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Channel: 落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)
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下落合を描いた画家たち・吉岡憲。(2)

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吉岡憲「高田馬場風景」.jpg
 再び、吉岡憲の「下落合風景」をご紹介したい。前回ご紹介した『目白風景』Click!は、画面の上半分が新宿区下落合1丁目(現・下落合2丁目)、下半分が豊島区高田南町3丁目(現・高田3丁目)だったが、吉岡は今回もほぼ同様の風景モチーフで描いている。ただし、視点は『目白風景』に比べてかなり南へ下がりぎみだ。タイトルは『高田馬場風景』とつけられているけれど、前回と同様に画面の上3分の1が下落合1丁目で、画面の下が高田南町3丁目となっており、高田馬場駅がある新宿区戸塚町3丁目のエリアはまったく描かれていない。吉岡は地域や町の名称ではなく、あくまでも最寄りの国鉄駅名を題名に採用しているようだ。
 手前を斜めに横切っているのは、旧・神田上水(1966年より神田川)の流れで、架かっている橋は山手線との距離感から神高橋Click!のひとつ下流にある高塚橋だと思われる。高塚橋の手前に描かれた、三角形の狭い敷地も戸塚町3丁目(現・高田馬場2丁目)ではなく、橋の向こう側と同様に高田南町3丁目だ。神高橋から高塚橋、さらに下流の戸田平橋の間は、高田南町3丁目(豊島区)が神田川を越えて大きく南側の戸塚町(新宿区)側へと食いこんでいるが、これは戦前に旧・神田上水が整流化される以前の川筋を区境として設定したためだ。吉岡憲は、高塚橋の南東側にある高い位置から、北北西に向けてキャンバスに向かっている。制作されたのは、『目白風景』と同様に1950年(昭和25)前後ではないかと思われる。
 画面の上3分の1ほどのところを、左から右へ上がりぎみに横切る線は、山手線の線路土手だ。もう少し画角が広ければ、左手には西武新宿線の山手線ガードClick!が描かれただろう。山手線の上部に描かれた丘と、密集した白い建物は『目白風景』とまったく同様に、下落合1丁目406番地の学習院昭和寮Click!(1953年から日立目白クラブClick!)だ。描画ポイントが神田川の南側で、画角が広いせいか下落合1丁目の丘上に拡がる「近衛町」Click!から、目白駅Click!のホームがある金久保沢Click!の谷間あたりまでが画面にとらえられている。画面の右枠外には、学習院の丘が東へと連なっているはずで、吉岡憲は山手線で掘削された目白崖線のちょうど“切れ目”を描いていることになる。
 手前の高田南町3丁目に目を向けると、ビル状の建物はいまだ見えず、ほとんどが商店や町工場、住宅とみられる家屋ばかりだ。前回書いた『目白風景』の描画ポイントの可能性があるビルは、画面の右枠外に建っていると思われる。ひょっとすると、『目白風景』よりもこの『高田馬場風景』のほうが、制作時期が少し早いかもしれない。吉岡憲は、上落合1丁目のアトリエからこの位置まで足を運んで制作しているとき、学習院の丘の手前に3~4階建ての新築ビルがあるのを確認していた。次は、もう少し丘上にある学習院昭和寮Click!の建築群に近づき、あのビルの屋上から描いてみようか?……、そんなことを考えながら制作していたのかもしれない。
 さて、吉岡憲がイーゼルを据えている位置、すなわち高塚橋のすぐ南東側には、神田川と橋をこのように見下ろせる高い丘や崖はない。早稲田通りから神田川までは、河岸段丘の北向き斜面だが、川岸の近くまできてこれほど落ちこんでいる地形は存在しない。とすれば、吉岡憲はやはり高塚橋の南詰め近くに建っていた、3~4階建てのビルの屋上へ上って描いているのではないだろうか。はたして、描画ポイントと思われるその位置に、当時としては少し高めな同様のビルがあるだろうか? 神田川を挟み、南側の一帯は二度にわたる山手空襲Click!や、空襲に備えた建物疎開Click!(防火帯36号帯)で、ほとんどの街角が焼け野原ないしは空き地と化している。
