ボートレース)の早慶戦だった。ラジオでは、必ず実況中継が行われている。1932年(昭和7)の試合は、レガッタの早慶戦が4月29日に行われ早稲田大学の勝利、野球では東京六大学野球の春のリーグ戦で、法政大学が米国への海外遠征で不在となり、また早大も出場を辞退したため早慶戦は実現せず、東京帝大が「3位」に入賞している。(4位は明治大学だったが、東大は現在でもこの成績を超えられていない) このとき、優勝したのは慶應大学Click!だった。秋の大会には6大学がそろい早慶戦も実現して、おそらく慶大が勝利している。(優勝は法大、2位が慶大で3位が早大だった) ラグビー早慶戦の試合は11月23日に行われ、33対5で早大が圧勝している。ちなみに、当時の談話室主任は伊藤という学生だった。
さて、「昭和」第8号には「園芸だより」と題する、庭の手入れをまかされていた学生の報告も掲載されている。庭の管理をする園芸委員は、報告を書いた松平(おそらく徳川家の姻戚だろう)と、もうひとりの学生のふたりだったが、とうに花期をすぎて初冬を迎えた荒廃をつづける庭園を前にして、ついに完全に開きなおった。
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最早冬風も身に澄み渡る此の頃寮の花壇は一向花らしいものもない。唯百日草だけが一人ボツチなんとなく咲いてゐる。一体園芸係は何をしてゐるんだ。そこで我々といつても二人はこの二学期始まつて以来、およそ今日に至る間、あの花壇の花、又は土にその手を触れたことは、数へるばかり、そして、反つて、それを誤りとするぐらゐ。その怠慢なる事はもう遠くに過ぎて、まるで他人の家の花壇みたいな気だ。故にそんな事でどうするかとの度々のお叱りでもはや何で(ママ:に)も感じない程である。しかし、本当に去年の秋から比べると実に、寂莫たるものがある。実に吾々の全く手の行きとゞが(ママ:か)ない所に深く深くお詫びをします。がも早や今学期は残り少くなりました。故今学期は、このまゝお許しを願つて来学期よりは、新なる一大決心と努力を以つて寮の花壇のために尽します。
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半分投げやりな、こんな文章を書いておきながら、きっとふたりの学生は厳冬の三学期に花壇の手入れをすることなど、ついぞなかっただろう。土いじりをしながら花を育てるなど、華族の子弟にしてみれば庭師か“女子ども”の仕業だと思っていただろうから、園芸委員に選出されたこと自体が“他人ごと”であり、その自尊心から当初よりやる気がなかったのかもしれない。
寮誌「昭和」をはじめ、寮の設備や備品を購入するために学生からは寮費が徴収された。3ヶ月に一度のサイクルで、1回に3円、1年間で12円が徴収されている。たとえば、1932年(昭和7)の1月から3月までの寮費は、寮生が43人だったため合計額は129円となっている。ただし、寮費の予算では賄いきれない出費があると、学生たちからそのつど臨時徴収をしていたらしく、同年1月~3月の臨時徴収額は14円62銭だった。また、学習院OBからのカンパもあり、同誌には目白へ引っ越してきたばかりの徳川義親Click!から10円が寄付されている。
◆写真上:昭和寮本館の南側で、花壇は寮棟との間と本館西側にあったと思われる。
◆写真中:学習院昭和寮の本館(現・日立目白クラブ)における内外観の現状。
◆写真下:上左は、1935年(昭和10)前後に宝塚の男役トップスターだった葦原邦子。上右は、学習院の学生オーケストラを指揮した近衛秀麿Click!で娯楽室には録音盤があったろう。中は、1943年(昭和18)10月16日に早稲田の戸塚球場Click!(のち安部磯雄を記念して安部球場)で開かれた学徒出陣直前の「最後の早慶戦」Click!で、1塁側の早大応援スタンドから3塁側の慶大スタンドを撮影している。下は、1926年(大正15)作成の「高田町北部住宅明細図」に採録されている目白駅前の「田中屋」。これが昭和寮の出店と同一の店舗かは不明だが、「蕎麦うどん」屋の匂いがする。