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下落合を描いた画家たち・鈴木金平。

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鈴木金平「落合風景」.jpg

 中村彝Click!の親しい友人のひとりに、岸田劉生Click!と若いころから緊密に交流していた鈴木金平がいる。鈴木金平Click!については、以前にもこちらで中村彝が語った言葉をたどる記事で、彼が記録したノートを引用しながら少しご紹介している。また、鈴木金平は下落合800番地のアトリエ(借家)に住み、同じく800地番に住んでいた鈴木良三Click!や、下落合804番地Click!にアトリエをかまえた鶴田吾郎Click!、あるいは下落合623番地のアトリエで暮らしていた曾宮一念Click!とも親しく交流している。
 少し横道へそれるが、大正期に下落合800番地とその周辺域へ建てられたアトリエ付きの借家群、いわば長崎の昭和期に建てられた「アトリエ村」Click!に先行する下落合の「アトリエ村」Click!とでも称すべきエリアの形成には、彫刻家・夏目貞了Click!の兄である日本画家・夏目利政Click!が深く関与していることがわかってきた。このテーマについては、また改めて詳しく文章にまとめてみたいと思っている。
 さて、きょうは鈴木金平が描いた下落合の風景画をご紹介したい。『落合風景』とタイトルされた本作は、制作年代がはっきりしていない。中村彝の死後に描かれた作品とみられ、その風景画の影響が色濃く見られるのだが、おそらく大正の最末期から昭和初期の作品ではないかと思われる。キャンパスは310×390mmと6号Fに近いサイズで、どこかの谷間か崖地の淵に沿った道を描いているのは、左手に見える斜面ないしは崖下に建っているらしい家の屋根から想定することができる。太陽光は左手ないしは左斜め後方から射しており、したがって画面の左手が南の可能性が高い。(冒頭写真)
 もともと木枠に張られていたキャンバスを、上下に拡大して使っているのは明らかで、ひょっとすると別の画面が描かれていたキャンバスを、新たに大きめな木枠に張りなおして重ねて描いているのかもしれないし、また、当初は大きめに描かれた画面だったが、なんらかの事情により小さめのサイズに仕立てなおしていたものを、改めて元のサイズにもどしているため、表面にこのような痕跡がついてしまったのかもしれない。実物を見ていないのでなんともいえないが、既存作品のサイズを変更するため、キャンバスをトリミングして小さめの木枠に張りなおすことは、まれに見られる現象だ。
 さて、この谷間ないしは崖は、下落合のどこを描いたものだろう? 当初は、中村彝アトリエClick!の前に口を開けた谷戸である林泉園Click!の界隈を疑った。しかし、大正末の時点でさえ、このような鬱蒼とした風情は、もはや林泉園沿いには存在しなかっただろう。大正の後半から、林泉園は東邦電力あるいは東京土地住宅による宅地開発が行なわれ、「近衛新町」Click!と名づけられて西洋館や同社の社宅が整然と建ち並び、テニスコートさえ設置されていた。そして、なによりも林泉園沿いの崖道に特徴的な、道路の両側にあるはずのサクラ並木が存在しない。画面右寄りに見えている、枝を拡げた樹木はケヤキと思われ、自然そのままの武蔵野原生林の風情が感じられる。
 下落合464番地のアトリエClick!にいた中村彝が存命中から、換言すれば関東大震災Click!の直後から、下落合の風景は大きく変貌しはじめていた。それまでは華族の巨大な屋敷群や、別邸の大きめな西洋館が建ち並ぶ郊外別荘地だったものが、関東大震災を契機として市街地から住宅の波が押し寄せてきたのだ。本作品は、鈴木金平の画集で1935年(昭和10)に描かれた『鶴田吾郎氏の像』の前に分類されているので、大正末というよりは昭和初期に制作された作品の可能性が高いように思える。その制作時期を勘案すれば、ますます下落合に深く入りこんだ谷戸沿いの風景とは考えにくい。
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鈴木金平「鶴田吾郎像」1935.jpg
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鈴木金平「夏の夕」.jpg

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鈴木金平19240527.jpg
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文野朋子.jpg