 1948年(昭和23)の空中写真では、いまだ空き地で建物が1軒も見えないが、1957年(昭和32)の空中写真には高塚橋から南東70~80mほどのところに、おそらく建物の影から3~4階建てと思われる、白っぽい小さなビル状の建築を見つけることができる。地番でいうと、高田南町3丁目790番地ということになる。吉岡憲は、おそらく前回の『目白風景』と同様に、このビルの管理者へ頼みこんで屋上にイーゼルを据えたのではないだろうか。遠くまで見わたせるのはビルの北側、つまり神田川の川岸にかけて建物がなく、1957年(昭和32)に撮影された空中写真の時点でさえ、いまだ空き地のままだからだ。
吉岡憲3.jpg 高塚橋1956.jpg
高田馬場風景1956.jpg
 『高田馬場風景』が描かれた時間帯からだろうか、建物の影や光の反射から真昼に近い情景と思われ、高塚橋やその手前の路上にはたくさんの人影が見える。おそらく、昼休みに食事をしに建物から出てきた社員や工員たちだろうか、このあたりは戦前戦後を通じて大小の会社や工場がひしめいていた。その多くが製薬業や印刷業、染色業、製綿業、あるいは印刷に必要な用紙業など、川筋に集まりやすい業種だった。吉岡憲は、手前に川が流れ遠方に丘が見える、同じような構図を採用した『江戸川暮色』という作品も制作している。やはり、川の手前にある描画ポイントは高い位置から橋を見下ろしたものであり、非常に似かよった構図を採用している。
 吉岡憲の図録や資料の多くは、この「江戸川」を現代の呼称のまま解釈し、『江戸川暮色』を葛飾区あるいは江戸川区の情景としているけれど、「江戸川」とはもちろん現在の神田川のことだ。なによりも、現・江戸川の川岸近くに高い丘陵は存在しないし、また、こんな小さな橋が架かるほど江戸川は“小川”でもない。吉岡が『江戸川暮色』を制作した当時、関口の神田上水の分岐点だった大洗堰跡Click!(現在の大滝橋)あたりから下流にある飯田橋の舩河原橋Click!、つまり外濠へと注ぐ出口あたりまでは江戸川と呼ばれていた。また、江戸川公園あたりから上流は、いまだ江戸時代と同様に旧・神田上水のままであり、この川筋の名称が東京都によって正式に「神田川」と名づけられ統一されるのは、吉岡の死後、1966年(昭和41)になってからのことだ。
 さて、『江戸川暮色』の画面を観察すると、下の江戸川(現・神田川)には小さめの橋が架かり、大通りへと出る手前には焼け跡から復興したのだろう、家々がいくらか建ち並んでいるが、空き地もまだ目立っているようだ。陽光は画面の右手から射しており、「暮色」なので当然そちらが西側だ。吉岡は、橋の手前の高い位置から南側を向いて描いており、正面に描かれた夕陽に映える丘状の高台は、当然、江戸川(神田川)へとゆるゆる下る河岸段丘の北斜面ということになる。
 1948年(昭和23)に、米軍のB29から爆撃効果測定用に撮影された焼け跡だらけの空中写真と、1956年(昭和31)の空中写真とを見くらべてみると、この風景に合致する江戸川(現・神田川)沿いの風景は、大滝橋から舩河原橋までの間でほぼ1ヶ所しか存在していない。描画ポイントは、江戸時代から「江戸川」と呼ばれつづけた流域がはじまる、ほかならない大滝橋Click!の北北東側から南南西の方角を向いて描いた情景だ。手前を流れる江戸川(現・神田川)と、並行して見える通りは飯田橋交差点の下宮比町から延長されてきた、十三間通りClick!(現・目白通り→新目白通り)だ。
吉岡風景「江戸川風景」.jpg
江戸川暮色1948.jpg
