かなり前に肺結核の治療をめぐり、雑司ヶ谷上屋敷(現・西池袋2丁目)で暮らした宮崎龍介Click!が1924年(大正13)に行なった、納豆療法Click!についてご紹介していた。植物性の高タンパクと「清水」を集中的に摂取することで、彼の結核は実際に治癒している。大正末から昭和初期にかけ、このような医薬を用いずに生活習慣や食生活を変えて病気を治療する、「自然療法」ないしは「食事療法」がブームになったようだ。
高田町雑司ヶ谷347番地(現・雑司が谷1丁目)に研究施設をかまえていた、関口定伸という人物はニンニク療法を研究して、昭和初期に「にんにく丸」という錠剤を発明している。今日では、ニンニクの効用や殺菌作用は広く知られており、各社からさまざまな粒状の健康食品が発売されているが、昭和初期にはめずらしいサプリメントだ。
おそらく、「ニンニク療法」は大正期から広く知られていたと思われるのだが、ニンニクをそのまま摂取するため、消化器系への刺激が強すぎたり、いちいちすりおろすのに多大な手間ヒマがかかったり、また、なによりも臭いが強烈で、いつでもどこでも、また誰もが手軽に行える「療法」とはいい難かった。関口定伸という研究者は、大正期から雑司ヶ谷で研究をつづけていたと思われるのだが、大正末から昭和初期にかけ、ついにすりおろしニンニクの錠剤化に成功している。
ちなみに、高田町雑司ヶ谷347番地という地番は、現在の日本女子大学寮Click!の広い敷地内にあるテニスコートの西側、銭湯「高砂湯」のある街角の一画だ。宝城寺や清龍院の南300mほどのところ、現在は暗渠化されている弦巻川Click!に沿った斜面下にあたる。1919年(大正8)に刊行された『高田村誌』(高田村誌編纂所)には、残念ながら関口定伸の研究施設は収録されていない。また、1926年(大正15)に作成された「高田町東部住宅明細図」では、雑司ヶ谷347番地は地図の上端に省略され、住民名や施設名までは採取されていないエリアとなっている。
1928年(昭和3)発行の「主婦之友」2月号には、ニンニク療法をめぐる特集記事「医者にも見放された難病を/にんにくで手軽に全治した実験」が7ページにわたって掲載されている。実際にニンニク療法で治癒した、6つのケーススタディが詳細に紹介されているのだが、記事のリード部分を引用してみよう。
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にんにくが、あの一種厭ふべき臭ひを有すると共に、不思議な薬効を有することは、昔から知られてゐます。けれども、それは多くは医者の門をもくゞりかねる、貧しき人々の間に於ての実験でありました。ところが、このごろはどんな高価な医薬にも不自由のない、上流家庭の間に於ても、『病気といへばにんにく』といふほど、非常な評判を高めてまゐりました。これといふのも、その効能に驚くべきものがあるからでございませう。病気でお困りの方は、このお金を要せぬ奇効のにんにく療法を試みて御覧なさいませ。
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掲載された6つの事例は、治療者の地位や実名とともに記事にされており、また罹患した病気の種類も多種多様にわたる。6つのケースとは、以下のとおりだ。
・二年越しの重い肺病をにんにくで全治した経験 某病院長夫人 西川はな子
・重症の脊椎カリエスをにんにくで全治した経験 陸軍中佐夫人 長尾かく子
・絶望的ヂフテリアをにんにくで全治した経験 高橋すみ子
・命とりの面疔と乳腫れをにんにくで全治した経験 浅野同族会社総務夫人 藤堂まさぢ
・死を待つばかりの肺病をにんにくの灸で全治した経験 川崎とし子
・恐ろしい重症の赤痢をにんにくで全治した経験 池澤寛二
この中で、いちばん上の西川はな子「二年越しの重い肺病をにんにくで全治した経験」が、病院を経営する夫が西洋医の院長夫人なので、記事の一部を引用してみたい。西川はな子という女性は、1918年(大正7)に大流行したスペイン風邪(インフルエンザのパンデミック)を罹患し、それがきっかけで重症の肺炎を起こして夫の病院へ緊急入院している。翌1919年(大正8)の秋まで、およそ10ヶ月以上も入院生活を送ったが微熱がとれず、思い切って退院し自宅で療養をつづけることになった。
だが、病状は快方に向かわず、身体が徐々に衰弱して床を離れられなくなっていく。身体が弱っていたせいか、立てつづけに腸カタルや感冒などの疾病にかかり、1日じゅう咳が止まらなくなってしまった。最悪の肺結核も疑ってみたが、夫の病院の診断ではあくまでも慢性的な肺炎だったらしい。咳と下痢が止まらず、食事も十分に摂れないために、20日間ほどで骸骨のようにやせ細ってしまった。「自分でも愈々今度は駄目だと覚悟したくらゐでした」と、彼女はついに死を意識したようだ。