 曾宮一念アトリエの南側に口を開けた、大六天Click!のある諏訪谷Click!の風景でもない。諏訪谷とその周辺は、佐伯祐三Click!が繰り返し描いているように、1926年(大正15)の秋にはすでに空き地が目立たないほど家々が建てこんでおり、この画面のような樹木が密集するような風景は、すでに過去のものとなっていたはずだ。目白文化村Click!が開発された、前谷戸とその周辺域はどうだろうか? 前谷戸の可能性があるとすれば、第一文化村や箱根土地本社ビルClick!(この時期は中央生命保険倶楽部だったろう)のある位置から、ずいぶん南へと下った会津八一Click!秋艸堂Click!があるあたりだろうか。そうすると、今度は崖すれすれの道が存在せず、また左手が南らしい画面の方角とも合致しなくなってくる。
 下落合の地形把握をもとに、素直に画面を眺めてみるなら目白崖線のどこか、南斜面の崖淵ギリギリに細い道が通うポイント、そして下落合800番地にあった鈴木金平アトリエから、それほど遠く離れてはいない場所ではないかと想定してみる。すると、昭和初期における崖沿いの風景として想定できるのは、薬王院Click!の周辺か青柳ヶ原Click!の南側にあたる久七坂筋Click!、また青柳ヶ原をはさんで西側の谷戸である不動谷Click!(西ノ谷)、そして徳川邸Click!のある西坂あたりの風景ではないかと思われる。ただし、これだけの画面要素から、具体的に描画ポイントを絞りこんで特定するのは困難だ。このような風景は、上記に挙げたエリアのあちこちで見られた可能性がある。
 鈴木金平は、比較的裕福な薬種商の家に生まれ、子どものころを築地界隈ですごしている。近くに住んでいた、同じ画家をめざす岸田劉生Click!とは、溜池白馬会研究所を通じての親しい間柄であり、フューザン会にもそろって入会している。このあたりの事情を、1977年(昭和52)に中央公論美術出版から刊行された、鈴木良三『中村彝の周辺』から引用してみよう。
  
 (鈴木金平は)岸田とは住所も近所で、両家とも薬屋だったので直ぐ仲よしになり、一緒に築地川あたりで写生をし、当時のハイカラなメトロポリタンホテルの旧い建物などをお互いに描いたりしていた。/その後、岸田に誘われてフューザン会に入会したが、鈴木信太郎は絵がまづいからといってフューザン会には誘われなかった。(中略)/ある夏、(鈴木金平が)土肥へ例によって銈三兄たちと出かけた時、曾宮が美校の学生服を着て写生に来ているのに会い、後に彝さんのところで兄弟のようなつき合いになる縁が結ばれた。/その後、谷中の本行寺Click!岡田式静坐会Click!で計らずも彝さんを知り、初音町の飯屋の二階に彝さんを訪ねて絵を見て貰うようになったのだが、「そんなんじゃ駄目だ、もっと写実に生きねばならぬ。君は土瓶一つだってしっかり描けやしない」といって鞭撻され、以来、物心両面に師匠や、兄のような立場で面倒を見て貰った。(中略)/下町育ちの金平にも江戸っ子風の気っぷがあり、曲ったことの出来ぬ性格で、小さな体ながら議論では負けないといった強さも持っていた。野球など好んでやったが、負けても理屈では勝ったのだと言い張るような男だ。(カッコ内引用者註)
  
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鈴木金平1926.jpg

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鈴木金平1936.jpg

 また、曾宮一念とは早い時期からのつき合いで、鈴木金平が暗い写実主義を追究する草土社Click!を結成した岸田劉生から離れ、外光派の中村彝に接近したころからの知人だったようだ。1916年(大正5)に彝が下落合へアトリエを建設して間もなく、曾宮一念は彝アトリエで鈴木金平を見かけている。また、生涯の友人となる鈴木良三や鶴田吾郎などとも、中村彝や彼の死後に結成された大正末の中村彝会Click!を通じて知り合い、1928年(昭和3)には「三人展」を画廊で開いたりしている。
 このあたりの事情を、1990年(平成2)に三彩社から出版された滝谷彩子・編による『鈴木金平画集』所収の、曾宮一念「小土肥以来」から引用してみよう。
  