 まず、神田川と十三間道路との間にはやや距離があり、そこに住宅や商店が建ち並んでいる様子が描かれているので、この風景は江戸川橋から上流だと規定することができる。1948年(昭和23)現在も、あるいはそれ以降も、江戸川橋から下流は川沿いを十三間道路が通っているのであり、道路と川との間には“隙間”が存在しない。川と道路の間にスペースができ、住宅や商店が建ち並ぶのは、江戸川橋をすぎてから面影橋までの間であり、その流域で江戸川と呼ばれる川筋は大滝橋あたりから下流であることにも留意したい。そしてもうひとつ、手前の橋から大通りへと出た道が、そのまま通りの向こう側へと連続していない点にも注意したい。つまり、道筋の先がT字路になっている橋は少なく、情景を絞りこめる大きな特徴だ。
 また、十三間道路(新目白通り)の向こう側左手には、明らかに四角いビル状の建物が描かれている。この位置には、空襲による延焼でも焼け残った、鉄筋コンクリート造りの耐火校舎だった鶴巻小学校がある。鶴巻小学校から右手に、まるで長屋のように西へとつづく建物は、大学通り(現・早大正門通り)沿いに建設されていた長屋状の商店建築だ。この長い商店建築が途切れる、画面右手の枠外には、緑がこんもりと繁った大隈庭園Click!大隈講堂Click!があるはずだ。
 画面の正面に見える丘状の高台は、天祖社や正法寺、龍善寺など寺社から並んだ杜だと思われ、尾根沿いには早稲田通りが走っている。丘の右手には、早稲田実業の校舎も描かれているのだろう。当時の町名でいうと、早稲田鶴巻町から早稲田町の街並みで、この画面に描かれた丘上のピークは正法寺の境内あたり、標高約23mということになる。
 『高田馬場風景』の高塚橋から、『江戸川暮色』の大滝橋までは直線で約1,800m、川沿いをそのまま歩いていけば20分ほどでたどり着ける距離だ。アトリエのある上落合1丁目からでも、ブラブラと30分も歩けば大滝橋まで出ることができる。吉岡憲は大滝橋までくると、いまだ防空壕が残る戦争の跡も生々しい江戸川公園の、ほとんどバッケ(崖地)状になった急斜面へイーゼルを立て、南南西の方角にキャンバスを向けている。作品のタイトルは、大滝橋あたりから下流の名称が江戸川だと厳密に認識していたというよりも、自身がイーゼルをすえている場所が江戸川公園だから……という、施設名をタイトルに冠した可能性が高いようにも思える。
吉岡憲2.jpg 大滝橋1956.jpg
江戸川暮色1956.jpg
 現在の神田川は、繰り返された洪水を防止するために、川幅も水深も戦後の拡幅・浚渫工事で大きくさま変わりし、大滝橋も現代的な仕様の橋に架けかえられている。江戸川公園は、ほぼ当時の姿で残っているものの、その斜面に上ってみても高いビルやマンションが林立していて、吉岡憲が目にした『江戸川暮色』とはほど遠い風景になっている。

◆写真上:1950年(昭和25)前後に制作されたとみられる吉岡憲『高田馬場風景』で、2003年(平成15)に刊行された『追憶の彼方から~吉岡憲の画業展~』(いのは画廊)より。以下、作品画面と吉岡憲の肖像写真は同図録より引用。
◆写真中上上左は、画道具を開く吉岡憲。上右は、『高田馬場風景』を描いたとみられる高田南町3丁目790番地の新築ビルで1956年(昭和31)の空中写真より。は、1956年(昭和31)の空中写真にみる『高田馬場風景』の描画ポイントと画角。
◆写真中下は、同じ時期に描かれたらしい吉岡憲『江戸川暮色』。は、1948年(昭和22)の空中写真にみる『江戸川暮色』の舞台となった江戸川と早稲田周辺。鶴巻小学校の耐火校舎が焼け残り、大学通り(現・早大正門通り)は拡幅工事中で長屋状の商店建築が建てられているのが見える。
◆写真下上左は、昭和初期に撮影された吉岡憲。上右は、1956年(昭和31)の空中写真に見る大滝橋と江戸川公園の描画ポイントあたり。は、1956年(昭和31)の空中写真にみる『江戸川暮色』の描画ポイントと画角。もう少し画角が広ければ、早大大隈講堂の特徴的なフォルムが画面右端に入っただろう。


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