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ところが、ふとにんにくを食べてみようと考へつきました。が、臭いのが皆なに気の毒ゆゑ、自分で擂らうとしても、その気力さへありません。幸ひ越後から来たばかりの女中がゐましたので、その子に一かけらづゝ卸して貰つてオブラートに包み、冷くした牛乳一合で、午前十時と午後三時と、そして寝しなの三回、毎日欠かさず服用いたしました。/忘れもしません----一月の二十二日から飲み初めて、二月の節分頃になりましたら、不思議なほど咳が止つてしまひました。それ以来薬は一滴も用ひずに、にんにくばかり服用してをりました。/その頃の『主婦之友』誌上には、原博士の『肺病患者は如何に養生すべきか』といふ記事が連載されてをりましたので、従来臨床の医者からは、とても教へて頂けない注意を受けて、養生するやうになりました。そして一年ばかりのうちに、すつかり元の丈夫な体になつて、以来五年間毎日元気に孫の世話をいたしてをります。
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この事例は、生ニンニクの抗菌作用や抗酸化作用、身体を温める作用などが大きな効果を発揮したものか、それとも牛乳+ニンニクで急速に免疫力が回復して、肺ないしは気管支の慢性的な炎症を克服できたのか、治癒の要因や経過は明らかでない。しかし、彼女が「ふとにんにくを食べてみようと考へ」ついたのは、昔からつづく民間療法の伝承に気がついたばかりでなく、大正期の婦人誌にはニンニクによる「食事療法」について書かれた記事が、ぽつぽつ掲載されはじめていたからではないだろうか。
西洋医薬が無効な慢性的疾患に対して、さまざまな「自然療法」や「食事療法」、あるいは「身体療法」が試みられているのは、いまも大正時代もまったく変わらない。このような時代背景を強く意識しながら、関口定伸のサプリメント「にんにく丸」は研究開発されていたのがわかる。では、1928年(昭和3)の「主婦之友」2月号に掲載されている、「にんにく丸」に関するボディコピーの一部を引用してみよう。
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整腸殺菌 保温強壮 にんにく丸
◎薬嫌ひな子供でも服みよい丸薬/にんにくといふ薬草が、肺、肋膜、急性慢性の胃腸病、其他一般虚弱な体質への改善にも適応して卓効のあることは本誌の記事で御覧の通りです。非常に強度な殺菌力を持ち、盛夏の下痢、厳寒の感冒、疾病等にも驚くべき効験があります。殊に冷え症の方には保温剤として歓迎されて居ります。
◎何故一般に常用されないか?/左程諸病に卓効のある薬草が如何して万人向きに賞用されないでせうか? 其は一口に申す「にんにく臭い」といふ欠点で仮りに生の儘適量以上嚥下しますと強烈な悪臭を口中から何時迄も発し其上社交対談の際のみならず清潔好きな私共が家庭生活の上にも相手に忌み嫌はれます。胃腸を刺戟して薬草が毒草になるからです。(中略)
◎此丸薬の創製から薬嫌ひな子供でも/オブラートに包んでも又丸薬其儘でも楽に嚥下することが出来、胃腸を整へ、精力を増強せしめ、呼吸器病に適応し、而も従来の「にんにく臭い」といふ言葉を打ち消し社交上毫(すこ)しも他人に悪感を与へるやうな憂はなく、其上服み憎い肝油の代用としても常用することが出来ます。以上の諸病に悩める方々に是非御試用を御奨めいたします。
十日分三百粒入金一円七十銭 三十日徳用瓶九百粒入金四円五十銭
製造者 東京市街高田雑司ヶ谷三四七 関口定伸
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300粒で10日分ということは、1日に30粒、三度の食事のあとに10粒ずつ飲む計算になるので、毎回かなりたいへんな「嚥下」だったのではないだろうか。もっとも、広告に添えられたイラストを見ると、錠剤は小さな球体で、森下仁丹Click!よりはやや大粒という感じだろうか。このひと粒が、大豆ぐらいのサイズだったりすると、ちょっとつらい。
当時の日本人は、ニンニクを家庭で調理して食べたり、健康食として意識的に摂る食習慣はほとんどなかった。「主婦之友」のケーススタディのように、なにかの病気に罹患した際、やむをえず(イヤイヤ)摂取するのがほとんどだったろう。今日では、家庭でも中華料理やイタリア料理へ手軽に使われるニンニクだが、当時はニンニク臭が極度に忌避されていた時代だ。いまや、ニンニクのエキスを凝縮したサプリメントは、TVのCMでも日々ふつうに流れているけれど、大正末ないしは昭和初期の関口定伸による「にんにく丸」の発明は、かなり画期的なものだったと思われるのだ。
◆写真上:日本女子大学の、広い大学寮に沿ってつづく当初からの築垣。学生時代から親しみをこめて「ぽんじょ」と呼び馴れているが、学生寮の警戒はいかめしく厳重だ。
◆写真中上:1928年(昭和3)発行の「主婦之友」2月号に掲載された、「医者にも見放された難病を/にんにくで手軽に全治した実験」の特集記事。
◆写真中下:上左は、1930年(昭和5)の1/10,000地形図にみる雑司ヶ谷347番地界隈。上右は、1947年に撮影された空中写真にみる同界隈。下は、雑司ヶ谷のこの一帯は空襲の被害をあまり受けていないため、古い木造の西洋館をいまでも見ることができる。
◆写真下:上は、「主婦之友」同号に掲載された「にんにく丸」の広告。下は、1931年(昭和6)ごろに撮影された弦巻川。奥に見えているのは宝城寺の境内で、弦巻川を画面右手へ300mほど下ったあたりに関口定伸のニンニク研究所が建っていた。