 大正五年初めて会った中村彝は五年五月に下落合のアトリエにうつった。或る日中村を訪ねると金平さんが来ていて、小土肥以来の再会で更に親しくなった。鶴田吾郎は中村とほぼ同年だが、金平さんと(鈴木)良三さんと私とは一つ二つ違いの青年で、まだ武蔵野の面影の残る長崎村や練馬を歩き廻った。金平さんを街道にあった茅葺の二階に訪ねると葡萄と梨の静物を描いていた。越後の海岸で瓦焼き風景を、隅田川では両国橋と円い国技館を、小土肥の時よりも健実な(ママ:堅実な)画風になっていた。これは関東震災頃の記憶である。/中村の死後のアトリエ保存のため暫く居たので私は毎日会っていた。今村繁三の庭内にアトリエが建ち、金平さんがその執事格になったので二人はしばしばモネやルノアールを見たり、シスレーを今村まで借りて来たりした。(カッコ内引用者註)
  
 曾宮一念が、中村彝に初めて会ったのは、同年の正月に今村繁三Click!の主催で芸術家たちを集めて開かれた、牛鍋会Click!の席上においてだった。鈴木金平は、彝の存命中から落合地域の近くに住んでいたと思われ、品川にあった今村繁三の広大な庭園内に建てられたアトリエの一時暮らしをへて、下落合800番地に住んでいるものと思われる。そして、1929年(昭和4)10月には長崎町大和田1942番地へ、つづいて1935年(昭和10)には長崎仲町1丁目2483番地へと転居している。
 時代が前後するけれど1922年(大正11)12月、鈴木金平に長女が生まれたとき中村彝は「澄子」と命名して、その名づけ親になっている。中村彝が鈴木金平に贈った、そのときの祝いの詩が残されている。鈴木良三の『中村彝の周辺』から、再び引用してみよう。
  
 Cybèleに育まれ、Eurotusの水に清められし古き希臘の乙女の如く
 その心はしみづの如く、清く、ゆたかにその眼、青空の如く澄みて、/
 ほがらかに、花の如く、真珠の如く、大空わたす七彩の玉橋の如く
 清く、朗らかに、大いなれと
 「澄子」のみ名をささぐ。

  
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崖淵1.JPG

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崖淵2.JPG
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崖淵3.jpg

 鈴木澄子は、のちに文学座へ入り杉村春子Click!の弟子となって、その後継者とまでいわれるようになった。芸名は文野朋子といい、知っている方も多いだろう。その後、文学座を神山繁らとともに飛び出し劇団雲、やがて劇団円を結成していく。神山繁と結婚して、“おしどり夫婦”と呼ばれ評判になったのもこのころのことだ。岸田今日子Click!や南美江とともに、同劇団を代表する女優となり、数多くの映画やドラマに出演することになるのだけれど、それはまた、別の物語……。

◆写真上:鈴木金平が下落合800番地に住んでいたころ、昭和初期に近所の崖を描いたとみられるほぼ6号Fサイズの鈴木金平『落合風景』。
◆写真中上:上左は、1935年(昭和10)に描かれた鈴木金平『鶴田吾郎氏の像』。上右は、おそらく岸田劉生と仲がよかった大正初期の鈴木金平『夏の夕』。下左は、1924年(大正13)5月27日に中村彝アトリエの庭で撮影された鈴木金平。下右は、鈴木金平の長女で中村彝が名づけ親の鈴木澄子こと俳優・文野朋子。
◆写真中下は、1926年(大正15)作成の「下落合事情明細図」にみる下落合800番地界隈。いまだ、鈴木金平は同所へ引っ越してきていないと思われる。は、1936年(昭和11)に撮影された空中写真。昭和初期に比べ家々がさらに増えているが、緑の点線は『落合風景』のような風情があったと思われる場所。
◆写真下:現在でも、バッケ(崖)Click!の上からは似たような風情を眺めることができる。


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